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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第2話 朝の間

 朝の間、という部屋がこの屋敷にはある。


 東向きの小さな部屋で、窓は腰の高さから上にしかない。朝のあいだだけ、床にまっすぐ光が入る。髪を結うためだけに作られた部屋だ。上から光が落ちると毛の流れが読めないので、結い手の部屋の窓は必ず低いところに開いている。


 わたくしは七年、毎朝この部屋にいた。今朝は、廊下からその部屋を通り過ぎた。


 中では侍女が三人、お義母様を囲んでいた。


 お義母様は椅子に座って、正面を向いていらっしゃる。髪は背中まで垂れたままで、まだ一度も上がっていない。銀に近い白髪で、量はある。量はあるのだが、右のこめかみだけが薄い。若いころに熱を出して抜けたのだと、いつだったか一度だけ聞いた。


「上から三つ、下から二つ、ですよね」


 いちばん年若い侍女が、震える手で毛束を分けていた。


「三つ取ったら、次はどこですか」


「知らないわよ。あなたが見てたんでしょう」


「見てましたけど、奥様、手が速くて」


 三人とも、順番は言える。名前も言える。この家の形は三つ編みの冠で、輪をふたつ重ねて後ろで留める、というところまでは誰でも知っている。


 知らないのは、お義母様の右のこめかみをどう埋めるかだ。


 廊下の向こうから、義妹様が来られた。


 アデリーン様は今年二十二におなりで、この家でいちばん毛が細い。細いうえに量が少ないので、冠の輪をふたつ作ると、二つ目が痩せる。痩せたところに影が出ないよう、わたくしは毎朝、後ろの毛を一房だけ残して最後に回していた。


 その髪が、今朝は肩から前へ垂れている。寝床から起きたままの形で、右側だけが潰れていた。


「まだなの」


「あの、いま、順番を思い出しているところで」


「今日は昼から夜会よ。門で名を呼ばれるのよ」


 侍女が黙った。黙るしかない。


 アデリーン様はわたくしのほうを見て、それから見なかったことにして、椅子の空いているほうに座られた。この方はお義母様と違って、わたくしに冷たくあたったことがない。七年、一度もない。ただ、かばったこともない。


    ◇


「アニエス」


 呼ばれたので、戸口で足を止めた。


 お義母様は鏡越しにわたくしを見ていらっしゃる。垂らした髪のせいで、いつもより顔が小さく見えた。


「入りなさい」


「本日は、旅の支度がございますので」


「七年ぶんの恩を、一晩で忘れたの」


 わたくしは黙っていた。黙っているのがいちばん早いと、これも七年で覚えた。


「言っておきますけれど」


 お義母様は鏡から目を離さずに続けられた。


「あなたは家族ではありません。この家の備品です。備品が勝手に出ていくのを、世間では盗みと言うのよ」


 わたくしは戸口から一歩も入らずに、頭を下げた。


「では、盗まれた品の名を、台帳にお書きになるとよろしいかと存じます」


 お義母様の指が、膝の上で止まった。


 台帳に結い手の名を載せるには、典礼院へ届けを出さなければならない。届けを出せば、この家に七年、名を載せていない結い手がいたことが記録に残る。載せていなかったのは、載せると持っていかれるからだ。


