私の英雄
ある日の放課後。
空が赤くなってきた頃。
陽菜は3階にある渡り廊下に来ていた。
あの日以降もずっと続いたいじめ。それはますますエスカレートしていった。
ここ数日は殴る、蹴られるどころか刃物で切られるのすら軽く思えるほどの仕打ちを受けていた。
比較的マシだったのといえば、腹部をライターで炙られたことだったろうか。
未だに炙られた部分はヒリヒリとするが、それ以外の怪我が痛すぎて相対的に痛みを感じなかった。
一番痛いと感じたのは、彼女らからの暴力ではなかった。
彼女らから殴られ、蹴られている間に僅かに見えた人の目。
それは哀れみでも同情でもなく、嘲笑だった。
自分より下位の存在がいることに安心した彼らの顔。
その顔を見るたび、私の心のヒビは大きくなっていった。
助けてくれる人なんていない。その絶望が、最も痛く、苦しかった。
そして私は渡り廊下の柵を乗り越え、外壁沿いのわずかな足場に立つ。
きっとここから落ちる痛みは、ほんの一瞬だが今までのどんな痛みよりも痛いのだろう。しかし、その一瞬の痛みで二度とあの苦しみを味わないですむなら。そう思い、私は最後の一歩を歩もうとする。
体が宙に浮き、全てが終わる―――はずだった。
飛び降りる直前の私の左腕を何かが掴む。
宙に浮いて落ちるはずの体が落ちず、私は困惑しながら上を見る。
上を見ると、一人の少年が私の左腕を掴んで柵から身を乗り出している。
「ちょっ…離して!」
私はその手を振りほどこうとするが、彼の力は強く、全く離れそうにない。
まもなく、彼は私を廊下の内側へと引き戻してしまった。
「どうして…どうして助けたの!やっと楽になれると思ったのに!」
渡り廊下の内側に戻ってしまった私は泣きながら彼に問い詰める。
やっと。やっとあの苦しみから解き放たれるはずだったのに。
私は生き残ってしまった。きっとまた明日からあの苦しみを味わい続けなければならない。
私はパニックになり、頭を抱えながら泣き続けた。
すると、少年はこちらへ近づいてきて、私の目の前に座る。
「そりゃあ、目の前で自死しようとしてるやつを見殺しにしてられねえよ」
「私にとってはその方が良かったの!」
彼の言葉に対し、私は自棄になって怒鳴る。
「私の受けている苦痛なんて知るわけないでしょ!どうしてそんな知った口を…!」
「知ってたよ。割と前から」
その言葉を聞いて、心の中で抑えていたものが爆発する。
「ならなんで…助けてくれなかったの…?なんでさっきみたいに助けてくれなかったの…?」
少年は顔を少し俯けながら言った。
「確実に助けたかったんだ。証拠を掴んで、あいつらを絶対に追い詰めるために…だけど、そのために見て見ぬふりをしたときもあった」
そして少し黙ると―――
「…あいつらと一緒だよな。悪かった」
彼は頭を下げた。
その行動に、私はひどく困惑した。
彼は私を助けてくれたのに…どうして?
「それでその…」
少年は頭を上げると、私に聞く。
「償いになるかはわからないけど、これから一緒にいさせてくれないか?」
意外な申し出に、私は困惑する。
「えっ、どうして…」
「一人でいたら、また狙われるだろ?なら、俺がずっと傍で守る。どんなところにいこうが―――俺が絶対一人にしない」
一人にしない―――その言葉に根拠なんてものはまったくなかった。
だけど、その言葉は今まで聞いたどんな言葉よりも説得力があって、何より頼もしかった。
凍っていた心の氷が解けていく。
彼という太陽の光と温もりが、その氷を少しずつ溶かしていく。
気づけば私は彼の腕の中で泣いていた。
氷の中で閉ざされていた全てを解き放つように、大泣きした。
気がつけば、夕焼けに染まっていた空は暗くなっていた。
泣き止んだ私は、彼に名前を教えてもらった。
“天夜優地”。
それが、私を冷たい檻から救ってくれた英雄だった。
「その日から優地はずっと一緒にいてくれました。朝の通学路から休み時間、帰り道まで。3年生からはクラスも一緒だったので、授業の時もずっといてくれました」
陽菜は話し終えると、徳姫の方を向いた。
「大変だったね…」
徳姫は少し涙を流しながら話を聞いていた。
「あの後、優地は私のために、いじめの証拠まで全部出してくれたんです。いじめを主導してた子は別の学校に転校して、ようやく私は安心して学校で生活できるようになりました」
陽菜は徳姫へ笑顔で話した。
「私、優地と一緒にいる時間が一番幸せなんです。安心感があって…温かくて…」
そこまで言うと、陽菜の言葉が一瞬詰まる。
「だからこそ…もう、離れたくないんです。優地がいなくなると、今の自分が崩れてしまうような気がして…。だから…学校でもあえて距離を取ろうとしました。優地は優しいから、自分から離れたりしない。
だから嫌われようと思ったんです。冷たくして、避けて…そうすれば、私のことなんて嫌いになってくれるんじゃないかって。でも…」
相反する言葉に疑問を覚えていると、徐々に陽菜の声が涙声になっていく。
「…でも、やっぱり…つらいん…です…!」
陽菜は必死に我慢していたが、抑えきれなかった数滴の涙が頬を伝う。
「私…優地と離れたくないです…!でも、これ以上私のせいで傷ついても欲しくないんです…!」
「陽菜ちゃん…」
聞いてるだけでも胸が苦しくなった。
目の前の少女は今、選べるはずのない二択を迫られていた。
どうにかしたいが、どうにもできない。
少し歪な無力感が、徳姫の心を覆った。
その頃、北支部の一室。
そこに優地と天音が二人で対面していた。
「なるほど…そんなことがあったのね」
優地は陽菜の過去を天音に話していた。
「ええ…だからこそ、俺はあいつを守らなきゃいけない。ずっと一緒にいなきゃいけない…だけど」
優地が唇を噛みしめる。
「陽菜は強くなった。でも、それ以上に危険な道へ入ってしまった。尊重したい気持ちはあるんです。でも、それ以上に…やっぱり、あいつが死ぬかもしれないと考えるだけで怖いんです」
「…確かに、恋人を想う気持ちは納得します。でも…」
天音は脳裏によぎった一つの疑問を投げかける。
「優地さんは、どうしてそこまで陽菜さんを心配するのですか?」
「そりゃもちろん、あいつが好きだから…」
「それだけではないはずです」
優地の言葉を遮るように、天音が問い詰める。
優地は少々黙り込むが、それから深い溜息をはいて言う。
「…それ、聞いちゃいます?」
「ええ…じゃないと、お二人のことを知ることができませんから」
優地は少し考えた後、席を立つ。そして横にある給茶器から水を入れ、天音に渡す。
「少し長いんですけど良いですか?」
天音は迷わず頷く。
「んじゃまあ…しばらく付き合ってもらいますよ」
優地は一度息を吐く。
「話すのは―――俺の過去について、です」




