第2話―序章①―葬式・自殺
これは最初の一文じゃない。
いや、最初の一文だ。
正確には、あとから付け加えた最初の一文。
これが最終版。
もう直さない。きりがないから。
それと、下に続くあの冗談みたいな話とは、まったく関係ない。
いや、そもそもこんな一文を加えたこと自体、意味なんてない。
……あるわけない。
いや、違う。意味はある……
今の私は少し支離滅裂だ。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだから。
私は、まだあの女を信じるべきなのか、わからない。
少なくとも前までは信じていた。
だから私は、あんな冗談みたいな話を彼女に見せた。
絶望した女が、老いていく話。
私を、また騙していたのか。
それとも、彼女自身も真実を知らなかったのか。
私はまた、彼女が二十二歳の誕生日に聞いた言葉を思い出す。
生きているみたいで、
死んでいるみたいだった。
意味がわからない。
私は、あの少年が墓石の前で、考え込んでいる姿を見た気がした。
聞いてみたくなる。
「君の考えが正しいのか?」
「それとも、私が正しいのか?」
それとも、どっちも間違っているのか。
じゃあ、正しいって何なんだろう。
どうやって証明するんだろう。
……
彼女は洗濯洗剤を買いに行ったみたいだ。
もう、私ひとりしかいない。
あの世界へ行く。
次元の真実を探しに……
序章① 葬式・自殺
今日は、彼女の二十二歳の誕生日だった。
陳嘉霊は、退屈そうに目を上げ、この冷たく厳かな式場を見回した。
去年の会場と、どこか似ている。
……いや、少し狭いかもしれない。
ただ、今年は白と黒ばかりだった。
去年は、こんな色じゃなかった気がする。
なかったっけ?
と、陳嘉霊は去年の誕生日会の色を思い返す。
淡い青が中心だった。
白と黒はなかったのか。
それとも、自分が気づかなかっただけなのか。
でも彼女はすぐに、そんなことには何の意味もないと気づいた。
陳嘉霊は自嘲気味に笑い、再び周囲へ視線を向けた。
みんな悲しそうな顔をしている。
なのに、どこか芝居じみて見える。
しかも演技が下手だ。
去年、「君の未来はきっと明るい」とか、「ずっと幸せでいてね」とか言っていた人たちと同じだった。
舞台にも立てないような、安っぽい演技。
ただ一人だけ、本気で祝福してくれた人がいた。
祖父だ。
『小霊、じいちゃんはな、お前がもっと金持ちになって、ちゃんとしたズボンを買えるようになることを願ってるぞ。穴の空いたズボンなんか履くな。じいちゃんくらいの歳になったら、足が痛くなるからなぁ……』
「もう、おじいちゃん。わかってないなぁ。これがファッションなの。」
『そうか、そうか……でも端っこだけでも縫っとけ。穴ってのはな、どんどん広がるんだ。広がりすぎたら、もうおしゃれじゃなくなるぞ……』
そこまで思い出して、陳嘉霊はまた笑った。
今度は、少し温かい笑いだった。
彼女の視線は、再び式場の中央へ向かう。
そこには、祖父の遺影が飾られていた。
写真の中の祖父は、去年と同じように優しく笑っている。
祖父は彼女を見つめていた。
その眼差しは、淡い青空みたいに温かかった。
写真に青なんてない。
この会場にも。
なのに、その目には深さがあった。
まるでブラックホールみたいに。
すべてを飲み込む穴。
たとえば――記憶とか。
彼女の記憶の中で、祖父は誰よりも自分を可愛がってくれた人だった。
心の底から。
あの日のことを、彼女はまだ覚えている。
初めて彼氏を家に連れてきた日だ。
祖父はその青年をとても丁寧にもてなし、最後には玄関まで見送りに行った。
でも扉を閉めたあと、泣いた。
家族が「なんで泣いてるの」と聞くと、祖父はこう言った。
『こんな子、わしは知らん。でも、うちの小霊をあいつに渡したんだ……』
「じゃあ、なんでそんなに優しくしたの?」
