ひび割れる心
冷たい風が吹く川越。まだ朝は人々の口元に白い息が見えるが、それでも空は明るく、春の気配を僅かに感じ始める。
節分も過ぎた頃、陽菜たちの学校はようやく再開した。
まだ一部の建物は修理が続いているが、生徒たちの使う教室は工事が完了し、生徒たちもようやく日常へ戻ろうとしていた。
教室へ向かう廊下を、一人の少女が歩いている。
その後ろを、一人の少年が追いかけてくる。
「陽菜、あのさ…」
少年―――優地は陽菜に声を掛けるが、陽菜はそっぽを向いて歩いていってしまう。
そんな二人をさらに後ろから見ている徳姫と天音。
「二人、ずっとあんな調子だね…」
「まああの日、色々ありましたから…」
先日の戦いではいろんなことが起きた。
謎の二人が現れ、優地が襲われ重症を負い、陽菜と徳姫も敗北した。
あの日以降、陽菜の様子がおかしい。
あんなに大事にしていた優地と一切会話をしようとしない。
二人と出会って間もない徳姫と天音でさえ、その異変に気づいていた。
「あの言葉…私、やはり引っ掛かっているんです」
天音は思い出す。陽菜があの戦いのあとに言った言葉。
『絶対に一人にしないって、言ったのに…』
「あの時の陽菜さんからは、恐怖のようなものを感じました。おそらく…」
「優地くんを失うこと…?」
徳姫の回答に対し、天音が頷く。
「それも極度に」
「たしかに…」
徳姫は先の戦いのことを思い出す。
「優地くん襲撃の一報を聞いた陽菜ちゃんはとんでもなく焦ってた。いつもの雰囲気が崩れちゃうくらい…」
「…もしかしたらなのですが、陽菜さんの愛は…」
天音はその言葉を発するのに抵抗を覚える。それを言うことは、彼女らの愛を否定するも同然だから。しかし、それを言わなければ彼女らの心の中にある暗闇にたどり着くのすら不可能だと感じた。
「…陽菜さんの愛は、恋慕ではなく…依存に近いもの、なんでしょう」
「…それなら納得はいくね」
陽菜が優地へ向けているのは恋慕ではなく依存―――納得はいくが、それでも理解したくなかった。
「ねえ、天音ちゃん…」
徳姫が少し引き気味に言う。
「私たちは、二人のことを知らなきゃいけないのかもしれない。それこそ残酷なことまで…」
「お二人の触れてはいけないことも…知れる範囲でいいから知る必要がありそうですね」
二人は決意した。
陽菜と優地。二人を知ることを。
6限のチャイムが鳴ってから数分後。陽菜は徳姫に屋上へ呼ばれていた。
屋上にあるベンチに座った徳姫に対し、陽菜が問う。
「…どうしたんですか、徳姫さん」
「陽菜ちゃん、あのね…」
そこまで言ったところで、徳姫の声が詰まる。
本当に彼女のことを聞いて良いのだろうか。会ってまだ1ヶ月の仲だ。それなのに、彼女の抱える何かを知っても良いのだろうか。
―――いや、知らなければならない。彼女が内に抱える何かを、きっと少しでも背負わなければいけない。そう感じたからだ。
「…できる範囲で良い。陽菜ちゃんのこと教えてくれないかな?」
そう徳姫が問うと、僅かに陽菜の体が震える。
「…本当に聞きたいんですか?」
「うん。私、陽菜ちゃんのことを知りたい。なにか苦しんでいるなら、少しでも良いから背負いたい。」
陽菜は少し考えてから、回答する。
「わかりました。ただ、その…よければでいいんですが」
陽菜は声を少し震わせながら言う。
「横にいてくれませんか?……一人で話すのが、少し怖くて」
「…いいよ」
徳姫は陽菜の質問にはっきりと答える。すると陽菜は、徳姫の横に座った。
「結論から言います。私は…中学の頃、いじめられていたんです」
昼を過ぎ、賑わう中学校。でも、私はそんな賑わいとはかけ離れた場所にいた。
体育館の裏。彼女らに呼ばれた私は重い足取りでそこに向かう。後ろには二人の女子がおり、逃げようとしてもすぐに捕まってしまうだろう。
「座れよ」
六、七人いる集団のうち、リーダー格の女子である✕✕が私に命令する。
「で、でも…昨日の雨でぬかるんでて…」
「知るか、座れって言ってんだよ!」
そう言うと、取り巻きの一人が私を押さえつけて無理やり座らせる。
「陽菜ちゃ〜ん?どうして昨日もってこいって言った額をもってきてないのかなぁ?」
「い、今ちょっとなくて…!明日不足分は持ってくるから…」
私の言葉を遮るように、✕✕が私の顔面を無理やり掴んで、地面の泥に押し付ける。
泥の気持ち悪い感触から逃れようとするが、彼女の手の力はますます強まり、私を更に強く押し付ける。
「明日、だぁ…?✕✕はな、今日持ってこいって言ったんだよ」
「落ち着きなよ、あたしは優しいからな。明日の放課後、倍の額持ってきたら許してやるよ」
「さすが✕✕さん!」
「お前も✕✕さんに感謝しろよ!」
「そんな、そんなの…」
無理に決まっている。今月のお小遣いをなんとかしてようやく集めた額だったが、これ以上はもう用意できない。
「なんだよ、払えねえのか?」
「やっぱり、ゴミはゴミだねー」
取り巻きがそんなことを話すと、私の腕を捕まえる。
もがいて逃げようとしても、手はほどけない。
「もしかして、払えねえのか?」
✕✕は私に問う。
「払います、払いますから…!だからこれ以上は…」
言い終わる前に、✕✕は私の腹にパンチを繰り出す。
強烈な一撃に、口の中に残っていた泥が吐き出される。
「うわ、きったね」
「✕✕さん、もう一発やっちゃいましょうよ!」
そうして、昼休みが終わる直前まで彼女からの暴力は止まらなかった。
交代交代で殴られ、蹴られ…この前と違って、カッターやハサミで腕を切られなかっただけマシだったろうか。
昼休み終了直前のチャイムが鳴ると、ようやく彼女たちは去った。
彼女らが去るのを見て、私も少し遅れて教室へ戻ろうとする。
途中の廊下で、服についた泥を洗い流す。
きっかけが何だったのかは覚えてなかった。ただ、それが長い間続いていることだけはわかった。
日が経つにつれて、私の心は徐々にすり減っていた。
教室へ向かう途中の階段でふと後ろを見る。
―――ここから飛び降りれば、楽になれるのだろうか
そんな疑問が、頬を伝う涙とともに浮かんでくる。
それほどまで、私の心は追い込まれていた。
だけどあれから数日たったあの日。
あの日、私の運命が大きく変わったのだった。




