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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第9話 数えられない

 収穫祭の二日前は、街じゅうが仕込みで動いていて、誰も髪のことを考えない。


 朝から扉が一度も開かなかった。開かないので、道具を全部出して並べた。櫛が七本、鋏が二挺、油の壺が三つ。母の並べ方に戻してある。


 櫛を一本ずつ拭きながら、わたくしは七年のことを考えていた。考えたくて考えたのではない。手が空くと、勝手にそこへ行く。


    ◇


 嫁いだ年の秋、初めてお義母様の冠を結った。


 朝の間に呼ばれて、椅子の後ろに立って、一度で上げた。右のこめかみのことは、その日のうちに気づいた。母の帳面に書いてあったからではない。見れば分かる。


 結い終わったとき、お義母様は鏡を見て、それから立ち上がって、部屋を出ていかれた。


 何もおっしゃらなかった。


 わたくしはそのとき、明日は何か言っていただけるのだろうと思っていた。二日目も三日目も、何もなかった。ひと月経って、これはそういうものなのだと分かった。


 二年目の冬、義妹様が熱を出された。三日寝込んで、起き上がった日に、髪が半分抜けたと泣かれた。抜けてはいない。熱のあと、毛が一時に細くなっただけだ。わたくしは撚りを二つ増やして、いつもより厚く見えるように結った。


 義妹様は鏡を見て、「ありがとう」とおっしゃりかけて、途中でやめられた。


 やめたのは、お義母様が廊下を通ったからだ。


 この家では、結い手に礼を言ってはいけないという決まりがあるわけではない。決まりはないが、誰も言わない。言わないことが決まりになっている家というのは、ある。


 三年目の夏、朝の間の窓の下に、わたくしは小さな台を置いた。座って結うと腰が楽になるからだ。三日でなくなった。誰が片づけたのか聞かなかった。聞けば、置いた理由を説明しなければならない。


 立ったまま結うと、一人につき四半刻、三人で四分の三刻かかる。七年ぶんを数えたことはない。数えると、なぜか腹が立つのではなく、悲しくなるので、やめた。


 四年目の春、旦那様が狩りにお出になる朝、わたくしは初めて男の髪を結った。旦那様のつむじはふたつあるので、どちらへ流しても割れる。割れないようにするには、二つのつむじの中間から前へ倒して、額の生え際で一度だけ押さえる。


 旦那様は鏡を見て、「うまいものだな」とおっしゃった。


 七年で、褒められたのはその一度だ。数えられるくらいしかないから、数えてしまう。


    ◇


 昼過ぎに、テアが来た。


 手ぶらで来て、いつもの台の隅に座って、それから、いつもと違って何も喋らなかった。


「テアさん」


「はい」


「今日は、どうかなさいましたか」


「……あの、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「アニエスさんのお母さんも、結い手だったんですよね」


「はい」


「じゃあ、アニエスさんの髪は、お母さんが結ってたんですか」


「そうです」


「ずっと?」


「亡くなるまでは」


 テアは膝の上で指を組んで、しばらく黙っていた。


「うちの母も、結い手でした」


 わたくしは櫛を拭く手を止めた。


    ◇


「靴屋に嫁ぐ前は、そうだったって。父が言ってました」


「そう」


「でも、わたしの髪だけは結えなかったんです」


 テアは自分の後頭部に手をやった。


「他の人のは結えるのに、わたしのだけ。硬いから、櫛が入らないって。何度もやって、途中でやめて。それで、三年前に死んじゃったから、結局最後まで」


 わたくしは並べた道具の前に立って、この子の頭をもう一度見た。


 硬い癖毛は、母親から来る。母親の毛が硬ければ、娘の毛も硬い。硬い毛を結うには、湯を使う。湯を使わずに櫛だけでやろうとすると、必ず途中で止まる。


 止まる。無理に引く。痛がる。やめる。


 櫛が止まったとき、結い手は二つのうちどちらかを選ぶ。抜いて下から入れ直すか、力を入れて通すか。抜くほうが正しいが、時間がかかる。朝の支度の途中なら、たいていの人は力を入れる。


