第7話 切った髪
娘は、扉を半分だけ開けて入ってきた。
布を取ると、髪は耳の下で切れていた。鋏の入れ方が悪い。左から右へ一息に引いたので、右へ行くほど短くなっている。自分で切るとこうなる。腕の届く角度でしか刃が入らないからだ。
ミレーユは椅子には座らず、台の手前に立ったまま言った。
「結えますか」
それだけだった。
詫びも、泣き言もない。ここへ来るのに、たぶんいくつも考えてきて、全部捨ててきたのだと思う。
「お座りください」
「結えるかって、聞いてます」
「座っていただかないと、分かりません」
娘は少し迷ってから、座った。
◇
わたくしは後ろに回って、上から順に見た。
毛は太い。根の張りは浅いが、量はある。切ったせいで重みが抜けて、根元が起き上がっていた。前より扱いやすくなっている。
右の耳の後ろに、鋏で二度入れた跡があった。一度で切れなかったので、戻して切り直したのだろう。そこだけ毛先が潰れている。
「痛かったでしょう」
「痛くないです、髪は」
「頭皮に当たっております」
娘の肩が動いた。
鋏を持ち出して、朝の間で、鏡を見ながら切ったのだとフーゴが言っていた。朝の間の鏡は高い位置にある。座って切れば、後頭部は映らない。
「どうして切ったのですか」
「短くすれば結えるって言われたから」
「どなたに」
「奥様が。長いから結えないんだって」
娘は前を向いたまま、続けた。
「毎朝、みんな下りてこないんです。ご飯の時間になっても。わたしだけ先に食堂にいて、それで、しばらくしたら誰か来て、髪ぼさぼさで、わたしのこと見ないで座って、何も言わないで出ていくんです。三日目に、あ、わたしのせいだって分かって」
「あなたのせいではありません」
「わたしのせいですよ」
「あなたが来る前から、あの家には結い手が一人しかおりませんでした」
◇
湯を沸かした。
この毛は、切ったばかりで先が尖っている。尖った先は互いに引っかかって、余計にはねる。まず湯で寝かせて、油を入れ、それから毛先だけを整える。
鋏を持った。母の鋏だ。峰が薄く、刃渡りが短い。
右の潰れたところから入れた。潰れた毛先は、そこより上で切り直さないと直らない。全体を右に合わせると、耳の下まで短くなる。それは避けたい。
だから、段を作った。
上の層を残して、下の層だけを短く揃える。上から見ると長さがそろって見えて、下から見ると軽い。切った跡が、切った跡でなくなる。
段の境目は、指で探して決める。目では見えない。頭を横から見て、いちばん出ているところの少し下に境を置くと、上の層が自然に被さる。
被さったところは、櫛を入れずに手でならす。櫛を入れると層が割れて、段が段に見えてしまう。
毛先を落とすときは、刃を寝かせる。立てて切ると断面が真っ平らになり、伸びてきたときに揃いすぎて重くなる。寝かせて削ぐように落とすと、毛先が細くなって、次に伸びるまでのあいだ形が保つ。
こういうのは、母がよくやっていた。街には、自分で切ってしまってから来る人が多い。
「あの」
「はい」
「なんで、やってくれるんですか」
わたくしは手を止めなかった。
「わたし、あなたの家の人を全部だめにしたんですよ。あなたのことも」
「髪の話は、していただけますか」
「え」
「わたくしは、髪の話でしたらいくらでもいたします。それ以外の話は、あまり上手ではありません」
娘は、それきり黙った。
黙っているあいだ、鏡の中でこの子は何度か口を開きかけて、やめていた。言いたいことがあるのに、言ったら自分が楽になるだけだと分かっているときの顔だ。
十九だという。わたくしが嫁いだのは十九のときだった。
あのころ、わたくしも同じ顔をしていたと思う。屋敷の朝の間で、鏡越しにお義母様の顔を見て、何か言いかけて、やめる。やめたほうが早いと覚えるまでに、半年もかからなかった。
◇
結い上がったとき、ミレーユは鏡を見て、それから見なかったことにした。
「変じゃないですか」
「変ではありません」
「冠じゃないですけど」
「冠は、あなたの形ではありません」
わたくしは小さいほうの鏡を渡して、後ろを映した。
耳の下で切りそろえた髪が、首の線に沿って落ちている。この娘は首が長い。舞台に立つ人は、たいてい首が長く見えるように立つ癖がついているが、この子のは癖ではなく作りだ。
「これ、なんていう形ですか」
「名前はありません」
「名前ないんですか」
「名前があるのは、家の形だけです。それ以外は、ただの髪です」
娘は鏡を持ったまま、しばらく自分の後ろを見ていた。
それから、「ただの髪でいいです」と言った。
◇
銭を置いて、娘が帰ったあと、入れ替わりに人が入ってきた。
黒の外套に、深く結った白髪。左の膝をかばう歩き方。
お義母様だった。
冠は上がっていた。上がってはいたが、右の輪が下がって、後ろから見ると傾いている。フーゴの言ったとおりだった。
「アニエス」
「いらっしゃいませ」
「客のつもりはありません」
お義母様は店の中を見回して、鏡のところで目を止めた。それから、わたくしのほうへ向き直った。
「あの娘に、手を貸したのね」
「髪を結いました」
「同じことです」
「違います」
わたくしは鋏を布で拭いて、台に置いた。
「お義母様。あの方は、切れば結えると聞いて切ったのです。誰も、切っても結えないとは教えなかった」
お義母様の口の端が動いた。
「教える義理がありますか」
「ございません」
「では、なぜあなたは教えるの」
お義母様は一歩、台のほうへ寄っていらした。
「あなたは、あの娘を憎んでいるはずです。憎まないのなら、それは人として鈍いということよ。憎んでいるのに髪を結うのなら、それは芝居です。どちらにしても、褒められたものではありません」
言い方が上手だと思う。この方はいつもそうだ。こちらが取れる道を二つ出して、どちらを取っても負けるようにしてから、選ばせる。
七年、この話し方に付き合ってきた。付き合い方はひとつしかない。どちらも取らないことだ。
わたくしは答えなかった。
答えなかったのは、答えが無いからではない。
この人はいま、髪を結えないまま門を出て、丘を下りて、街の通りをここまで歩いてきた。傾いた冠のまま、誰にも見られない道を選んで来たはずだ。
それを言うのは、たぶん、いちばんしてはいけないことだった。
お義母様は、しばらく返事を待っていらした。待って、来ないと分かると、扉のほうへ向き直った。
「アニエス。ひと月後に、収穫祭があります」
「存じております」
「うちは、毎年三番目の列です。三十年、三番目でした」
それだけおっしゃって、出ていかれた。
扉が閉まってから、わたくしは台の上の鋏を布に包み直した。包みながら、三番目という数字のことを考えていた。
列の順は、家の格で決まる。格は、名で決まる。名は、頭で読む。
【結い手の覚え】自分で切った髪は、右へ行くほど短くなります。腕の届く角度でしか、刃は入りません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――形の名だけが残って、結い方を失った家から、依頼が参ります。そういう家は、一軒ではないようです。




