第8話―第四夜―芳根公園の奇妙な旅
「おじいちゃん。もう横になったよ」
『うむ、いるぞ』
『小霊、眠くないか? 今日は少し早めに寝る?』
「なんで?」
『昨夜、お前ずっと寝返りを打っていただろう』
『なかなか眠れなかったように気がした』
「眠くないよ」
「全然大丈夫」
『ならいい』
『しかしな、お前が夜中に話しかけてくると思っていた』
『結局、一度も声をかけてこなかった』
「……」
『じゃあ、昨日の話を続けよう』
「嫌だ」
「昨日の話はもういい」
『ほう?』
「私なりに考えたから」
『どんな考え?』
「説明しない」
『なんで?』
「それこそが、生きる上で最も高い境地だって、おじいちゃんが教えてくれたんでしょ?」
『ふふ、なるほど』
『少し大人になったな』
「当然! 最近、いっぱい考えたんだから!」
「私ね――」
「開悟したの!」
『開悟?』
「うん! 最近よく聞く言葉じゃない?」
「ビュって、いろんなことがわかるようになって、さささって、大人になったみたいな感じ」
「急に世界の見え方が変わるっていうか……」
「とにかく、すごく不思議で、特別なこと!」
『その言葉だけ知っている』
『もともとは仏教の言葉だな』
「えっ?知らなかった」
『それに、そんな不思議なものじゃない』
『漢字だけを見ればわかる』
「どうやって?」
『ほら、その「悟」って、どう書く?』
「心に、吾」
『吾は自分のことでしょ』
『なら――自分の心を開くこと』
『それが開悟じゃないか?』
「えぇ……」
「この説明、簡単すぎじゃない?」
『もともと難しいもんじゃないから』
「でもさ」
「おじいちゃんにはなかったの?」
「急に世界が変わったみたいな経験」
『あるぞ』
「あるんだ!」
『何度もな』
『だが、不思議だと思ったことは、一度もない』
「例えば?」
『そうだな……』
『芳根公園って、覚えてるか?』
「うん! 一緒に行ったんじゃない」
「お父さんも、お母さんも、ワンちゃんもいたし」
「釣りもできるし、バーベキューもできる」
「いいところだ。ちょっと遠いけど、車で二時間かかるから」
『そう、あの公園』
『私が初めて行った話だ』
「うん」
『そりゃ、何年前かなぁ……車で行って』
『着いたら車を降りた瞬間――』
『小霊、聞こう』
『私がどんな感じだったと思う?』
「えっと」
「世界が変わった?」
『トイレはどこだ』
「おじいちゃん!」
『冗談じゃないよ』
『二時間だぞ、二時間』
「もう……」
『で、周りを見渡した』
『腰の高さほどの草ばかりだ』
『トイレらしきものは見えないんだ』
『やぁ、いっそ草むらに――』
「ダメだよおじいちゃん!」
『やっておらん』
『近くに係員がいるから』
「だって、聞けばいいじゃん、トイレどこ」
『聞いた』
『すると、あの山の向こうだと言われた』
「あっ思い出した! でも遠い」
『遠おぉ――すぎだった』
「なんでそんな遠いところ?」
『私も聞いた』
『近くに建てると、景観を損ねるんだって』
「……」
『そんなこと、議論の余裕はなかった』
『それで、トイレへ向かって走った』
『途中で転んだし』
「転んだの!?」
『ああ。 だが、けがはない』
『起き上がりながら思った』
『こんな公園、二度と来るものか』
『景色は普通だし、トイレは遠いし、とな』
「その後は?」
『私は走り続けた。 途中で何度か道を間違えたが』
『ようやく見つけたんだ。 トイレ』
「入った?」
『入った』
「ほっ」
『そして出た』
『小霊、今度の私、どんな感じだったと思う?』
「……なんとなく嫌な予感がする」
『ううん、さっきお前に出た話』
「えっ?」
『世界が変わった』
「あっ! わかった」
『わかった?』
「世界が変わったじゃなく、気分が変わった」
『その通り』
『芳根公園の景色は何も変わっていない。美しい場所だった』
『でも……』
「なに?」
『振り返ってトイレを見た時』
『ここに建てても、景観を損ねているな、と思った』
「おじいちゃん!」
「恩知らず!」
『人間なんて、そんなものだ……』
『そして帰り道、私は転んだところで立ち止まった』
「なんのつもり?」
『振り返りだ』
「振り返り?」
『そう』
『けがはないか』
『何か落としてないか』
『いろいろチェックしたんだ』
「えぇ」
『地面も確認した』
『木の根だった』
「危ないなぁ……」
『そして、車の場所まで戻ったところ』
『すみません、トイレはどこですか、と話しかけられた』
『詳しく教えてやった』
「ちょうどいい」
『しかも』
『足元に木の根があるからな、転ばないように気を付けろ、と』
『丁寧に教えてた』
「優しい!」
「たぶんあの人はね」
「運が良かったって思った」
「詳しい人に会えたって」
『でも、その経験……』
『痛いぞ』
「はははっ!」
『だから、小霊』
『開悟って、不思議だと、まだそう思ってるか?』
「……」
『どうした?』
「面白すぎて」
「最初に何を聞いてたか、もう忘れちゃったけど」
『面白い話じゃない』
『本気でトイレに行きたかった……』
「つまり、開悟した人でも、トイレには行く」
「はははっ!」
『ん……そのまとめ……』
「まだ終わってない」
『で?』
「開悟した人だけじゃなく」
「おじいちゃん……超人も行きたい、トイレに」
『……』
「行ってきます!」
『ふふ……』
「……」
『……お帰り、超人小霊』
「うん……」
『え?どうした?』
『急に元気なさそう』
「……明日よね」
『何が?』
「お父さんとお母さんが帰ってくるの」
『そうか』
「それで、新しい写真の安置式」
「明後日の午後三時に決まったんだって」
『つまり』
『明日の夜が最後だな』
「……うん」
『小霊』
『何を考えている?』
「……」
「おじいちゃんは?」
『そうだな……』
『聞きたいことを、よく考えておけ』
『明日の夜、聞いてくれ』
「何でも答える?」
『うむ』
「本当に?」
『もちろんだ』
「じゃあ、よく考えなきゃ」
『ふふ、小霊』
『お前も、ちゃんと寝るんだぞ』
「うん」
「おやすみなさい、おじいちゃん」
『おやすみ』




