表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/25

第6話 椿の油

 油が切れた。


 母の予備の壺は、十日でそこを見せた。椿の実を絞った油は、丘の南側の農家がひと冬かけて作る。街で買えないことはないが、香料を混ぜたものが多い。混ぜると伸びが変わって、細い毛が滑りすぎる。


 東の広場の乾物屋に、混ぜていないのを置いている店を教わった。行くと、壺で買うなら三日待てと言われた。


 三日は長い。


 わたくしは店へ戻る途中で、隣の工房の前を通った。低い音がしている。研いでいるのではなく、削っている音だった。木を削って縁を作り、そこへ硝子を落とし込む。硝子は自分では作らず、南のほうから仕入れるのだと、あとで聞いた。


 椿の油は、絞ってすぐは使えない。絞りたてはにごっていて、髪に入れると翌日に匂う。壺に入れて三月置くと、底に澱が沈んで、上のほうだけが澄む。澄んだところをすくって使う。


 母は毎年秋に一年ぶんを買って、三つの壺に分けていた。使う壺、寝かせる壺、次の年の壺。三つ並べておけば、切らすことがない。


 わたくしは七年、その並べ方をしていなかった。屋敷では、言えば油が出てきたからだ。どこから来ているのかも知らなかった。


 覗いたつもりはなかったが、目が合った。


「油、要るのか」


 なぜ知っているのだろう。


「三日待つように言われました」


「うちにある。研ぎに使う」


 ブラントさんは奥から小さな壺を出してきた。蓋を開けると、混ぜものの匂いがしない。硝子の縁を磨くのに椿を使うのだそうだ。


「これは、お売りいただけますか」


「持っていってください」


「いえ、それは」


「返さなくていい」


 この人と話していると、こちらの言葉が途中で要らなくなる。


「では、あらためてお礼を。ブラントさん」


「ヨナスでいい」


 名を先に言う人ではないらしい。こちらから聞くまで出てこない。


    ◇


 その日の客は、東通りの織物商の娘だった。


 レナーテという名で、十八。三日後に、丘の上の商会が開く会に呼ばれているのだという。父親の商いの縁で、娘だけが呼ばれた。


「あの、うちの形だと、浮きますよね」


「浮くとおっしゃいますと」


「低いんです、うちの形。ヴァイス家の形は、後ろで一度結んで垂らすだけで。それで行ったら、田舎から出てきたみたいで」


 わたくしは娘の髪を見た。手入れがよい。毎日梳かれている髪はすぐ分かる。艶が根元から出る。


「上げてほしい、ということでしょうか」


「上げられますか。あの、丘の上の形に」


「結えます。ただ、お勧めいたしません」


 レナーテさんの顔が曇った。


「よその家の形を結って出ると、名を偽ったことになります。その場では気づかれなくても、名を呼ばれたときに合いません。頭とお名前が合わない方は、二度目に呼ばれません」


「じゃあ、どうすれば」


「ヴァイスの形を、高く結いましょう」


 娘が瞬きをした。


「形は変えません。後ろで一度結んで垂らす、そのままです。ただ、結ぶ位置を三寸上げて、垂らすところを内側へ入れます。名前は変わりません。見え方だけが変わります」


    ◇


 結ぶ位置を上げると、首が長く見える。


 このくらいの年頃の娘は、首から肩へ落ちる線がまだ細い。細い線を隠すと貧相になり、出すと若く見える。ヴァイスの形は本来、働くために低く結ぶものだから、上げると仕事着の形が余所行きになる。


 垂らした毛先は、そのまま落とすと会の途中で開く。開かないよう、内側へ一度巻いて、根の近くで留めた。留め具は見えないところへ隠す。見えるところに飾りを足すと、借りものになる。


