第1話 三つ編みの冠
旦那様が女を連れて帰っていらしたのは、雨の上がった午後だった。
玄関広間に立たされたその娘を、わたくしはひと目見て、髪のことを考えた。生え際が細く、こめかみの上に産毛の渦がある。毛そのものは太いけれど、根の張りが浅い。三つ編みの冠は、この子の頭では四日と保たないだろう。
そういうことを考えている場合ではない、とは自分でも思う。
旦那様は三日前から屋敷を空けていらした。二日で戻ると言い置いて出て、戻ってきたのは三日目の、しかも馬車が二台だった。門番が呼びに来たとき、わたくしはお義母様の朝の分を解いて、油を足しているところだった。指に油が残ったまま、階段を下りた。
「アニエス」
旦那様がわたくしの名を呼んだ。七年で、たぶん三百回ほど呼ばれている。そのうち用件のない呼びかけは、一度もなかった。
「ミレーユだ。今日からこの家に置く」
「さようでございますか」
「……それだけか」
それだけ、と申しますと。
わたくしは頭の中で、明日の朝の順番を数えていた。お義母様、義妹様、それから――この娘の分も要るのだろうか。要るのなら、湯を沸かす釜をもうひとつ出して、起きるのを半刻早めなければならない。
「あの」
娘が口を開いた。思ったより低い声で、腹から出ている。踊り子の声だと分かった。舞台で名を呼ばれ慣れた喉は、こういう鳴り方をする。
「あなたが、奥様?」
「アニエスと申します」
「ミレーユです。……あの、わたし、明日から冠を結っていただけるんですか」
旦那様が咳払いをなさった。
わたくしはもう一度、娘の頭を見た。分け目のとり方が悪く、右へ寄せた癖が根に残っている。ずっと自分で結ってきた頭だ。誰にも触らせたことがない。
「冠は」
わたくしが答えるより先に、階段の上から声が降ってきた。
「冠は、レンヴァルトの形です」
お義母様だった。手すりに指を置いて、一段ずつ下りていらっしゃる。膝が悪いので、朝以外はめったに二階から下りない方が、今日は下りていらした。
「この家の女しか結いません。踊り子の頭に載せるものではないの」
「じゃあ、この家の女になれば結っていただけるんですね」
お義母様の指が、手すりから離れた。
娘は悪意で言ったのではないと思う。そういう顔をしていた。ただ、道の向こうまで届く声で、いちばん短い道を通っただけだ。
◇
その晩、わたくしは自分の髪を梳かなかった。
梳く必要がないからだ。七年、ほどいていない。夜のうちは形が崩れないように布で包み、朝にほつれたところだけを整え直す。母が最後に結ってくれたのを最後に、わたくしは一度も自分の髪を解いていなかった。
鏡台に向かって、油の壺の蓋を開けた。椿の油は冬に固まり、夏には少しゆるむ。手のひらでしばらく温めてから使わないと、髪の途中で止まってしまって、根までいかない。
鏡の中の後ろ髪は、当たり前だが自分では見えない。
「奥様」
侍女のハンナが盆を持って入ってきた。十九になる娘で、この家でいちばん長くわたくしの手を見ている。今夜は台所を通らずに、裏の階段から上がってきたらしい。誰にも断らずに来たのだと、足音の運び方で分かった。
「明日の朝は、どうなさいます」
「いつも通りに」
「……あの、あの方の分は」
「旦那様がお決めになります」
ハンナは盆を鏡台の端に置いて、少し黙った。それから、声を落として言った。
「わたし、ずっと見てました。奥様の手」
「そう」
「見てましたけど、できません。順番は覚えたんです。上から三つ取って、下から二つ足して、そこで一度きつく締めて、それから――でも、その先がどうしても」
「その先は、人によって違うのよ」
ハンナが顔を上げた。
「違うんですか」
「違うわ。お義母様は右のこめかみが薄いから、そちらへ寄せて厚みを作る。義妹様は毛が細いから、撚りをひとつ多くしないと夕方までに落ちてしまう。同じ冠でも、頭が違えば通す道が変わるの」
「……それ、どこかに書いてあるんですか」
わたくしは首を振った。
「書けないの」
ハンナは何か言いかけて、やめた。言いたいことは分かる。書けないのなら明日の朝はどうなるのか、ということだ。
この家の女は、冠を結わずに人前へ出ない。出ないというより、出られない。門の外へ一歩でも出れば、頭の形で家の名が読まれる。名の読めない頭は、どの列にも並べないし、どの席にも座れない。婚礼にも葬儀にも、名の読めない頭は入れないのだ。
だから明日の朝も、お義母様は食堂へ下りていらっしゃるだろう。下りていらして、それから、どうなさるのだろうと思った。
◇
旦那様がわたくしの部屋にいらしたのは、日付が変わってからだった。
扉を開けたまま廊下の明かりを背にして立っていらっしゃるので、顔がよく見えない。言いにくいことをおっしゃるときにそういう立ち方をなさるのだと、七年で覚えた。
「離縁の書類を用意させた」
「承知いたしました」
「……早いな」
「明日の朝までに、と申しつかりましたので」
旦那様が一歩、部屋へ入っていらした。
「アニエス。俺は、お前が悪いとは言っていない」
「はい」
「ただ、お前は俺を見ない。七年、一度も見なかった。髪しか見ていないだろう」
それは、そうかもしれない。
現にわたくしは、そのときも旦那様の生え際を見ていた。三十四におなりだが後退はまだで、つむじがふたつある。子どものころ、乳母がさぞ苦労なさったろうと思う。つむじが二つある頭は、どちらへ流しても翌朝には割れる。
「慰謝料は出す。家も探させる」
「結構でございます」
「意地を張るな」
「張っておりません。母の櫛と、椿油の壺だけいただければ」
旦那様が短く笑った。笑ったというより、息が出ただけだ。
「そんなもの、いくらでも買える。櫛の一本や二本で――」
そこで一度言葉を切って、旦那様はこうおっしゃった。
「お前の代わりはいる」
◇
代わり。
何の代わりだろうと一瞬だけ考えて、すぐに分かった。妻の代わりではない。
七年前、この家がわたくしを迎えたのは、わたくしがオルトレの娘だからだ。母イルゼが亡くなったその年に縁談の話が来て、持参金はいらないと言われた。よい話だと、みなが言った。街の娘が侯爵家へ入るのだから、それはよい話に決まっていると。
結い手を、家に置く。それだけの話だったのだと、いま口に出されて分かった。
わたくしは寝台の脇の抽斗を開けて、母の櫛を取り出した。黄楊の櫛で、峰から三本目と四本目の歯が欠けている。母もその欠けたまま使っていたし、わたくしも直さずに使ってきた。欠けたところに親指を掛けると、握りが決まる。
布に包んで、旅嚢の底に入れた。
「アニエス」
旦那様がまだ扉のところにいらした。
「明日の朝、最後にもう一度だけ結ってくれないか。母上と、アデリーンの分を」
わたくしは布の結び目を確かめてから、顔を上げた。
「旦那様」
「なんだ」
「明日の朝から、この家の女は、もう髪を結えません」
旦那様はしばらくのあいだ、わたくしの言葉の意味を探しておいでのようだった。
わたくしが結わない、と申し上げたのだと思っていらっしゃる。
半分は合っている。
【結い手の覚え】同じ形でも、頭が違えば通す道が変わります。だから形の名は書けても、結い方は書けません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――朝が来ます。レンヴァルト侯爵家の女たちは、髪を垂らしたまま食堂に集まります。




