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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第14話 はじめての一人

 ヘートヴィヒ様からの使いが来たのは、朝のうちだった。


 嫁の実家の祝いが、三日早まったのだという。早まった理由は書いていない。書いていないということは、あちらの都合ではなく、こちらの都合を測られたということだ。


 男爵家までは、馬車で半日かかる。行って結って戻れば、店を一日空ける。


「行ってください」


 テアが、湯を運びながら言った。


「今日は誰も来ませんよ。祭の後ですから」


「来たら、明日にしていただいてください」


「はい」


 わたくしは道具を分けた。持っていくぶんと、置いていくぶん。櫛は三本持って、四本置いた。油は小さいほうを持った。


 扉を出るとき、テアは台の前に立って、両手を前で組んでいた。留守番の姿勢というものを、この子はどこかで習ったらしい。


    ◇


 男爵家は、思っていたより小さな家だった。門から玄関まで十歩もない。ヘートヴィヒ様は自分で扉を開けて出てこられた。


「早くに、申し訳ありません」


「いえ」


「嫁の母が、急に日を動かしまして。うちの都合は聞かれませんでしたの」


 結うあいだ、この方はまた黙っておいでだった。


 交差の右を上にして、半寸だけ左へ寄せて締める。前より肩が下がっていたので、半寸を六分に変えた。前回から二十日しか経っていないが、二十日でも変わる。


「アニエスさん」


「はい」


「うちの結い手だった者に、弟子がひとりおりました」


「伺いました。十四で街へ下りたと」


「その子が、いまどこにいるか、二年前に分かりました」


 わたくしは手を止めなかった。


「南の町で、宿の女中をしております。手紙を出しました。戻ってきてほしい、と」


「お返事は」


「もう、忘れましたと」


 わたくしは交差を締めて、留めを隠した。


 十四で家を出た子が、二十年後に忘れましたと書いてくるのは、たぶん本当に忘れたからではない。覚えているものを使わずに二十年生きた人に、いまさら戻ってこいと言うのは酷だ。


 戻れば、また囲われる。囲われた先で、その家の人が死ねば、また放り出される。


「よい判断だと存じます」


 ヘートヴィヒ様は、鏡の中で少しだけ笑われた。


「あなたも、そう思われますか」


「はい」


    ◇


 店へ戻ったのは、翌日の昼だった。扉を開けると、テアが椅子に座っていた。客用の椅子のほうに、こちらを向いて。


「アニエスさん」


 立ち上がるまでに、少しかかった。


「あの、わたし、結いました」


 昨日の午後、客が来たのだそうだ。


 ベルクマン家の娘で、名はエルフリーデ。十六。ベルクマンは、母の帳面に丸のついていた家のひとつだ。丸がついて、十五年前を最後に消えている。


 その家の娘が、来た。


 次の日に見合いがあって、その日の朝に結い手が来られなくなった。囲っていた結い手が、腰を痛めて動けない。他に頼むあてがなく、街に新しい店ができたと聞いて、馬車で来たのだという。


「わたし、明日にしてくださいって言ったんです」


「はい」


「そしたら、明日じゃ間に合わないって。それで、あの人が泣いたんです」


 テアは、そこで一度言葉を切った。


「泣かれると、無理ですって言えなくて」


    ◇


「ベルクマンの形は、ご存じでしたか」


「帳面にありました。前の晩に読んでたので」


「読んで、結えましたか」


「読んだだけじゃ、無理でした」


 テアは自分の手を見ていた。


「上から二つ取って、右へ流して、耳の後ろで折り返して、それを三回。そこまでは書いてありました。でも、あの人の髪、右のほうが多いんです。同じように三回折ったら、右だけ厚くなって」


「どうなさいましたか」


「右を二回にしました」


 わたくしは、その場に立ったまま聞いていた。


「二回にしたら、こんどは左が余って。余ったぶんを、内側へ入れました。ベルクマンの形は内側へ入れる形じゃないんですけど、外へ出すと見えるので」


「見えなければ、よろしいのです」


 テアが顔を上げた。


「……いいんですか」


「見えないところは、形のうちに入りません」


 これは、母がわたくしに言った言葉だ。


 十二か十三のころ、わたくしは形の通りにやることに必死で、通りにならないと泣いた。母は泣いているわたくしの手から櫛を取って、こう言った。形は、外から見える線のことです。中で何をしているかは、誰も見ていません。


 あのときは、慰められたのだと思っていた。いまは、技術の話だったと分かる。


    ◇


 櫛は、一度落としたのだそうだ。


 三回目の折り返しの途中で、指が滑った。落として、拾って、拭いて、それからしばらく手が震えて動かなかった。


「そのとき、あの人が鏡を見てて」


「はい」


「後ろ、映ってたんですよ」


 テアは姿見のほうを指した。


「わたしが結ってるところ、あの人にも見えてたんです。それで、上手ですねって言われて。全然上手じゃないんですけど、言われたら、手が動きました」


「鏡は、そのままでしたか」


「はい。ヨナスさんが下げてくれてたので、ちょうど見えました」


 わたくしは姿見の前に立って、小さいほうの鏡を構えた。構えて、気づいた。


 姿見の位置が、下がっている。


 わたくしの目の高さではなく、テアの目の高さに合わせてある。床の端が沈むから直したのだと、あの人は言っていた。直したのは、床ではない。


 二枚あれば後ろが見える、とあの人は最初の日に言った。あのときわたくしは、自分の後ろ髪が映ったことに気を取られて、それ以上を考えなかった。


 後ろが見えるということは、結い手が自分の手元を見られるということだ。そして客のほうからも、結い手の手が見える。


 わたくしは七年、人の後ろに立って、誰にも手元を見せずに結ってきた。見せる必要がなかったからだ。見ていたのはハンナだけで、そのハンナも、正面からは一度も見ていない。


    ◇


 夕方、隣の工房へ行った。ブラントさんは硝子の縁を削っていた。手を止めずに、こちらを見た。


「鏡の高さを、変えましたか」


「変えた」


「いつ」


「祭の前」


 削る音が続いている。


「二枚あると、後ろが見えます」


「はい」


「見えれば、一人で結える。客も見える」


 工房の中は、削りかすで足の踏み場がなかった。硝子の切れ端が箱にいくつも入っていて、大きさ順に分けてある。壁には板が立てかけてあり、縁だけ作って硝子を入れていないものが五枚。


 この人は、注文を受けてから作るのではなく、作ってから置いておく人らしい。だから、あの日いきなり二枚持ってこられた。


 わたくしは戸口に立ったまま、次の言葉を待った。この人は、言葉を待つと、たいてい出てこない。


 その日は、出てきた。


「一人でやる人は、いつか一人になる。そのときに困る」


 削る手が止まった。


「イルゼさんが、そうだった」


    ◇


 店へ戻ると、テアが紙を貼っていた。扉の内側に、大聖堂前で配っていたあの紙だ。


「明後日ですよ、これ」


「はい」


「行くんですか」


 わたくしは紙を見た。


 結髪院が、公開の場で、書き取りに基づく結い上げを実演する。場所は大聖堂前の広場。時刻は午後の二の鐘。


 行っても、することはない。することはないが、母が生涯をかけて言い続けたことの答えが、明後日そこに出る。


「行きます」

【結い手の覚え】見えないところは、形のうちに入りません。外へ出せば別の形になりますが、内側へ入れたぶんは、誰にも見えません。


お読みいただきありがとうございます。


後ろが見えると、手が動きます。★や感想も、書き手にとっては同じはたらきをいたします。


次話――大聖堂前の広場で、書き取った結い方が、人の頭の上で試されます。

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