第6話 椿の油
油が切れた。
母の予備の壺は、十日でそこを見せた。椿の実を絞った油は、丘の南側の農家がひと冬かけて作る。街で買えないことはないが、香料を混ぜたものが多い。混ぜると伸びが変わって、細い毛が滑りすぎる。
東の広場の乾物屋に、混ぜていないのを置いている店を教わった。行くと、壺で買うなら三日待てと言われた。
三日は長い。
わたくしは店へ戻る途中で、隣の工房の前を通った。低い音がしている。研いでいるのではなく、削っている音だった。木を削って縁を作り、そこへ硝子を落とし込む。硝子は自分では作らず、南のほうから仕入れるのだと、あとで聞いた。
椿の油は、絞ってすぐは使えない。絞りたてはにごっていて、髪に入れると翌日に匂う。壺に入れて三月置くと、底に澱が沈んで、上のほうだけが澄む。澄んだところをすくって使う。
母は毎年秋に一年ぶんを買って、三つの壺に分けていた。使う壺、寝かせる壺、次の年の壺。三つ並べておけば、切らすことがない。
わたくしは七年、その並べ方をしていなかった。屋敷では、言えば油が出てきたからだ。どこから来ているのかも知らなかった。
覗いたつもりはなかったが、目が合った。
「油、要るのか」
なぜ知っているのだろう。
「三日待つように言われました」
「うちにある。研ぎに使う」
ブラントさんは奥から小さな壺を出してきた。蓋を開けると、混ぜものの匂いがしない。硝子の縁を磨くのに椿を使うのだそうだ。
「これは、お売りいただけますか」
「持っていってください」
「いえ、それは」
「返さなくていい」
この人と話していると、こちらの言葉が途中で要らなくなる。
「では、あらためてお礼を。ブラントさん」
「ヨナスでいい」
名を先に言う人ではないらしい。こちらから聞くまで出てこない。
◇
その日の客は、東通りの織物商の娘だった。
レナーテという名で、十八。三日後に、丘の上の商会が開く会に呼ばれているのだという。父親の商いの縁で、娘だけが呼ばれた。
「あの、うちの形だと、浮きますよね」
「浮くとおっしゃいますと」
「低いんです、うちの形。ヴァイス家の形は、後ろで一度結んで垂らすだけで。それで行ったら、田舎から出てきたみたいで」
わたくしは娘の髪を見た。手入れがよい。毎日梳かれている髪はすぐ分かる。艶が根元から出る。
「上げてほしい、ということでしょうか」
「上げられますか。あの、丘の上の形に」
「結えます。ただ、お勧めいたしません」
レナーテさんの顔が曇った。
「よその家の形を結って出ると、名を偽ったことになります。その場では気づかれなくても、名を呼ばれたときに合いません。頭とお名前が合わない方は、二度目に呼ばれません」
「じゃあ、どうすれば」
「ヴァイスの形を、高く結いましょう」
娘が瞬きをした。
「形は変えません。後ろで一度結んで垂らす、そのままです。ただ、結ぶ位置を三寸上げて、垂らすところを内側へ入れます。名前は変わりません。見え方だけが変わります」
◇
結ぶ位置を上げると、首が長く見える。
このくらいの年頃の娘は、首から肩へ落ちる線がまだ細い。細い線を隠すと貧相になり、出すと若く見える。ヴァイスの形は本来、働くために低く結ぶものだから、上げると仕事着の形が余所行きになる。
垂らした毛先は、そのまま落とすと会の途中で開く。開かないよう、内側へ一度巻いて、根の近くで留めた。留め具は見えないところへ隠す。見えるところに飾りを足すと、借りものになる。
鏡の前で、レナーテさんはしばらく黙っていた。
それから、小さいほうの鏡で後ろを見て、「これ、うちの形ですよね」と言った。
「ヴァイスの形です」
「うちの形なのに、こんなに違うんですね」
この娘は賢い。賢い娘は、褒められるより、理屈を教えられたほうが喜ぶ。
わたくしは、なぜ三寸なのかを説明した。二寸では足りず、四寸だと後頭部の丸みから外れて、後ろから見たときに頭が細長く見える。三寸というのは、この娘の頭で三寸であって、他の人では違う。
レナーテさんは、それを二度聞き返した。
二度目に聞き返したとき、この娘は自分の指で自分の後頭部を触っていた。触って、丸みのあるところと平らなところを探している。
髪のことを、髪型のことだと思っている人は多い。実際には頭の形の話で、頭の形は変えられないから、そのぶん通す道のほうを変える。それが分かる人は、たまにいる。
「あの、これ、家でもできますか」
「三寸のところに、糸で印をつけておかれるとよろしいかと。あとはご自分の手で足ります」
娘は帰り際に、糸を一本もらえないかと言った。わたくしは白い縫い糸を切って渡した。
◇
夕方、テアが来て、台の隅に座った。
最近この子は、用がなくても来る。来て、わたくしが道具を拭くのを見て、いろいろ聞いて、帰る。
「アニエスさん。丘の上の話、聞きました?」
「どの話でしょう」
「レンヴァルトのおうちの話です。市場でみんな言ってます」
わたくしは布を持ち直した。
「侍女さんが結ってるらしいんですけど、朝に結ったのが昼過ぎには曲がるんですって。それで、奥様――お母様のほうの方が、外へお出になるのをやめたって」
「そう」
「あと、あの、ごめんなさい。アニエスさんのことも言ってました」
「なんと」
テアは言いにくそうに、帽子のつばを握った。
「出ていったから困ってるんだって、みんな言ってます。ざまあみろって言ってる人もいます」
わたくしは油の壺の蓋を閉めた。
「テアさん」
「はい」
「わたくしは、困らせるために出たのではありません」
「……はい」
「困っているのは、わたくしがいないからではなく、七年、誰にも覚えさせなかったからです」
言ってから、少し言いすぎたと思った。
覚えさせなかったのは、わたくしでもある。ハンナは見ていた。見ていたのに、わたくしは手を止めて教えたことが一度もなかった。教える時間があれば、その時間で三人ぶん結えたからだ。
毎朝、三人ぶん結わなければ、朝の間の光が壁まで届いてしまう。届く前に終わらせるのが、七年のあいだ、わたくしの一日の全部だった。
テアは黙って、それからこう聞いた。
「覚えさせなかったのは、誰ですか」
◇
その晩、ブラントさんが来て、姿見の角度を直していった。
「三度、ずれてた」
「動かしておりません」
「床が沈む。西の端が」
言われて足で押すと、たしかに沈んだ。この店は建って四十年になる。
直したあと、ブラントさんは小さいほうの鏡を持ち上げて、わたくしの後ろに回った。角度を合わせて、姿見に後ろ髪を映す。
「ここに立てば、自分で見える」
「はい」
「一人でも、結える」
そう言って、鏡を台に置いて帰っていった。
一人でも、結える。
結い手は自分の頭を結えない。それは道具の話ではなく、体の作りの話だと、わたくしはずっと思っていた。腕は後ろへ回るが、目は回らない。だから母は、祖母に結ってもらっていた。祖母は誰に結ってもらっていたのだろう。聞いたことがない。
鏡を二枚立てれば済むのだと、この人は言っている。
済むのなら、なぜ誰も立てなかったのか。
わたくしは戸口に立って、しばらく通りを見ていた。
通りの向こう、街灯の下に、頭を布で覆った娘が立っていた。布の下の形が、肩のところで切れている。
【結い手の覚え】よその家の形を結って出ると、頭と名前が合いません。合わない方は、二度目に呼ばれません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――肩より上で髪を切った娘が、扉を開けます。詫びには来ていません。




