第10話 収穫祭の列
夜明け前から、扉を叩く音がした。
開けると、テアがいた。約束の時間より一刻早い。前掛けをして、袖を紐でくくって、すでに息が上がっている。
「湯、沸かしました」
「まだ暗うございますよ」
「うち、竈が一晩じゅう燃えてるので。運んできました」
桶が二つ、扉の外に置いてあった。布をかぶせて、湯気が逃げないようにしてある。この子は、教えていないことを勝手に覚える。
その日、店は朝から動きが止まらなかった。
最初の客は魚市の女将で、次が仕立て屋の姉妹、そのあとは名前を聞く前に次が入ってきたので、順番が分からなくなった。テアが扉のところに立って、外の人に何番目かを言って回っていた。
こういう日は、一人にかける時間を決めておく。決めておかないと、丁寧にやりすぎて、待っている人が帰る。
母は四半刻と決めていた。四半刻で上げられない頭は、前の日に来てもらう。それが分かっているから、街の人は祭の前日に予約を入れた。今年は誰も入れなかった。この店が開いていることを、まだ半分の人しか知らない。
◇
収穫祭の朝は、街の女がみな髪を上げる。
ふだんは低く結んでいる人も、その日だけは形を作る。ヴァイス、ケラー、シュミット、フォーゲル。街の家の形は、たいてい後ろで一度か二度、留めるだけのものだ。娘が母から習って、それで足りている。
足りているのに、それでも来るのは、年に一度だからだ。年に一度は、人に結ってもらいたい。
わたくしは十一人結った。テアが湯を運び、油を温め、櫛を拭き、次の人を椅子に座らせた。合間に自分の髪も上げていた。上げ方は、この子が自分で考えたらしい。悪くない。悪くないが、留めが高い。
「テアさん。留めを、指二本ぶん下げてください」
「え、いま?」
「いまです。高いと、昼過ぎに前へ落ちます」
テアは鏡の前で、自分の手で留め直した。二度失敗して、三度目で入った。
◇
昼を過ぎて客が切れたころ、外の通りが急に静かになった。
列が動きはじめたのだ。
収穫祭の列は、広場から大聖堂までのひと続きの道を、家ごとに並んで歩く。順は決まっている。王家の縁続きが先頭、次に公爵家、そのあとに侯爵家が三つ。三番目が、レンヴァルトだ。
テアが扉から首を出して、それから戻ってきた。
「アニエスさん。見なくていいんですか」
「見ても、することがありません」
「でも」
わたくしは道具を拭く手を止めなかった。止めなかったが、通りの音は聞こえていた。人が動くと、足音より先に、話し声の高さが変わる。
しばらくして、その高さが変わった。
変わり方が、いつもと違った。
人が驚いたときの声は、高くなってすぐ低くなる。それから、しばらく戻らない。声が戻らないというのは、みんなが同じものを見ていて、口に出していいかどうか決めかねているということだ。
テアがもう一度、扉から首を出した。今度は長かった。
戻ってきて、椅子に座って、こちらを見ずに言った。
「三番目、飛ばされました」
◇
あとで、いくつかの口から同じ話を聞いた。
三番目の位置に、レンヴァルト家が来なかったのだそうだ。
来なかったのではなく、並べなかった。列の入り口には典礼院の係が立っていて、家ごとに頭を見て、名を読み、順を告げる。頭が読めない者は、そこで止められる。止められた人は、家の格に関わらず、いちばん後ろの、名を呼ばない列へ回される。
旦那様は並ばれた。男の髪には形がないので、男はいつでも並べる。
並べなかったのは、女たちだ。
お義母様は冠を上げていらしたが、右の輪が落ちて、上下が入れ替わっていた。係の者は形の名を読み上げようとして、二度読み直して、それから小声で何か言ったという。
義妹様は、そもそも上げていらっしゃらなかった。
ミレーユという娘は、そこにはいなかった。
列を止められた人は、そのまま帰ってもいい。帰らずに後ろへ回れば、大聖堂までは歩ける。ただし、名は呼ばれない。
お義母様は、回られた。
三十年、三番目で名を呼ばれてきた人が、その日はいちばん後ろの、名を呼ばない列を歩いた。前を歩いていたのは、パン屋の職人と、その隣が牛を引いた男だったという。
誰も笑わなかったそうだ。笑うような話ではない。
◇
夕方、広場の水汲み場へ桶を返しに行った。
祭のあとの広場は、屋台の骨と、藁と、踏まれた花で埋まっている。人はまだ残っていて、あちこちで立ち話をしている。話の中身は、たいてい同じだった。
その人混みの中に、黒い外套が立っていた。
左の膝をかばう立ち方で、頭には布をかぶっている。かぶった布の下で、右側だけが低い。
わたくしは桶を持ったまま、通り過ぎようとした。
通り過ぎるとき、お義母様が振り返られた。
目が合ったからではない。目は合っていない。わたくしは顔を伏せていたし、お義母様はまっすぐ前を見ていらした。
それでも振り返られた。
椿の油は、混ぜものをしていないと、ほとんど匂わない。ほとんど匂わないが、まったく匂わないわけではない。七年、毎朝その匂いのする手で頭に触られていた人には、たぶん分かる。
お義母様は、人混みの中で一度だけ振り返って、それから前へ向き直られた。
声はかけてこなかった。わたくしもかけなかった。
◇
店へ戻ると、テアが道具を並べ直していた。
「今日、何人でしたっけ」
「十一人です」
「うち、いちばん多いのって何人ですか」
「母のころは、この日に三十人と聞いています」
「三十!」
テアは櫛を落としそうになって、両手で受け止めた。
「三十って、朝から晩までですよね」
「朝の暗いうちから、日が落ちるまでです。人手が二人おりましたから」
「じゃあ、来年は三十いけますね」
わたくしは返事をしなかった。来年のことを、まだ考えていない。
考えていないことに気づいたのは、そのときだった。この店を続けるかどうかを、わたくしは一度も決めていない。出てきて、扉を開けて、来た人の髪を結っていただけだ。
屋敷にいた七年は、明日の朝の順番を数えていれば一日が終わった。順番は決まっていて、変える権利はなかった。決められないかわりに、決めなくてよかった。
いまは、誰も順番を決めてくれない。
「テアさん」
「はい」
「来年の祭は、前の日から予約を取りましょう」
テアは櫛を布に置いて、こちらを向いた。
「それ、来年もやるってことですか」
「そういうことになります」
「じゃあ、わたし、紙を持ってきます。名前を書く紙」
この子は、決めたそばから走り出す。走り出されると、決めたことが決まってしまう。
◇
戸締まりをしようとしたとき、通りの向こうに人が立っていた。
黒い外套の、年配の男の人だった。ひと月ほど前の夜にも、同じところに立っていた人だ。
今度は、こちらへ歩いてきた。
外套の襟に、銀の留め金がついている。細い鎖が二本、交差した形。典礼院の紋だ。
「オルトレのお嬢さんですか」
声は柔らかかった。人に物を頼み慣れた人の声だ。
「アニエスと申します」
「典礼院の、ラウリッツ・ケルンと申します。結髪局におります」
男は帽子を取って、頭を下げた。丁寧な下げ方だった。
「明日、お時間をいただけませんか。お仕事の話です」
【結い手の覚え】混ぜものをしていない椿の油は、ほとんど匂いません。ほとんど、というのは、まったくではないという意味です。
お読みいただきありがとうございます。
次話――典礼院の局長が、破格の条件を持ってきます。そして、七年前の縁談が誰の願い出だったのかを、この人が知っています。




