表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/24

第3話 四角い頭

 鍵は回った。


 蝶番のほうが先に鳴って、扉は下のほうが少し引っかかった。木が湿って膨れている。七年ぶんの雨を吸えば、それくらいはする。


 中は暗かった。よろい戸を順に開けていくと、埃が光の柱の中で回りはじめた。


 台があって、椅子が二脚あって、壁に鏡が一枚かかっている。鏡の面は曇っていたが、割れてはいない。母が使っていた低い椅子は、座面の右側だけが沈んでいる。母は右足に体重をかけて立つ人だったので、座り方まで右に寄っていた。


 わたくしは棚を上から順に開けた。


 櫛が七本、鋏が二挺、油の壺が四つ。壺の中身は固まって、押すと表面だけが白く割れた。使えない。買い直すには、まず銭がいる。


 銭は、あまりない。


 棚の下の抽斗に、母の帳面が入っていた。客の名と、日付と、その人の髪について一言ずつ書いてある。細い、湿りに弱い、夏は落ちる、去年より薄い。結い方は書いていない。書けるのは、その人の髪がどういうものかということだけだ。


 最後の頁は、七年前の春で止まっていた。日付の下に、書きかけて消した線が一本ある。


 わたくしはよろい戸を全部開けてから、床を掃いた。掃いても掃いても、板の目から埃が出てくる。午前のあいだ、誰も扉を開けなかった。


    ◇


 その日の午後、扉の外に人が立った。


 立って、それから離れていった。しばらくして戻ってきて、また離れた。三度目に戻ってきたとき、わたくしは扉を開けた。


 十三か、それくらいの娘だった。ぶかぶかの帽子を目深にかぶって、つばを両手で握っている。握りすぎて、つばの前が波打っていた。


「あの」


 娘は帽子のつばを握ったまま言った。


「無理だったら無理って、先に言ってください」


「何がでしょう」


「わたしの頭、四角いんです」


 そう言って、笑った。笑い方が上手だった。何度も言ってきた言葉なのだと分かる。先に自分で言っておけば、他の人に言われても半分で済む。


「入りますか」


「……入って、それで無理だったら」


「入ってからにいたしましょう」


 娘はもう一度つばを握り直して、それから、思い切ったように中へ入ってきた。


    ◇


 帽子を取らせるのに、少しかかった。


 テオドラという名で、通りの向こうの靴屋の娘だという。母親は三年前に亡くなって、今は父親と二人だ。父親は毎朝、娘の髪を上から押さえつけて帽子をかぶせる。押さえつけないと帽子が浮くからだ。


 帽子を取ると、髪は横へ広がった。


 硬い癖毛で、根元から折れるように曲がっている。一本一本が太く、張りがある。梳こうとすると櫛が途中で止まる種類の毛だ。


 わたくしは横から、下から、後ろから順に見た。


「テオドラさん」


「テアでいいです。長いから、みんなそう呼びます」


「テアさん。あなたの髪は、四角くありません」


「……嘘」


「嘘は申しません。四角く見えるのは、上へ膨らんでいるからです。上へ膨らんでいるのは、根元が全部同じ方向に立っているからで、これは押さえるとかえって広がります」


 テアは黙って、鏡のほうを見ないようにしていた。鏡の前に座らされているのに、目だけを膝に落としている。


「触ってもよろしいですか」


 しばらく間があって、それから、小さくうなずいた。


    ◇


 まず湯をかけた。


 この毛は乾いたままでは動かない。湿らせて、重さを与えて、それから油を入れる。壺は使えなかったので、店の裏の棚から母の予備を出した。固まってはいたが、手のひらで温めると、端のほうから戻った。


 油を指の腹に伸ばして、根元から入れる。上からではない。根元から。


 梳く。


 途中で止まったら、無理に引かない。止まったところで櫛を抜いて、そこより下から入れ直す。三度に分けて、下から上へ、少しずつ上げていく。


 毛が寝はじめたら、分ける。


 分け目は、この子の場合、右へ寄せてはいけない。渦が左にあるから、左へ寄せると自分の力で落ちる。


 撚る。


 太い毛は撚りが戻りやすいので、通す道を一つ増やして、増やしたぶんだけ締める。締めすぎると朝には痛む。痛まない締め方は、指の第二関節で測る。


 留める。


 留めるところは、この子の場合は低い。高い位置で留めると、重みで前が持っていかれる。耳の上の線より指二本ぶん下、うなじの生え際が始まるところで、一度だけきつく留める。


 そこから先は、ほどく作業になる。


 きつく留めたところを軸にして、上のほうを少しずつゆるめていく。ゆるめると、押さえつけられていた根元が自分の力で起き上がって、丸みを作る。膨らむのではなく、起き上がる。この二つは似ているが、違う。


 膨らませると四角くなり、起き上がらせると丸くなる。


 わたくしはそれを、母の手で覚えた。母は一度も口で説明しなかった。ただ、わたくしが押さえつけようとすると、手首を持って止めた。


    ◇


 終わったとき、日は傾いていた。


 テアはまだ膝を見ている。


「テアさん」


「はい」


「鏡を、ご覧になりますか」


 顔を上げるまでに、ずいぶんかかった。


 顔を上げて、それから、テアは何も言わなかった。鏡の中の自分を見て、右へ首を傾けて、左へ傾けて、それからもう一度まっすぐ戻した。


 手が上がりかけて、途中で止まった。触ったら崩れると思ったらしい。


「触っても崩れません」


「……崩れないんですか」


「今日は崩れません。明日の朝には少し落ちますから、そうしたらまたいらしてください」


 テアは指を一本だけ、耳の上に当てた。当てて、そのまま動かさなかった。


 それから、帽子を膝の上に置いたまま、こう言った。


「……ほんとに、四角くない?」


「四角くありません」


 わたくしは椅子の後ろから、もう一度、後ろ姿を見た。上に膨らんでいたものが、後頭部の丸みに沿って収まっている。この子の頭は、もともと丸い。


 テアは泣かないようにしていたが、うまくいっていなかった。


 しばらくして、帽子を椅子の上に置いたまま立ち上がった。置いていくつもりらしい。


「銭は」


「明日、お父様と一緒にいらしてください。そのときで結構です」


「明日も、来ていいんですか」


「明日は落ちますから、いらしてください」


 テアは扉のところで一度振り返って、それから、帽子を取りに戻ってきた。かぶらずに、手に持って出ていった。


    ◇


 その日の夕方、広場の水汲み場で、女たちが二人で話しているのを聞いた。


 聞くつもりはなかった。桶を借りに行っただけだ。


「――途中で戻ってきたんですって、馬車が」


「どこのお家の」


「レンヴァルトの。妹君のほう。夜会の門まで行って、そこから引き返したそうよ」


「なぜ」


「さあ。着いてから何かあったんじゃないの」


 わたくしは桶を借りて、店へ戻った。


 義妹様の毛は細い。細いから、撚りをひとつ多くしないと夕方までに落ちる。夜会は日が落ちてから始まる。門まで一刻、待つのに半刻。


 落ちるとしたら、ちょうどそのあたりだ。

【結い手の覚え】櫛が途中で止まったら、引きません。抜いて、そこより下から入れ直します。


お読みいただきありがとうございます。


街の噂は、水汲み場から広がります。★や感想も、だいたい同じところを通ります。


次話――隣の工房から、無口な男が鏡を二枚持ってきます。一枚では足りないのだそうです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