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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第8話 名のある形

 馬車で来る客は、それだけで目立つ。


 東の広場から二本入った通りは、荷車がやっと一台通る幅しかない。馬車は広場に停めて、そこから歩いてこなければならない。歩いてくるあいだに、通りじゅうが見る。


 その日の午後に来た方は、それを承知で来ていた。外套の裾に泥がついている。


「フォルクマーと申します」


 六十をいくつか越えたくらいの方だった。ヘートヴィヒ・フォルクマー。男爵家の先代夫人で、いまは息子夫婦と暮らしていると言った。


 髪は白く、量は少ない。少ないが、地肌が透けるほどではない。上げるだけの毛はある。


「うちの形を、結っていただきたいのです」


「フォルクマーの形は、存じ上げております」


 その言い方が、たぶんいけなかった。


 ヘートヴィヒ様の肩が、少しだけ落ちた。落ちてから、こうおっしゃった。


「ご存じの方に、二十年ぶりに会いました」


    ◇


 フォルクマー家の形は、耳の上で左右に分けて、それぞれを一度ずつ内側へ折り、後ろで交差させる。交差の上下が決まっていて、右が上に来る。左が上だと別の家の形になってしまう。


 難しい形ではない。ただ、交差の締め加減で肩の高さが変わって見えるので、そこだけは頭ごとに違う。


「うちの結い手は、母の代で終わりました」


 ヘートヴィヒ様は鏡を見ずに、膝の上の手を見ながら話された。


「わたくしが嫁いだ年に、亡くなったのです。そのあとを継ぐ人がいなくて、それきりになりました」


「お弟子は、いらっしゃらなかったのですか」


「ひとりおりました。まだ十四で、形は覚えていないと言って、街へ下りていきました」


 交差が甘くなるのは、たいてい二日目からだ。結った当日は形が立っている。翌朝には少し緩み、二日目の昼には上下が動く。侍女はそれを見て、翌朝もう一度きつく締める。締めれば締めるほど毛は逃げ場を失って、三日目には根が痛む。


 二十年、それを繰り返せば、交差の位置の毛だけが細くなる。


 わたくしはヘートヴィヒ様の耳の上に指を当てた。左右とも、そこだけ毛が痩せている。触れば分かる。


 わたくしは油を手のひらで温めながら、聞いていた。


「では、二十年、どうなさっていたのですか」


「侍女がやっておりました。似せてはおりましたけれど、交差のところが、いつも」


 言葉が切れた。


 言わなくても分かる。交差が甘いと、動いているうちに上下が入れ替わる。入れ替わると、別の家の形になる。


「フォルクマーの形は、右が上でございますね」


 ヘートヴィヒ様が顔を上げた。


「……ご存じなのですね、本当に」


「母の帳面にございました」


    ◇


 結うあいだ、この方はほとんど喋らなかった。


 喋らないのではなく、喋る気力を使いきっている感じだった。ここへ来るまでに、いくつも段取りを踏んできた人の疲れ方だ。


「息子には、言わずに参りました」


「そうですか」


「言えば止められます。街の結い手にかかるなど、と」


「はい」


「けれど、来月は嫁の実家の祝いがございまして。あちらは伯爵家ですから、頭が読めないと、嫁が困ります」


 交差の右を上にして、締めた。


 この方の肩は、右がわずかに高い。だから交差を真ん中で締めると、左が下がって見える。半寸だけ左へ寄せて締めると、正面から見たときに水平になる。


 半寸というのは、この方の肩で半寸だ。


 結い上がって、小さいほうの鏡で後ろを映して見せた。


 ヘートヴィヒ様は、鏡の中の交差を長いこと見ていらした。それから、「母のと同じです」とおっしゃった。


    ◇


 銭を払うとき、この方は思い出したように言った。


「あなた、オルトレの娘さんですか」


「はい」


「では、イルゼさんの」


 わたくしは手を止めた。


「母をご存じですか」


「一度だけ。院の廊下で」


 ヘートヴィヒ様は、外套の袖を直しながら続けられた。


「二十年前、うちの結い手が亡くなったあと、典礼院へ届けを出しに参りました。結い手が絶えた家は、届けを出さなければなりませんの。そのときに、廊下で若い方とすれ違いました。届けの紙を持っていらして、係の方と何か話していらしたわ」


「何を、話していらしたか覚えておいでですか」


「よくは。ただ、その方が『書けません』とおっしゃったのは覚えております。何度も。書けません、書けません、と」


 わたくしは銭を受け取る手を、そのまま止めていた。


「係の方は、なんと」


「怒ってはいらっしゃいませんでした。むしろ、困っておいででしたわ。書けないはずがない、書けないなら図に描いてくれればいい、と何度も」


「母は、図を描きませんでしたか」


「描いていらしたと思います。何枚も。それを見て、係の方が、これでは同じにならない、とおっしゃって」


 同じにならない。


 当たり前だ。図に描けるのは形の名と、だいたいの見た目までで、その先は頭ごとに違う。母は何枚描いても、同じにならないと言われ続けたのだろう。


「その方、最後に何とおっしゃったか、覚えておいでですか」


 ヘートヴィヒ様は少し考えて、それから、思い出したという顔をなさった。


「『では、わたくしの手を持っていってください』と」


    ◇


 その夜、母の帳面を最初から読み直した。


 客の名と、髪について一言。それだけが祖母の代から、二百人ぶん並んでいる。フォルクマーの名は三度あった。二十年より前の日付だ。


 途中から、名前の横に小さな印がついている頁が出てきた。


 丸に、点がひとつ。


 最初は数の勘定かと思った。だが数えると、丸のついた名前は、どれも家の名を持っている。ヴァイスもケラーもついていない。ついているのは、フォルクマー、ラントシュテット、ベルクマン、エッシャー。


 いずれも、丘の上の家だ。


 そして、丸のついた家の名は、途中から出てこなくなる。フォルクマーは二十年前を最後に消え、ラントシュテットはその二年後に消え、ベルクマンはさらに三年後に消える。


 消えるというのは、母の店に来なくなったということだ。


 来なくなった理由は、二つしか考えられない。他の結い手に移ったか、家に結い手を置いたか。


 わたくしは頁をめくる手を止めて、しばらく考えた。


 七年前、レンヴァルト家がわたくしを迎えたとき、持参金はいらないと言われた。よい話だと、みなが言った。


 あれは、この列の続きだったのだろうか。


 丸の意味も、ようやく分かった。


 母は、家に囲われた結い手のいる家に印をつけていたのだ。つけて、来なくなるのを見ていた。来なくなるたびに、その家の女たちは店へ来なくなり、代わりにどこかの結い手が一人、門の内側へ入っていった。


 ヘートヴィヒ様のお家は、囲えなかった側だ。結い手が絶えて、二十年、交差の甘い頭で暮らしてきた。


 囲った家と、囲えなかった家。どちらも、結い手が減れば同じところへ落ちる。


    ◇


 最後の頁に、書きかけて消した線が一本ある。


 灯りを近づけて、斜めから見た。消してあるのは一行で、下の紙に筆圧の跡が残っていた。院、という字の一画目だけが読める。


 母は最後の春に、何かを書こうとして、やめている。


 だが、母の名が台帳から消えたのは、その春よりずっと前のはずだ。丘の上の家の名は、もっと早くに、この帳面から順に消えていっている。


 名を消されてから、母は何年、この店を開けていたのだろう。

【結い手の覚え】フォルクマーの形は、右が上です。交差の上下が入れ替わると、別の家の形になります。


お読みいただきありがとうございます。


次話――収穫祭が二日後に迫ります。その前の一日、店には誰も来ません。

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