第11話 典礼院の申し出
ラウリッツ・ケルンという人は、約束の時間より四半刻早く来て、扉の外で待っていた。
中へ入れると、椅子をすすめる前に店を見回した。見回し方が客のそれではない。棚の高さ、鏡の位置、窓の下端。数えている目だった。
「よい店です」
「古いだけでございます」
「窓が低い。結い手の店は、こうでなくてはいけません」
この人は知っている。知っている人が来ると、話が早くなる。早くなるのが、よいことかどうかは別だ。
◇
「単刀直入に申し上げます」
ケルン様は鞄から紙の束を出して、台に置いた。
図が描いてある。頭を横から見た図に、線と数字が入っている。上から三つ、下から二つ、締めの位置は耳の上一寸。細かい。
「結髪院では、いま、形の記録を作り直しております」
「記録は、もうございましょう」
「名前だけです。名前と、正面から見た絵と。それでは足りないと、二十年前から分かっておりました」
わたくしは図を一枚取って、見た。
紙は上等で、線は定規で引いてある。頭の輪郭は横から、後ろから、上から。三方向とも同じ人の頭で描いてあって、しかも同じ大きさに揃えてある。誰か、絵の描ける人を雇ったのだろう。
数字も細かい。締めの位置は耳の上一寸、輪の直径は三寸半、留めは後頭部の中心から左へ半寸。
半寸まで書いてある。書いてあるということは、その半寸を測った人がいるということだ。誰か一人の頭で、一度だけ測った半寸が、そのまま全部の頭の数字になっている。
悪い図ではない。よく見て描いてある。ただ、これで結える人はいない。
「この図で、結えますか」
「結えません」
ケルン様は、意外なほどあっさり認めた。
「結えないから、伺いに来ました。図では足りない。ならば、手順を言葉にしていただきたい。あなたが結うところを見て、こちらの者が書き取ります。ひと月、通っていただければ」
「報酬は」
「年に八百」
わたくしは図を台に戻した。屋敷が出すと言った手当が、年に三百だ。
◇
「なぜ、そこまでなさるのですか」
「結い手が減っているからです」
ケルン様は、鞄の口を閉めながら答えた。
「王都に登録のある結い手は、三十年前に百四十七人おりました。いまは五十一人です。うち、丘の上の形を結える者は十九人。その十九人のうち、十四人は家に囲われております」
「囲われている、とおっしゃいますか」
「他に言いようがありませんので」
この人は、言葉を選ばない。選ばないのは、隠すつもりがないからだ。
「家に囲えば、その家は困りません。困りませんが、その結い手が死ねば、家ごと形を失います。フォルクマー家をご存じでしょう」
「昨日、お見えになりました」
「二十年、あの家の頭は読めておりません。うちの係が毎年、列で止めております。止めるほうも、気分のよいものではない」
◇
十四人。
母の帳面の、丸に点の印を思い出した。フォルクマー、ラントシュテット、ベルクマン、エッシャー。丸のついた家は途中から店に来なくなり、その代わりに、どこかの結い手が一人ずつ門の内側へ入っていった。
わたくしは十五人目だったことになる。わたくしは油の壺の蓋を、意味もなく開けて閉めた。
「ケルン様」
「はい」
「書き取っても、同じにはなりません」
「なぜです」
「形の名は同じでも、結い方は頭ごとに違うからです。フォルクマーの形は右が上、それは書けます。けれど、ヘートヴィヒ様の肩は右が高いので、交差を半寸だけ左へ寄せます。その半寸は、あの方の肩でだけ半寸です」
「では、それも書けばよい」
「二十年後、あの方の肩はもっと下がります」
ケルン様が黙った。
黙ったが、諦めた黙り方ではなかった。この人は、いま言われたことを紙に書き留めたい顔をしている。
「……つまり、記録は毎年取り直さねばならないと」
「毎年取り直しても、間に合いません。頭は毎日変わります」
「毎日」
「熱を出せば毛が細くなります。子を産めば抜けます。年を取れば、片側だけ薄くなります。結い手は、その日の頭を見て、その日の道を通します。昨日の道は、今日は通りません」
◇
ケルン様は、しばらく紙の束を見下ろしていた。それから、顔を上げてこうおっしゃった。
「それでも、書かねばなりません」
「なぜでしょう」
「結い手ひとりの手に、国の紋を預けておく。そのほうが危険でしょう」
声は、まだ柔らかかった。
「あなたが明日、階段から落ちたとします。レンヴァルト家の形は、その日から誰にも結えません。三十年、三番目に並んできた家が、頭を読まれなくなります。それは、あなたのせいではない。誰のせいでもない。誰のせいでもないことで家が沈むのは、制度が悪いのです」
この人は、悪意で言っていない。それが分かるので、余計に始末が悪い。
制度を直そうとしている人と、制度に食われた人は、同じ言葉を使って別のことを言う。ケルン様は「家が沈むのは制度が悪い」とおっしゃった。わたくしは、その制度に十九で組み込まれた紙のほうを、たったいま知ったところだ。
言っていることは、間違っていない。間違っていないことを、わたくしは黙って聞いていた。
◇
「お断りいたします」
「理由を、伺っても」
「わたくしの手を渡しても、渡した先で使えないからです。使えないものを渡して銭をいただくのは、商いではありません」
ケルン様は紙を鞄へ戻して、留め金をかけた。かけてから、思い出したように言った。
「レンヴァルト家のことは、お気の毒でした」
「はい」
「七年前、あの家から願い出がありました。当家に結い手を置きたい、ついては婚姻の形をとる、と。院は、それを認めております」
わたくしは、油の壺を持ったまま立っていた。
「願い出、でございますか」
「はい。書式がございます。囲い込みの届けは表向きの名がありませんので、実務では『長期専属』と書きます。婚姻の届けとは別に、こちらへも一通参ります」
「わたくしの名は、そこに」
「ございます。オルトレのアニエス。十九歳」
◇
ケルン様が帰ったあと、テアが奥から出てきた。
話は聞こえていたはずだが、何も言わなかった。何も言わずに、湯の残りを捨てて、桶を洗いはじめた。
わたくしは台の前に立っていた。
長期専属。書式がある、とあの人は言った。書式があるということは、一度きりのことではないということだ。書式は、繰り返し起きることにしか作られない。
あの縁談が来たとき、わたくしは十九だった。母が春に亡くなって、店を開けるか閉めるかを毎日決めかねていた。仲人は、三度来た。三度目に、母の位牌の前で話をした。
持参金はいらない、という言葉が、あのときはありがたく聞こえた。
七年前、あの縁談を持ってきたのは近所の仲人だった。持参金はいらないと言われ、よい話だと、みなが言った。母が亡くなって半年で、店を閉めるかどうかを決めかねていたころだ。
わたくしは、選んだつもりでいた。紙はもう、その半年前に回っていたのだ。
【結い手の覚え】昨日の道は、今日は通りません。熱を出せば細くなり、子を産めば抜け、年を取れば片側だけ薄くなります。
お読みいただきありがとうございます。
次話――院は、他の結い手から書き取りを始めています。そして弟子が、書けるならその方がいいのではないかと言います。




