第5話 使いの者
家令のフーゴは、扉の外で外套を脱いでから入ってきた。
この人は三十年、レンヴァルト家の敷居しかまたいでいない。街の店の敷居をまたぐときにどうすればいいのか、たぶん昨日から考えていたのだと思う。脱いだ外套を腕にかけたまま、椅子をすすめても座らなかった。
「奥様」
「その呼び方は、もう当たりません」
「では、アニエス様」
フーゴは腕の外套を持ち直した。
「旦那様より、お戻りいただきたいとのお言付けでございます」
「そうですか」
「条件を申し上げてもよろしいでしょうか」
わたくしは椅子に座って、聞いた。
部屋は元の東の間をそのまま。朝の間はアニエス様の裁量とする。手当は年に三百。休みは月に四日。ミレーユ様には冠を結わせない。そして、典礼院への結い手の届けを、今度こそ正式に出す。
悪い条件ではなかった。悪くないどころか、七年のうちにわたくしが一度も言われなかったことが、全部入っていた。
手当という言葉を、この家の人から聞いたのは初めてだった。七年、わたくしは一度も銭を受け取っていない。妻に手当を出す家はないからだ。妻ではなく結い手として置くなら手当が出るが、結い手として置いていることになっていなかったので、どちらの筋からも銭は出なかった。
休みも同じだ。妻に休みはないし、届けを出していない結い手にも休みはない。月に四日という数字は、たぶんフーゴが自分で考えて足したのだと思う。この人は数字を丸める癖がある。
「よい条件でございましょう」
「はい」
「では」
「お断りいたします」
フーゴは、外套をもう一度持ち直した。
◇
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「申し上げないほうがよろしいかと存じます」
「わたくしは、旦那様に何かお伝えしなければなりません」
「では、断られました、とだけ」
フーゴは黙った。三十年ぶんの黙り方だった。
理由を言えば、旦那様はそれを直そうとなさる。直せば戻ると思われる。直せるものだと思われているうちは、何も変わらない。
条件が良いのは、いなくなって困ったからだ。困ったから良くしたのであって、良くしようと思って良くしたのではない。その順番は、七年待っても入れ替わらなかった。
「フーゴさん。お義母様の右のこめかみは、どうなりましたか」
フーゴの目が、わずかに動いた。
「……ハンナが、やっております」
「上がっていますか」
「上がってはおります」
「厚みは」
答えがなかった。
答えがないのが答えだった。
上がってはいる、というのは、輪がふたつできているという意味だ。冠の見た目にはなっている。遠目には分かるまい。
だが、右のこめかみに厚みがなければ、歩いているうちにそちら側だけが下がる。下がると輪が傾く。傾いた冠は、正面から見ると首が曲がっているように見える。
それを、丘の上の人たちは見る。見て、何も言わない。言わずに、次の招きから外す。
◇
フーゴは帰り際に、包みを台の上に置いた。
「旦那様より、櫛でございます」
布を開くと、新しい黄楊の櫛が入っていた。歯が細かく、峰に彫りがある。よい品だ。値も張るだろう。
「お返しいたします」
「お気に召しませんか」
「よい櫛です。ただ、使えません」
わたくしは自分の櫛を出して、台の上に並べた。古いほうは色が飴色に変わっていて、峰から三本目と四本目の歯が抜けている。
「これは、祖母が折ったものです」
「折れたのではなく、ですか」
「折ったのです。細い毛を掬うときに、歯が詰まっていると束が拾えません。二本抜くと、そこだけ隙間ができて、細い毛だけが入ってきます」
フーゴは並んだ二本の櫛を、しばらく見ていた。
「では、この新しいほうは」
「歯が細かすぎます。この櫛では、お義母様の右のこめかみは拾えません」
わたくしは新しい櫛を布に戻して、包み直した。
「旦那様に、そうお伝えください。よい櫛をありがとうございました、と」
◇
フーゴは扉のところまで行って、そこで足を止めた。
言うか言うまいか、迷っている背中だった。
「アニエス様」
「はい」
「ミレーユ様が、髪をお切りになりました」
わたくしは道具を拭く手を止めた。
「どのくらい」
「肩より上でございます」
「どなたが」
「ご自分で。鋏を持ち出されて、朝の間で」
フーゴの声は平らだったが、平らにするのに力がいっているのが分かった。
「大奥様が――ヴィルヘルミナ様が、冠が結えないのは髪が長すぎるせいだとおっしゃいまして。それをお聞きになって、あの方が、では短くすれば結えるのかと」
「短くしても、結えません」
「はい」
「短くすると、もっと結えません。輪をふたつ作るのに、耳より下の毛が要りますから」
フーゴは頭を下げた。
深い下げ方だった。門で最初にわたくしを迎えたときと、同じ角度だった。
ミレーユという娘は、十九だと聞いた。十九で、舞台を降りて、知らない家に入って、そこの女たちが自分のせいで髪を上げられずにいるのを毎朝見ていたことになる。誰も本当のことを教えなかったのだろう。教えれば、自分たちが困っている理由を認めることになるからだ。
髪なら切れると、あの娘は考えた。短くすれば軽くなって、誰でも結えるようになると。
筋は通っている。通っているが、間違っている。間違っていることを、誰も先に言わなかった。
◇
その晩、わたくしは椿油の壺の蓋を閉めた。
蓋の縁に油が回って、少し滑る。布で拭いて、棚の上の段に置いた。明日はテアが来る。明後日は、レオノーラさんが四十九日の帰りに寄ると言っていた。
やることは決まっている。決まっているぶん、余計なことを考えずに済む。
帳面を出して、今日の分を書いた。レオノーラ・ケラー、細い、湿りに強い、婚家の折り目あり。テオドラ・ヴァルター、太い、根が立つ、押さえると広がる。
母の字の下に、わたくしの字が続いた。七年ぶんの空きを飛ばして、同じ帳面の同じ頁に続いている。見た目には、間が空いたことが分からない。
扉に鍵をかけようとしたら、外にテアが立っていた。
「アニエスさん。収穫祭って、あとどれくらいですか」
「ひと月ほどですね」
「うち、毎年出るんです。父が革の店を出すので。それで、その、あの」
テアは帽子のつばを両手で握った。持ってきたのに、かぶっていない。
「その日、結ってもらってもいいですか」
「ええ」
「ほんとに? あの日、みんな来ますよ。街じゅうと、あと、上のほうの人も」
上のほう、というのは、丘の上のことだ。
収穫祭の日は、王都じゅうの家が形を結って列に並ぶ。並ぶ順は家の格で決まっていて、名の読めない頭は列に入れない。
ひと月あれば、髪は伸びる。だが、ひと月では、手は覚えない。
街の家の形は、たいてい低くて簡単だ。娘が母から習って、母が祖母から習って、それで足りてきた。難しいのは丘の上の形のほうで、輪を重ねたり、細い毛を寄せて厚みを作ったりするものは、習うのに何年もかかる。
だから丘の上の家は、結い手を雇う。雇って、囲って、外へ出さない。
ひと月後の列で、どの頭が上がっていて、どの頭が上がっていないかは、たぶんもう決まっている。
「テアさん」
「はい」
「その日は、朝のいちばん早い時間にいらしてください。混みますから」
【結い手の覚え】歯を二本抜いた櫛は、細い毛だけを拾います。詰まった櫛では、薄いところが埋められません。
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次話――ひと月後に収穫祭があります。その前に、肩より上で髪を切った娘が、扉の前に立ちます。