 わたくしは廊下へ戻った。


 朝の間の窓から入った光が、床の途中で止まっていた。あの光は、九時を過ぎると壁まで届く。届くころには、髪はもう上がっていなければならない。


    ◇


 書類は、旦那様の書斎で交わした。


 家令のフーゴが立会人として立ち、羽根ペンをわたくしの前に置いた。この家に三十年いる人で、わたくしが嫁いできた日、門で最初に頭を下げたのもこの人だった。


 書類は三枚あった。一枚目が離縁の届け、二枚目が持ち出しの目録、三枚目は典礼院へ回す写しだ。


 一枚目の上のほうに、名前が二つ並んでいる。ジェラルド・レンヴァルト。アニエス・レンヴァルト。二つ目の姓は、今日で消える。


 三枚目に、結い手の欄があった。


 空欄だった。


 わたくしはそこで手を止めて、写しの上のほうを読んだ。結髪院の登録番号が並んでいて、王都に登録のある結い手が、家ごとに列を作っている。オルトレの名を探した。


 無かった。


「フーゴさん」


「はい」


「この写しは、いつのものですか」


「昨年の暮れに院から届いたものでございます」


 わたくしは指で列を三度たどった。オルトレは、祖母の代から王都に店を持っていた。母が亡くなったのは七年前で、それまで店は開いていた。届けの控えを、母が壁に貼っていたのを覚えている。


 いつのまにか、名が一つ消えている。


「フーゴさん。母の名は、どこへ行ったのでしょう」


 フーゴは写しを覗き込んで、しばらく黙っていた。それから、いつもの声で言った。


「わたくしどもには、分かりかねます」


 分かりかねます、というのは、この人が知っていることを言わないときの言い方だ。三十年ぶんの言い方を、わたくしは七年で覚えた。


 署名をした。名前を書くのは久しぶりで、オルトレの綴りを一度間違えかけた。七年、書かなかった名前は指のほうが忘れる。


 二枚目の目録に、フーゴが小さな字で品を書き足していた。覗くと、櫛一本、油壺一つ、着替え二枚、とある。それだけだ。嫁いできたとき、この家へ入れた荷はもっと多かったはずだが、あれは全部この家のものになったのだと、目録の短さが言っていた。


「フーゴさん。ひとつだけ伺っても」


「はい」


「わたくしが参りました年、この家は典礼院へ何をお出しになりましたか」


 フーゴは羽根ペンの先を拭いてから、こう答えた。


「婚姻の届けでございます」


「それだけですか」


「わたくしどもには、分かりかねます」


 二度目だった。


    ◇


 門を出るとき、荷物は旅嚢ひとつだった。


 櫛と、椿油の壺と、着替えが二枚。鋏は置いてきた。あれは家のものだ。


 門番が扉を開けて、それから開けたまま立っていた。閉めていいものかどうか、決めかねているらしい。


「奥様」


 後ろから、走ってくる足音がした。ハンナだった。前掛けのまま、片方の靴を履き替えている途中で出てきたのが分かる。


「奥様、あの、右のこめかみは」


「厚みを作るの。上から三つ取ったうちの、いちばん外側を一度ほどいて、薄いほうへ回す」


「回して、それから」


「回したら、そこだけ撚りを逆にするのよ。同じ向きだと戻ってしまうから」


 ハンナは唇を動かして、二度繰り返した。


「逆に。……逆にすれば、いいんですね」


「あなたの手なら、そのうちできるわ」


 嘘を言ったつもりはない。ただ、そのうちというのが三年なのか十年なのかは、わたくしにも分からない。母の手を見て育ったわたくしでさえ、母と同じ厚みを作れるようになるまでに、九年かかった。


 ハンナが何か言おうとして、そこで門が閉まった。


    ◇


 街へ下りる道は、屋敷の裏から続いている。七年前に一度だけ上ってきた道を、逆に歩いた。


 母の店は、東の広場から二本入った通りにある。閉めたまま七年、そのままにしてあると聞いていた。聞いていたが、確かめたことはない。この家の女は、用がなければ門を出ないからだ。


 鍵は持っている。旅嚢の底、櫛の下に入っている。


 まだ扉が立っていればいい、と思いながら歩いた。

【結い手の覚え】結い手の部屋の窓は、腰より下に開けます。上から光が落ちると、毛の流れが読めません。


お読みいただきありがとうございます。


次話――七年ぶりに店の扉を開けます。最初のお客様は、入ってくるなり「無理だったら無理って、先に言ってください」とおっしゃいました。

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