第4話 後ろの見える鏡
翌朝、テアは扉が開くより先に来ていた。
髪は落ちていた。落ちるように結ったのだから当然だが、落ち方が悪くない。根元が起きたまま、全体が少しだけ下がっている。押さえつけて寝てしまった形とは違う。
「落ちました」
「そう申し上げました」
「でも、四角くないです」
テアは帽子をかぶらずに来ていた。父親が後ろから半歩遅れて入ってきて、扉のところで頭を下げた。靴屋のヴァルターという人で、手の甲に古い切り傷がいくつもある。革を裁つ人の手だ。
「昨日はうちのが世話になりまして」
「いえ」
「あの、いくらでしょう」
わたくしは値を決めていなかった。母の帳面には値が書いていない。書いていないというより、書く欄がない。
「三十でいかがでしょう」
ヴァルターさんが黙った。安すぎたらしい。
「五十お納めします」
「では、五十で」
押し問答をするほど、こちらに余裕はない。
◇
その男が来たのは、昼を少し過ぎたころだった。
扉が開いて、光が遮られたので顔を上げた。背の高い男が、板に布をかけたものを両手で抱えて立っていた。三十半ばくらい、肩に木の粉がついている。
「隣です」
それだけ言った。
隣は、七年前は空き家だったはずだ。いつのまにか工房が入っていて、朝から低い音がしている。研いでいる音だと思っていた。
「鏡師の、ブラントと申します」
「アニエスと申します」
男は返事をせずに、抱えていたものを台の上に置いて、布を取った。
鏡が二枚あった。大きいほうが姿見で、小さいほうは手鏡というには大きい。縁は木で、飾りはない。
「一枚では足りません」
「はい」
「一枚だと、後ろが見えない」
そう言って、男は姿見を壁に立てかけ、小さいほうをわたくしに持たせた。そのまま位置を指で示す。姿見の前に人を座らせ、小さいほうを斜めに構えると、後ろ髪が正面の鏡に映る。
映った。
わたくしは七年、自分の後ろ髪を見ていない。人の後ろ髪は毎日見ていたのに、自分のは見ていなかった。
映っているのは、母が最後に結った形だった。夜のあいだ布で包み、朝にほつれだけを直してきたので、輪の重なりはまだ生きている。生きてはいるが、七年ぶんの手が入っていない。留めの下で、毛が少しずつ痩せていた。
結い手は自分の頭を結えない。後ろが見えないからだ。見えないから、母がいなくなった日から、わたくしの頭は誰の手も入らないまま止まっている。
わたくしは小さいほうの鏡を下げた。下げてから、この人は何のためにこれを持ってきたのだろうと考えた。
「いくらでしょう」
「置いていく」
「そういうわけには」
「壊れたら言ってください」
男はそれだけ言って、帰った。話が通じたのか通じていないのか、しばらく分からなかった。
◇
午後、黒い服の女の人が来た。
レオノーラという名で、四十をいくつか越えたくらい。三月前に夫を亡くしたのだと言った。
「明後日が、四十九日なんです」
「はい」
「喪の形を、結っていただきたくて」
わたくしは椅子をすすめて、それから、髪を見た。まっすぐで細い、湿りに強い毛だ。喪の形は毛を上げずに垂らして、耳の後ろで二度折る。折り目が立つかどうかは毛の張りで決まる。この髪なら立つ。
「どちらのお家の形になさいますか」
レオノーラさんの手が、膝の上で止まった。
「……それを、伺いたくて来ました」
「と、申しますと」
「婚家に、断られたんです。おまえはもうこの家の女ではないから、うちの喪の形は結えない、と」
子が無かったのだそうだ。夫が亡くなって、家は夫の弟が継いだ。四十九日の席に出ていいとは言われたが、頭の形はどうにもならない。名の読めない頭で、どの列に並べばいいのか分からない。
「それで、あの、わたし、後ろのほうに立っていようかと」
わたくしは油の壺を開けて、手のひらで温めた。
「レオノーラさん。お生まれのお家は、どちらですか」
「……ケラーです。粉挽きの」
「ケラーの形は、ございますね」
「ありますけど、あれは娘の形です。わたし、もう四十四で」
「娘の形は、娘のときにしか結えないと、どなたがお決めになりましたか」
レオノーラさんが顔を上げた。
わたくしは櫛を取って、峰から三本目のところに親指を掛けた。
「喪に出るのは、どこかの家の女としてではありません。その人を見送る人として出るのです。あなたは生まれた家の女です。それは、どなたにも取り上げられません」
◇
ケラーの形は、後ろで一度だけ低く束ねて、余りを内側へ巻き込む。粉を扱う家の形だから、髪が落ちてこないようにできている。粉挽きも、鍛冶も、漁も、働く家の形はたいてい低い。高く結うのは、手を使わない家の形だ。
この方の髪には、二十年ぶんの癖がついていた。婚家の形は高い位置で二度折るもので、折り目のところに硬い筋が残っている。低く束ねると、その筋が浮く。
筋を消すには、逆へ折り返して湯をあてる。あてたまま冷ますと、毛が新しい形を覚える。時間がかかるので、そのあいだレオノーラさんは黙って座っていた。わたくしも黙っていた。喋りながらやる仕事ではない。
筋が落ちてから、束ねた。
結い上げたとき、レオノーラさんは鏡を見なかった。
小さいほうの鏡を渡して、後ろを映して見せた。
見て、それから、「母の頭みたい」とだけ言った。
◇
夕方、テアがまた来た。今度は用事もないのに来た。台のところに座って、わたくしが道具を拭くのを見ている。
「ねえ先生」
「先生ではありません」
「じゃあ奥様」
「アニエスで結構です」
「アニエスさん。あれ、書いておけばいいんじゃないですか」
「あれ、と申しますと」
「さっきの人の。ケラーの形。書いておいたら、次に誰か来たとき、それを見ればいいでしょう」
わたくしは布を置いた。
「書けるのは、形の名だけなの」
「え」
「ケラーの形が、後ろで一度束ねて内側へ巻く形だということは書けます。書いてある帳面が、典礼院にもあります。でも、あの方の髪でどう束ねるかは書けません」
「なんでですか」
「同じ形でも、頭が違えば通す道が変わるからです。書き取れるのは、名前と、だいたいの見た目だけ」
テアは眉を寄せて、しばらく考えていた。
「じゃあ、覚えるしかないんですか」
「手が覚えるしかありません」
テアは自分の手を開いて、それから閉じた。革を裁つ家の子の手で、指の腹が硬い。硬い指は、細い毛を掬うのに向いていない。向いていないが、向いていないことと、できないことは別だ。
わたくしの母も、はじめは向いていなかったと祖母が言っていた。
◇
その夜、扉を閉めようとしたら、通りの向こうに人が立っていた。
黒い外套の、年配の男の人だった。街の人ではない。立ち方でわかる。街の人は、用のない場所にああいうふうには立たない。
わたくしは扉を閉めなかった。
【結い手の覚え】書き取れるのは、形の名と、だいたいの見た目まで。その人の頭でどう通すかは書けません。
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次話――屋敷から使いが参ります。三十年この家にいる家令が、良すぎる条件を持ってきます。




