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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第12話 書き取りの部屋

 典礼院の建物は、大聖堂の裏にある。


 石造りの四階建てで、入り口の上に細い鎖が二本、交差した紋が彫ってある。中へ入るのは初めてだった。母は何度も入っている。


 結髪局は三階だった。廊下は長く、両側に扉が並んでいる。どの扉にも番号がついていて、名前はない。


「こちらです」


 案内の若い人が、いちばん奥の扉を開けた。


    ◇


 部屋の中に、椅子がひとつと、机がふたつあった。


 椅子には老女が座っていた。七十を越えているだろう。背が丸く、手が節くれている。その老女の後ろに、若い娘が立って、髪を結っていた。


 机では、二人が書いていた。一人は文字を、一人は絵を。


「もう一度、いまのところを」


 書いているほうが言った。


 娘の手が止まって、いま留めたところを戻した。戻して、もう一度同じように留める。


「上から三つ、下から二つ、それから」


「それから、ここを」


「ここ、というのは、どこですか。耳から何寸ですか」


 娘は困った顔をした。


「……測ったことがありません」


「では測りましょう」


 書いているほうが立ってきて、糸尺を当てた。一寸半、と読み上げて、書いた。


 わたくしは戸口から見ていた。


 老女の頭は、上と下で毛の質が違っていた。年を取ると、たいていの人はそうなる。上のほうは細く柔らかく、うなじに近いところだけ、若いころの太さが残る。太いところと細いところがある頭は、同じ力で締めると、細いほうが先に負ける。


 娘は、そこを分かって手を変えていた。上を弱く、下を強く。二度、三度と締め直すたびに、力の配分を変えている。


 書いている人は、それを見ていない。見ていても、書けない。締めの強さは寸法にならないからだ。


 一寸半は、この老女の頭で一寸半だ。明日、別の人が座れば、一寸半では合わない。合わないことを、この娘は知っている。知っているが、言わない。言えば、この場が終わってしまうからだ。


    ◇


「いかがです」


 後ろからケルン様の声がした。


「あの方は、どちらの結い手ですか」


「エッシャー家におりました。先月、家が引き払いまして」


「引き払う、とおっしゃいますと」


「当主が亡くなって、跡継ぎが領地へ移りました。結い手は連れていかないそうです」


 老女は、その日から仕事がない。


 七十を越えて、家を出て、それで院が書き取りの席を用意した。座って喋れば銭が出る。断る理由がない。


「三月で、十一人ぶん集まりました」


「十一人」


「五十一人のうちの十一人です。年内に半分を目指しております」


 ケルン様の声は、誇っている声ではなかった。ただ、進んでいることを報告する声だった。


    ◇


 帰りに、廊下でもう一度立ち止まった。


 二十年前、母はこの廊下を歩いた。届けの紙を持って、係の人と話して、書けませんと何度も言った。


 どの扉の前で言ったのだろう。番号しかない扉は、どれも同じに見える。


 窓は廊下の端に一つしかなく、床の石は真ん中だけがすり減っていた。何十年も、同じところを人が歩いている。母もここを歩いた。図を何枚も抱えて、これでは同じにならないと言われて、それでも次の週にまた来たのだと思う。


 そのころ、わたくしは七つか八つだった。母が院へ行く日は、朝から店を閉めた。閉めた日の夕方、母は必ず遅く帰ってきて、何も言わずに道具を拭いていた。


「オルトレのお嬢さん」


 ケルン様が追いついてきた。


「気を悪くされたのなら、申し訳ありません」


「いえ」


「あなたのおっしゃったことは、こちらでも分かっております。書き取ったものだけでは結えません。ですが、何も無いよりは良い」


「何も無いよりは、とおっしゃいますか」


「フォルクマー家の形は、いま、この世に何人が結えるとお思いですか」


 わたくしは答えなかった。


「一人です」


 ケルン様は廊下の窓の前で立ち止まった。


「エッシャーの形は、先月まで二人でした。いまは一人です。その一人は六十八になります。ラントシュテットは、三年前にゼロになりました。あの家はいま、隣家の形を借りて出ております。借りるというのは、頭で嘘をつくということです」


「院は、それをお認めになるのですか」


「認めません。認めませんが、止めれば家がひとつ消えます。ですから見ないことにしております」


 この人は、自分たちのやっていることの見苦しさを、きちんと言葉にする。そこだけは信用できると思った。


    ◇


 店へ戻ると、テアが客を一人、待たせていた。


 待たせているあいだに湯を沸かし、油を温め、櫛まで拭いてあった。段取りは、もう教えることがない。


 その日の客が帰ったあと、テアが道具を並べながら聞いてきた。


「アニエスさん。今日、院に行ったんですよね」


「はい」


「どうでした」


「書き取っておりました」


「書けるんですか」


「書けません」


 テアは櫛を布に置いて、それから、こう言った。


「でも、書けるなら、書いたほうがいいんじゃないですか」


    ◇


「だって、うちの母、死んじゃったから」


 テアはこちらを見ずに続けた。


「母が結えた形、もう誰も知らないんです。父も知らないし、わたしも知りません。あれ、どこにも無いんですよ、もう」


「はい」


「だから、書いてあったらよかったって、わたし、思います。完璧じゃなくてもいいから。半分でも、三分の一でも」


 わたくしは、すぐには答えられなかった。


 答えられなかったのは、この子が間違っているからではない。


 書き取ったものでは結えない、というのは本当だ。だがそれは、書き取りに意味がないという意味ではない。フォルクマーの形が世に一人しか結えないという話を、わたくしはついさっき聞いてきたばかりだ。


 母は、書けませんと言い続けた。言い続けて、台帳から名を消された。


 もし母が、半分でいいから書きますと言っていたら、どうなっていたのだろう。


「テアさん」


「はい」


「その話は、少し考えさせてください」


 テアはうなずいて、それ以上は聞かなかった。


 聞かない代わりに、その晩は帰らずに残って、母の帳面を読んでいた。読めない字があると持ってきて、これは何と書いてあるのかと聞く。細い、湿りに弱い、夏は落ちる、去年より薄い。


「これ、結い方じゃないですよね」


「その方の髪が、どういうものかということです」


「これは書けるんですね」


「書けます」


 テアは頁をめくって、指で名前を追っていた。


「じゃあ、書けることは書いてあるんだ」


 わたくしは、帳面をそういうふうに見たことがなかった。


 母は書けないと言い続けた人だが、二百人ぶんの髪のことを、二十五年書き続けてもいた。書けないと言っていたのは結い方のことで、書けることのほうは、全部書いてあったのだ。


    ◇


 三日後に、王家の大祭がある。


 収穫祭は街の祭で、大祭は国の祭だ。列を歩くのではなく、大聖堂の中に座る。座る場所は家ごとに決まっていて、席次と呼ぶ。


 列は、頭が読めなければ後ろへ回されるだけで済む。


 席次は、そうはいかない。座れなかった家の席は、その日のうちに次の家へ回る。


 一度回った席が戻った例を、わたくしは聞いたことがない。

【結い手の覚え】一寸半は、その人の頭で一寸半です。明日、別の方が座れば、一寸半では合いません。


お読みいただきありがとうございます。


次話――三日後、大祭です。三十年守ってきた席が、その日のうちに動きます。

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