 力を入れると、毛が切れる。切れた毛は短くなって、次に梳くとき、また同じところで引っかかる。


 その順番で、この子の母親は何度もやめたのだと思う。


 自分の娘の頭を、痛がらせながらやるのは、他人の頭より難しい。他人なら、痛くても座っている。娘は泣く。


「テアさん」


「はい」


「あなたのお母様は、下手だったのではありません」


「え」


「湯を使えばよかったのです。それだけです。ただ、家では湯を沸かすのに薪が要ります。毎朝、娘の髪のために薪を使う家は、そう多くありません」


 テアが顔を上げた。


 しばらく、こちらを見ていた。それから、目を伏せて、こう言った。


「あの。わたし、ここで働いちゃだめですか」


    ◇


「銭はいらないです。父にも言ってきました。靴のほうは弟がやるから、おまえは好きにしろって」


「テアさん」


「掃除でもなんでもします。見てるだけでもいいです」


「見ているだけでは、覚えません」


 テアの肩が下がった。


「手を動かさないと覚えません。ですから、明日から湯を沸かしていただきます」


 顔が上がるまでに、少しかかった。


「……それ、働いていいってことですか」


「銭は払います。少ないですけれど」


「いらないです」


「いる、と申し上げております」


 わたくしは並べた櫛のうち、いちばん古いものを一本取って、この子の前に置いた。峰が丸くなって、歯の先が減っている。母が最初に使っていたものだ。


 母がこれをわたくしに渡したのは、九つのときだった。渡すときに何か言われた気がするが、覚えていない。覚えているのは、木がもう温かかったことだけだ。人の手にずっと握られていた木は、机の上に置いてあっても冷たくならない。


「これは、あなたのです」


 テアはそれを両手で持ち上げて、しばらく見ていた。


 持ち上げたまま、テアは指で歯の先をなぞっていた。減っているところを確かめている。


「あの、これ、減ってますけど」


「減っているほうがよいのです」


「なんでですか」


「新しい櫛は、先が尖っていて地肌に当たります。当たると、お客様が痛がります。痛がられると、手が縮みます。縮んだ手では、掬えません」


 テアは櫛を胸のところで持ち直して、二度うなずいた。


「明後日は、収穫祭です」


「はい」


「朝のいちばん早い時間から、人が来ます。湯を切らさないでください」


    ◇


 その晩、店を閉めてから、わたくしは自分の髪を布で包み直した。


 七年、同じ手順だ。ほつれたところを撫でて、崩れないよう布をかけて、後ろで軽く結ぶ。


 姿見の前に立って、小さいほうの鏡を構えると、後ろが映る。


 映るが、映ったところで、わたくしには手が届かない。


 届かないというのは、腕の話ではない。ほどいてしまったら、母の結った形は、もう二度と戻らないというだけの話だ。


 この形には、名前がない。


 母は最後の朝、何も言わずにこれを結った。オルトレの形でもないし、どこの家の形でもない。輪はひとつで、後ろで低く留めて、余りを左へ流す。街のどの家の形とも違うし、丘の上のどれとも違う。


 当時は、思いつきで結ったのだと思っていた。


 いまは、そうは思わない。


 母はあの春、典礼院の廊下で「わたくしの手を持っていってください」と言った人だ。その言葉を言ったあと、店を閉め、台帳から名を消され、ひと夏で痩せて、秋に亡くなった。


 最後の朝、名前のない形を娘の頭に結ったのは、思いつきではない。


 ただ、何のつもりだったのかは、ほどいてみなければ分からない。


 ほどけば、消える。


 消えるものを、七年、頭に載せて歩いていた。

【結い手の覚え】硬い毛は、湯を使えば動きます。櫛だけでやろうとすると、必ず途中で止まります。


お読みいただきありがとうございます。


次話――収穫祭です。街じゅうの家が、頭に名前を載せて列に並びます。三番目の列に、空きが出ます。

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