 鏡の前で、レナーテさんはしばらく黙っていた。


 それから、小さいほうの鏡で後ろを見て、「これ、うちの形ですよね」と言った。


「ヴァイスの形です」


「うちの形なのに、こんなに違うんですね」


 この娘は賢い。賢い娘は、褒められるより、理屈を教えられたほうが喜ぶ。


 わたくしは、なぜ三寸なのかを説明した。二寸では足りず、四寸だと後頭部の丸みから外れて、後ろから見たときに頭が細長く見える。三寸というのは、この娘の頭で三寸であって、他の人では違う。


 レナーテさんは、それを二度聞き返した。


 二度目に聞き返したとき、この娘は自分の指で自分の後頭部を触っていた。触って、丸みのあるところと平らなところを探している。


 髪のことを、髪型のことだと思っている人は多い。実際には頭の形の話で、頭の形は変えられないから、そのぶん通す道のほうを変える。それが分かる人は、たまにいる。


「あの、これ、家でもできますか」


「三寸のところに、糸で印をつけておかれるとよろしいかと。あとはご自分の手で足ります」


 娘は帰り際に、糸を一本もらえないかと言った。わたくしは白い縫い糸を切って渡した。


    ◇


 夕方、テアが来て、台の隅に座った。


 最近この子は、用がなくても来る。来て、わたくしが道具を拭くのを見て、いろいろ聞いて、帰る。


「アニエスさん。丘の上の話、聞きました?」


「どの話でしょう」


「レンヴァルトのおうちの話です。市場でみんな言ってます」


 わたくしは布を持ち直した。


「侍女さんが結ってるらしいんですけど、朝に結ったのが昼過ぎには曲がるんですって。それで、奥様――お母様のほうの方が、外へお出になるのをやめたって」


「そう」


「あと、あの、ごめんなさい。アニエスさんのことも言ってました」


「なんと」


 テアは言いにくそうに、帽子のつばを握った。


「出ていったから困ってるんだって、みんな言ってます。ざまあみろって言ってる人もいます」


 わたくしは油の壺の蓋を閉めた。


「テアさん」


「はい」


「わたくしは、困らせるために出たのではありません」


「……はい」


「困っているのは、わたくしがいないからではなく、七年、誰にも覚えさせなかったからです」


 言ってから、少し言いすぎたと思った。


 覚えさせなかったのは、わたくしでもある。ハンナは見ていた。見ていたのに、わたくしは手を止めて教えたことが一度もなかった。教える時間があれば、その時間で三人ぶん結えたからだ。


 毎朝、三人ぶん結わなければ、朝の間の光が壁まで届いてしまう。届く前に終わらせるのが、七年のあいだ、わたくしの一日の全部だった。


 テアは黙って、それからこう聞いた。


「覚えさせなかったのは、誰ですか」


    ◇


 その晩、ブラントさんが来て、姿見の角度を直していった。


「三度、ずれてた」


「動かしておりません」


「床が沈む。西の端が」


 言われて足で押すと、たしかに沈んだ。この店は建って四十年になる。


 直したあと、ブラントさんは小さいほうの鏡を持ち上げて、わたくしの後ろに回った。角度を合わせて、姿見に後ろ髪を映す。


「ここに立てば、自分で見える」


「はい」


「一人でも、結える」


 そう言って、鏡を台に置いて帰っていった。


 一人でも、結える。


 結い手は自分の頭を結えない。それは道具の話ではなく、体の作りの話だと、わたくしはずっと思っていた。腕は後ろへ回るが、目は回らない。だから母は、祖母に結ってもらっていた。祖母は誰に結ってもらっていたのだろう。聞いたことがない。


 鏡を二枚立てれば済むのだと、この人は言っている。


 済むのなら、なぜ誰も立てなかったのか。


 わたくしは戸口に立って、しばらく通りを見ていた。


 通りの向こう、街灯の下に、頭を布で覆った娘が立っていた。布の下の形が、肩のところで切れている。

【結い手の覚え】よその家の形を結って出ると、頭と名前が合いません。合わない方は、二度目に呼ばれません。


お読みいただきありがとうございます。


次話――肩より上で髪を切った娘が、扉を開けます。詫びには来ていません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