第3話 四角い頭
鍵は回った。
蝶番のほうが先に鳴って、扉は下のほうが少し引っかかった。木が湿って膨れている。七年ぶんの雨を吸えば、それくらいはする。
中は暗かった。よろい戸を順に開けていくと、埃が光の柱の中で回りはじめた。
台があって、椅子が二脚あって、壁に鏡が一枚かかっている。鏡の面は曇っていたが、割れてはいない。母が使っていた低い椅子は、座面の右側だけが沈んでいる。母は右足に体重をかけて立つ人だったので、座り方まで右に寄っていた。
わたくしは棚を上から順に開けた。
櫛が七本、鋏が二挺、油の壺が四つ。壺の中身は固まって、押すと表面だけが白く割れた。使えない。買い直すには、まず銭がいる。
銭は、あまりない。
棚の下の抽斗に、母の帳面が入っていた。客の名と、日付と、その人の髪について一言ずつ書いてある。細い、湿りに弱い、夏は落ちる、去年より薄い。結い方は書いていない。書けるのは、その人の髪がどういうものかということだけだ。
最後の頁は、七年前の春で止まっていた。日付の下に、書きかけて消した線が一本ある。
わたくしはよろい戸を全部開けてから、床を掃いた。掃いても掃いても、板の目から埃が出てくる。午前のあいだ、誰も扉を開けなかった。
◇
その日の午後、扉の外に人が立った。
立って、それから離れていった。しばらくして戻ってきて、また離れた。三度目に戻ってきたとき、わたくしは扉を開けた。
十三か、それくらいの娘だった。ぶかぶかの帽子を目深にかぶって、つばを両手で握っている。握りすぎて、つばの前が波打っていた。
「あの」
娘は帽子のつばを握ったまま言った。
「無理だったら無理って、先に言ってください」
「何がでしょう」
「わたしの頭、四角いんです」
そう言って、笑った。笑い方が上手だった。何度も言ってきた言葉なのだと分かる。先に自分で言っておけば、他の人に言われても半分で済む。
「入りますか」
「……入って、それで無理だったら」
「入ってからにいたしましょう」
娘はもう一度つばを握り直して、それから、思い切ったように中へ入ってきた。
◇
帽子を取らせるのに、少しかかった。
テオドラという名で、通りの向こうの靴屋の娘だという。母親は三年前に亡くなって、今は父親と二人だ。父親は毎朝、娘の髪を上から押さえつけて帽子をかぶせる。押さえつけないと帽子が浮くからだ。
帽子を取ると、髪は横へ広がった。
硬い癖毛で、根元から折れるように曲がっている。一本一本が太く、張りがある。梳こうとすると櫛が途中で止まる種類の毛だ。
わたくしは横から、下から、後ろから順に見た。
「テオドラさん」
「テアでいいです。長いから、みんなそう呼びます」
「テアさん。あなたの髪は、四角くありません」
「……嘘」
「嘘は申しません。四角く見えるのは、上へ膨らんでいるからです。上へ膨らんでいるのは、根元が全部同じ方向に立っているからで、これは押さえるとかえって広がります」
テアは黙って、鏡のほうを見ないようにしていた。鏡の前に座らされているのに、目だけを膝に落としている。
「触ってもよろしいですか」
しばらく間があって、それから、小さくうなずいた。
◇
まず湯をかけた。
この毛は乾いたままでは動かない。湿らせて、重さを与えて、それから油を入れる。壺は使えなかったので、店の裏の棚から母の予備を出した。固まってはいたが、手のひらで温めると、端のほうから戻った。
油を指の腹に伸ばして、根元から入れる。上からではない。根元から。
梳く。
途中で止まったら、無理に引かない。止まったところで櫛を抜いて、そこより下から入れ直す。三度に分けて、下から上へ、少しずつ上げていく。
毛が寝はじめたら、分ける。
分け目は、この子の場合、右へ寄せてはいけない。渦が左にあるから、左へ寄せると自分の力で落ちる。
撚る。
太い毛は撚りが戻りやすいので、通す道を一つ増やして、増やしたぶんだけ締める。締めすぎると朝には痛む。痛まない締め方は、指の第二関節で測る。
留める。
留めるところは、この子の場合は低い。高い位置で留めると、重みで前が持っていかれる。耳の上の線より指二本ぶん下、うなじの生え際が始まるところで、一度だけきつく留める。
そこから先は、ほどく作業になる。
きつく留めたところを軸にして、上のほうを少しずつゆるめていく。ゆるめると、押さえつけられていた根元が自分の力で起き上がって、丸みを作る。膨らむのではなく、起き上がる。この二つは似ているが、違う。
膨らませると四角くなり、起き上がらせると丸くなる。
わたくしはそれを、母の手で覚えた。母は一度も口で説明しなかった。ただ、わたくしが押さえつけようとすると、手首を持って止めた。
◇
終わったとき、日は傾いていた。
テアはまだ膝を見ている。
「テアさん」
「はい」
「鏡を、ご覧になりますか」
顔を上げるまでに、ずいぶんかかった。
顔を上げて、それから、テアは何も言わなかった。鏡の中の自分を見て、右へ首を傾けて、左へ傾けて、それからもう一度まっすぐ戻した。
手が上がりかけて、途中で止まった。触ったら崩れると思ったらしい。
「触っても崩れません」
「……崩れないんですか」
「今日は崩れません。明日の朝には少し落ちますから、そうしたらまたいらしてください」
テアは指を一本だけ、耳の上に当てた。当てて、そのまま動かさなかった。
それから、帽子を膝の上に置いたまま、こう言った。
「……ほんとに、四角くない?」
「四角くありません」
わたくしは椅子の後ろから、もう一度、後ろ姿を見た。上に膨らんでいたものが、後頭部の丸みに沿って収まっている。この子の頭は、もともと丸い。
テアは泣かないようにしていたが、うまくいっていなかった。
しばらくして、帽子を椅子の上に置いたまま立ち上がった。置いていくつもりらしい。
「銭は」
「明日、お父様と一緒にいらしてください。そのときで結構です」
「明日も、来ていいんですか」
「明日は落ちますから、いらしてください」
テアは扉のところで一度振り返って、それから、帽子を取りに戻ってきた。かぶらずに、手に持って出ていった。
◇
その日の夕方、広場の水汲み場で、女たちが二人で話しているのを聞いた。
聞くつもりはなかった。桶を借りに行っただけだ。
「――途中で戻ってきたんですって、馬車が」
「どこのお家の」
「レンヴァルトの。妹君のほう。夜会の門まで行って、そこから引き返したそうよ」
「なぜ」
「さあ。着いてから何かあったんじゃないの」
わたくしは桶を借りて、店へ戻った。
義妹様の毛は細い。細いから、撚りをひとつ多くしないと夕方までに落ちる。夜会は日が落ちてから始まる。門まで一刻、待つのに半刻。
落ちるとしたら、ちょうどそのあたりだ。
【結い手の覚え】櫛が途中で止まったら、引きません。抜いて、そこより下から入れ直します。
お読みいただきありがとうございます。
街の噂は、水汲み場から広がります。★や感想も、だいたい同じところを通ります。
次話――隣の工房から、無口な男が鏡を二枚持ってきます。一枚では足りないのだそうです。




