第35話 オルトレの形
大典の朝、城の小さな部屋には、灯りが三つ点いていた。
窓が低いので、朝のうちは光が足りない。ゾフィー様は、灯りの位置を自分で決めていらした。左に二つ、右に一つ。右を減らすのは、右手の影を毛の上に落とさないためだ。
王女様は、まだいらしていない。
「手は」
わたくしがそう聞くと、その方は右手を持ち上げて、開いて、閉じた。
「今朝は、いい方です」
◇
王女様は、十六におなりだった。
椅子に座って、背を伸ばして、それきり動かれない。動かないのは行儀ではなく、慣れだ。四十六年、この城の頭はこの方の前で作られてきた。
毛は細い。細いが量がある。この組み合わせは、いちばん時間がかかる。ゾフィー様が結いはじめた。わたくしは、その斜め後ろに立って、油の壺の蓋を開けて待った。控えというのは、そういう役だ。
◇
王家の形を、わたくしはここには書かない。書かないのは、決まりだからでもあるし、書けないからでもある。
言えるのは、光を返さない面が正面に来ること。上へ上げる前に、一度下へ落とすこと。それだけだ。ゾフィー様の手は、二度止まった。
二度とも、止まる前に櫛が抜けていた。最後の留めを差すときに、その方は一度、深く息を吐かれた。
留めが入った。
全部で、一刻近くかかった。わたくしが渡したのは、櫛が三度と、油が二度と、留めが七つだ。それ以外は何もしていない。
控えというのは、何もしないでいる役だった。何もしないでいるあいだ、わたくしはその方の手だけを見ていた。
止まりそうになるところが、四度あった。四度とも、そこへ来る前に手の速さが変わっていた。速さを変えて、止まる位置を先へ送っている。
四十六年で、身につけたやり方だ。三年前に震えが出てから覚えたのでは、間に合わない。この方は、たぶん、もっと前から少しずつ備えていた。
王女様が立ち上がって、部屋を出ていかれた。扉が閉まってから、ゾフィー様は椅子に座られた。座ってから、右手が動きはじめた。
朝の分を、使い切ったのだと分かった。
「終わりました」
「はい」
「四十六年で、四十六回です。成人の儀は、一代に一度ですから」
その方は、震える手を膝に置いたままにしていらした。
「あと一度、下の姫様がおいでです」
「五年後でございますね」
「五年です」
◇
わたくしは、道具を拭いた。拭きながら、聞くつもりのなかったことを聞いた。
「ゾフィー様のお師匠様は、どのような形をなさっておいででしたか」
「わたしの師ですか」
「はい」
その方は、少し考えてから答えられた。
「後ろで束ねておりました。城の結い手は、みなそうします」
「では、束ねた下は」
その方は、こちらを見た。しばらく見て、それから、ご自分のうなじに手をやられた。
「何か、入っておりました」
「ご覧になりましたか」
「見せてはくれませんでした。一度だけ、湯上がりに、ほどけているのを後ろから見ました。線が二本、斜めに入っておりました」
◇
わたくしは、櫛を持ったまま立っていた。
「その形の名を、お聞きになりましたか」
「聞きました。無い、と言われました」
「無い」
「結い手の形に名は要らない、と。列に出ないのだから、読まれることもないでしょう、と」
その方は、震える手をもう片方の手で包まれた。
「そのときは、そういうものだと思いました。四十六年、そう思ってきました」
結い手は、人の頭を作る側の人間だ。
作る側は、列に出ない。出ないので、形が要らない。要らないものに名を付ける道理がないので、名が無い。
名の無い形は、台帳に載らない。載らないので、書き取りの対象にもならない。十五年、院は二百十四の手順を集めたが、そこには結い手自身の形が一つも入っていない。
入るはずがない。誰も、それを「形」だと思っていなかった。わたくしのうなじの上にあるものは、そういうものだった。
どの家のものでもない、のではない。結い手の家のものだから、どの家にも当たらない。
三代、オルトレの女が、自分の頭にだけ載せてきた。載せて、誰にも見せず、名を付けず、列にも出ずに、人の頭を作ってきた。
母は、それを台帳に載せろと言ったのではない。名の無いものが在る、ということを、一行だけ書き残せと言ったのだ。
一行あれば足りる。
台帳に一行あれば、次に誰かが同じものを持ってきたときに、突き返す理由がなくなる。突き返されなければ、その形は帳面の上に残る。
残ったところで、結える人が増えるわけではない。図に描けないものは、やはり描けようがない。それでも、無いことにはならない。
母が七年前に欲しかったのは、たぶんそれだけだ。技を守れとも、院をやめさせろとも書いていない。書いたのは、置く場所を作ってくれ、という一行だった。
その一行を、院は書式の不備で戻した。戻した紙は、七年、どこかの棚にある。
◇
城を下りたのは、昼前だった。
広場の列は、まだ続いていた。二百七十の家の名が、順に読み上げられている。いちばん上から読み上げるので、王家はもう済んでいる。
道から、少しだけ見た。
公定形の頭が、いくつも並んでいる。輪がひとつ、低い位置に載っている頭だ。同じ形が、十も二十も続いて、そのあいだに、輪をふたつ重ねた頭が混ざる。
混ざっている方が、少ない。
レンヴァルトの頭も、その中にあった。
輪がひとつ。前から見れば、丘の上のどの家とも同じ形だ。
あの家は、七年わたくしを囲って、去年それを手放した。手放したあとに残ったのは、名の読み上げだけになる。名は残る。形は残らない。
残らないものを毎朝作っていたのが、わたくしの七年だった。わたくしは、それを最後まで見なかった。見なかったのは、腹が立ったからではない。
あそこに並んでいる頭の半分は、二十年ぶりに名を呼ばれる方の頭だ。呼ばれて嬉しい人がいる。嬉しいまま帰って、鏡の前で泣く人もいる。
両方が本当で、どちらかを選べという話ではない。
選べという話にしてしまったのは、結える人が足りなくなったからだ。足りていれば、図は要らなかった。
店に戻ると、扉の前に人が立っていた。総長だった。今日は馬車がない。歩いて来られたのだと分かった。外套の裾に、埃がついている。
「大典の朝に、お城へ上がられたそうですね」
「控えに立っておりました」
「ゾフィー殿は、結われましたか」
「結われました」
その方は、そこで一度、目を閉じられた。閉じて、開けた。それだけの動きに、二十日ぶんが入っていた。
「よかった」
その方が、初めて数字ではないことを仰った。
この人は二十日のあいだ、ゾフィー様が倒れる場合の手を考えていた。考えて、間に合わせるつもりでいた。
間に合わせずに済んだ朝に出た言葉が、それだった。
わたくしは扉を開けて、中へ通した。今日は茶を出さなかった。出す前に、その方が話しはじめたからだ。
◇
「お預かりしていた紙のことで、参りました」
その方は、脇に抱えていたものを持ち直された。布に包んだ、厚いものだ。形からして、帳面だと分かった。
「返しに来られましたか」
「いいえ」
その方は、包みを台の上に置かれた。
「台帳を、持ってまいりました」
【結い手の覚え】結い手は、後ろで束ねます。束ねた下に何を入れておりましても、列に出ないものは、読まれません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――院の台帳が、店の台の上に置かれました。名の欄を空けたまま、載るのだそうです。