『わしが優しくしなかったら、あいつも小霊に優しくしてくれんかもしれんだろ。』
その言葉に、隣で聞いていた陳嘉霊は、顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりしていた。
祖母は早くに亡くなった。
陳嘉霊には、ほとんど記憶がない。
彼女は祖父と二人で育った。
祖父の書斎には、大きな本棚があった。
そこには退屈で難しそうな哲学書がぎっしり並んでいた。
ほとんどがペーパーバックだった。
祖父は普段あまり喋らない。
いつも本を抱え、眉間を固く結んでいた。
本を読んでいるのか。
それとも考え込んでいるのか。
机に向かうその老人を見ていると、よくわからなくなることがあった。
そんな祖父が、一番よく喋ったのは、幼い頃の陳嘉霊に昔話を聞かせる時だった。
どんな話だったか、彼女はもう覚えていない。
というより、最初からちゃんと聞いていなかった。
どうせ「いい子になりましょう」みたいな話ばかりだった。
話が終わるたび、祖父は必ず何かを付け足した。
優しい声だった。
でも、少し厳しかった。
陳嘉霊はそういうのがあまり好きじゃなかった。
ただ、その口調から一つだけ伝わってきたことがある。
たとえ物語の中の“いい子”になれなくても、
祖父だけは、ずっと自分を可愛がってくれる。
ずっと。
幼い陳嘉霊は眠そうな目をこすりながら、祖父の眉間を眺めていた。
もう二度とほどけないように見える、その皺。
でも不思議と、昔話をしている時だけは少し緩んで見えた。
結び目じゃなく、
小さな蝶結びみたいに。
一週間前。土砂降りの午後だった。
祖父は買い物に出かけ、途中で傘を落とした。
でも、二度と拾い上げることはなかった。
祖父の眉間の蝶結びが、とうとうほどけた――
そんな知らせを受けた時、陳嘉霊は会社の狭いデスクで、上司に見つからないよう隠れながら、彼氏から送られてきた別れのメッセージを読んでいた。
一昨日、上司が彼女を呼び出した。二日後、一緒に取引先へ行ってほしいと言う。
その客は重要人物らしい。
上司の娘の結婚式で、一番大きな祝儀を包んだからだ。
陳嘉霊は、「その日は祖父の葬式です」と答えた。
上司はまず、“人間味のある上司”の演技を始めた。
もちろん、演技は下手だった。
そのあと彼は提案した。
「葬式は、リモート参加でもいいんじゃない?」
そして付け加える。
「ただ、客先には見つからないようにね。失礼だから。」
最後のその演技だけは、祖父みたいだった。
本気っぽくて、細かいところまで気が回っていて。
陳嘉霊はそう思いながら、淡々とこう返した。
「じゃあ、辞表書いてきます」
そう言って、上司の部屋を出た……
葬式は長く、退屈だった。
でも妙に滞りなく進んでいく。
その時、突然、誰かのスマホが鳴った。
やたら大きな音だった。
陽気な女の声が、民謡みたいな歌を式場に響かせる。
「今日はいい日〜♪ 願い事が叶う日〜♪」
中年の女性が慌ててバッグを漁り、ようやくスマホを見つけて通話ボタンを押した。
「もしもし!今まだ陳じいさんのお葬式なのよ……」
彼女は口を押さえ、小声で続ける。
「……洗濯洗剤?あとで買うって……もう、あんた死人よりせっかちねぇ」
失言に気づいたのか、彼女は慌てて顔を上げ、周囲の反応をうかがった。
陳嘉霊は目を伏せた。
祖父の葬式?
陳嘉霊は、三度目の笑みを浮かべた。
その笑いには、いろんな感情が混ざっていた。
自嘲。
期待。
無力感。
そして――冗談みたいな荒唐無稽さ。
いや。
これは祖父の葬式だけなんかじゃない。
私の葬式でもある。
化粧ポーチの隅で、一本のリップクリームが静かに転がっていた。
すぐ隣には、睡眠薬の小瓶があった。
妙に近い距離で……
その夜。
その小瓶は、二十二年前の母親の腹みたいに――
空になった。




