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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第13話 大祭の席次

 大祭の前日、店に来たのは十四人だった。


 街の人は大聖堂の中には入らない。入らないが、外の広場で待つ。待つときも頭は上げる。年に一度、国じゅうが同じ日に髪を上げるので、この二日は結い手の一年でいちばん忙しい。


 十四人めが帰ったのは、日が落ちてからだった。


 テアは湯を落として、桶を伏せて、道具を並べ直していた。並べ方が、わたくしの並べ方になっている。


「明日、何人来ますかね」


「明日は来ません。みな今日のうちに済ませます」


「じゃあ、明日は休みですか」


「休みです」


 テアは嬉しそうな顔をしかけて、やめた。休みだと聞いて嬉しそうにするのは、雇われている者としてどうかと考えたらしい。この子はときどき、余計なことを考える。


「先に、お帰りなさい」


「はい。あの、明日、うち来ませんか。父が」


「ありがとうございます。考えておきます」


 テアが出ていったあと、わたくしは扉を閉めに行った。閉めようとしたら、外に人が立っていた。


    ◇


 黒の外套に、頭には布。布の下の形は、上がっていなかった。


 お義母様は、髪を垂らしたまま立っていらした。夜の通りで、布をかぶって、それでも垂れた毛先が肩から前へ落ちている。


 わたくしは扉を開けたまま、立っていた。


 入れとも、帰れとも言わなかった。言えば、この人はどちらかを選ばなければならなくなる。


 お義母様は、一歩だけ中へ入っていらした。


 店の中を見回して、椅子のところで目を止めて、それから、鏡のところで止まった。低い窓の下に置いた椅子と、二枚の鏡と、油の壺。


「小さな店ね」


「はい」


「ここで、イルゼは三十年やっていたの」


「二十五年でございます」


 お義母様は椅子には近づかなかった。


 膝が悪いので、この方は立っているのがつらいはずだ。丘から街まで、また歩いて下りてこられた。夜に、布をかぶって、人の少ない道を選んで。


 椅子をすすめれば座られるだろう。座れば、客になる。客になれば、髪の話になる。わたくしはすすめなかった。


 すすめなかったのは、意地悪ではない。この方が何をしに来たのか、まだ分からなかったからだ。分からないうちに座らせると、こちらが話を決めてしまう。


    ◇


「明日、席がなくなります」


 そうおっしゃった。


「三十年、三番目でした。わたくしが嫁いだ年に三番目になって、それからずっと三番目」


「はい」


「先代の奥様が、四番目から三番目に上げた方でした。上げるのに十二年かかったとおっしゃっていました」


 わたくしは何も言わなかった。お義母様は鏡のほうを向いたまま、続けられた。


「わたくしは、その方に結っていただいていたのよ。嫁いだ年から、亡くなるまで」


「先代の奥様に、でございますか」


「いいえ。ヘルガという結い手に」


 その名前は、母の帳面には無い。


「ヘルガは、わたくしの髪を四十年結いました。四十年、毎朝。わたくしはあの人に、一度も礼を言ったことがありません」


 ヴィルヘルミナ様、と心のうちで呼んでみた。七年、一度もその名で呼んだことがない。呼ぶ必要がなかったし、呼べば近くなる。


    ◇


 部屋の中で、油の匂いだけがしていた。お義母様は、そこで初めてわたくしのほうを向かれた。


「言わないものだと思っていたの。誰も言わなかったから」


「はい」


「ヘルガが死んだのは、あなたが来る前の年です。そのあと半年、わたくしは自分で結いました。上がりませんでした。上がらないまま、二度、招きを断りました」


 そういうことか、と思った。七年前の縁談は、その次の年の話だ。


「アニエス」


「はい」


「わたくしは、あなたに頼みに来たのではありません」


 わたくしは黙って聞いていた。


「頼めば、あなたは結うでしょう。あの娘の髪を結った人ですもの。結ってしまえば、明日の席は守れます。守れますけれど――」


 そこで一度、言葉が切れた。


「守っても、来年またこうなります」


 わたくしは、その言葉を二度、頭の中で繰り返した。この方が、七年でいちばん長くお話しになった夜だった。


「来年もこうなって、再来年もこうなります。そのたびにあなたに頼みに来て、そのたびにあなたが結って、それで三番目を守る。守っているのはわたくしではありません。あなたです」


「はい」


「三十年守ってきたと思っておりました。守っていたのは、ヘルガと、あなたです。わたくしは、座っていただけ」


 声は震えていなかった。震わせない訓練をしてきた人の声だ。


    ◇


 お義母様は、扉のほうへ向き直られた。


「ハンナに、教えてやってくださいませんか」


「ハンナに」


「あの子は毎朝、四半刻早く起きて、わたくしの頭で練習しております。上がりません。上がらないのに、毎朝来ます」


 わたくしは、七年ぶんの朝の間のことを思い出した。あの子はいつも部屋の隅にいた。いつからいたのか、思い出せない。


「月に二度、こちらへ寄越します。銭は払います」


「銭は、いりません」


「払います」


 この方は、そういう方だ。


 銭を払うと言うのは、借りを作りたくないからだ。借りを作れば、次に頼むときに頼みやすくなる。頼みやすくしたくないのだと思う。


「お義母様」


 呼んでから、その呼び方はもう当たらないと気づいた。気づいたが、他の呼び方を知らない。


「ハンナは、上がるようになります。手はあります。あとは、湯の使い方だけです」


「湯」


「はい。あの子は、湯を使っておりません。乾いた毛を櫛だけで動かそうとしています。右のこめかみは、乾いたままでは寄りません」


 お義母様は、しばらくそこに立っておいでだった。


「四十年、わたくしは湯のことを知りませんでした」


「知る必要が、ございませんでしたので」


「そうね。必要が、ありませんでした」


 扉のところで、お義母様はもう一度だけ振り返られた。


「昨日、油の匂いがしたのは、広場でしたか」


「はい」


「そう」


 それだけおっしゃって、出ていかれた。


    ◇


 翌日、大祭があった。


 レンヴァルト家からは、旦那様だけが出られた。男の髪には形がないので、男はいつでも座れる。ただし、家の席は当主一人では埋まらない。妻か、母か、娘のいずれかが同席していなければ、その席は「空き」とみなされる。


 三番目の席には、夕方までに別の家の名が入った。


 わたくしはその日、店を閉めて、テアの家で夕飯をいただいた。靴屋の食卓は狭くて、皿が四枚しか載らなかった。


 ヴァルターさんは、娘が銭をもらって働いていることを三度確かめた。三度目に、それならいい、と言って、それきりその話をしなかった。


 テアは食べながら、明日は何時に行けばいいか、湯はどれくらい要るか、櫛はどれから拭けばいいかを聞いた。休みの日の前の晩に、次の日の段取りを聞く子だ。


 弟が、姉の頭を見て「ふつうだ」と言った。テアは怒った。ふつうがいちばん難しいのだと、わたくしは思ったが、口には出さなかった。


 帰り道で、大聖堂の前を通った。人が出てくるところで、階段の下に典礼院の者が立って、紙を配っていた。一枚もらった。


 来月、結髪院が公開の場で「書き取りによる結い上げ」を実演する、と書いてあった。

【結い手の覚え】家の席は、当主一人では埋まりません。妻か、母か、娘のいずれかが同席していなければ、空きとみなされます。


お読みいただきありがとうございます。


次話――弟子が、一人で結うことになります。わたくしはその場におりません。

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