第34話 二本の歯
院からは、三日待っても何も言ってこなかった。預かりというのは、そういうものらしい。受理でも不受理でもないものは、期限の外にある。
大典は、明後日だ。
その日の朝、わたくしはテアを椅子に座らせて、自分がその後ろに立った。逆にした。わたくしが座って、テアが後ろに立った。
「触ってごらんなさい」
「いいんですか」
「あなたが、頭を触らせてもらえたら分かると仰いましたので」
◇
テアは、しばらく手を出さなかった。出さずに、二枚組の鏡の角度を直していた。直しても、うなじの上は映らない。分かっていて、二度直した。
それから、指を当てた。
「あ」
声が出た。
「二本、あります」
「はい」
「これ、下から上がってきてます。左からのが、右からのの下に入ってます」
「右が上でございます」
テアは、指を離さずに言った。
「フォルクマー様のと逆ですね」
「あちらは耳の上でございます。こちらは、うなじの上です」
「場所が違うと、逆になるんですか」
「同じ形ではございませんので」
似た形は、いくつもある。
フォルクマーは耳の上で交わらせる。ベルクマンは耳の後ろで三度折り返す。どちらも、外から見れば線が交わっているだけだ。
交わる場所と、どちらを上にするかで、別の家の紋になる。それが、この国の決まりごとだった。うなじの上で交わらせる家を、わたくしは知らない。
母の帳面の二百人ぶんにも、ない。テアは、輪をほどいた。ほどくと、交差が肌の上に出る。七年ぶんの癖がついているので、ほどいても線が残っている。
「結ってみます」
「どうぞ」
その子は、母の絵を横に置いた。順の数字が、三つまで振ってある。一。右の下から取る。二。左の下から取る。三。右を上にして、うなじの上で交わらせる。
そこまでは、できた。四つ目で、手が止まった。
◇
「上がりません」
「どこがでございましょう」
「二本とも、同じ櫛で拾ってるからです」
テアは、自分の櫛を見た。歯の詰まった、新しい櫛だ。
「一本ずつ拾わないと、根元がねじれます。ねじれたところに輪を載せると、下がぐしゃぐしゃになります」
「では、どういたしましょう」
「櫛を、二本使えばいいと思うんですけど」
その子は、そこで言葉を止めた。
「二本使うと、持ち替えるあいだに、片方が落ちます」
◇
わたくしは、自分の櫛を渡した。母のものだ。飴色に変わっていて、峰から三本目と四本目の歯がない。テアは、それを受け取って、しばらく見ていた。
「これ、いつも使ってるやつですよね」
「はい」
「欠けてるところ、ここですか」
「そこでございます」
その子は、櫛を頭に当てた。
欠けたところが、うなじの上に来る。左の一本が、隙間の左側の歯に入る。右の一本が、右側の歯に入る。隙間の幅のぶん、二本は別々に持たれる。
持たれたまま、上下を決められる。テアは、そのまま右を上にして交わらせて、輪を載せた。
上がった。
指で確かめると、交差の下に隙間がない。締めが均していて、左右の厚みが同じだった。わたくしが自分でやると、こうはならない。自分の後ろは、鏡でも見えないからだ。
七年、この形を頭に載せていて、わたくしはこれを一度も結ったことがない。ほどいたのが一度だけで、結ったのは母だけだ。
いま初めて、これを結える人が、もう一人できた。
「アニエスさん」
「はい」
「この櫛、この形のためのやつです」
わたくしは、鏡の中の自分の後ろを見ようとして、見えなかった。
「祖母が折ったものだと、十二の年から聞いております」
「なんて言われましたか」
「細い毛を掬うときに、歯が詰まっていると束が拾えない、と」
「それも、ほんとうですね」
テアは、櫛を返しながら言った。
「ほんとうですけど、それだけなら、一本抜けばいいです。二本抜くと、隙間が広くなりすぎます」
「広すぎますか」
「細い毛を拾うだけなら、広すぎます。二本を分けて持つには、ちょうどです」
◇
わたくしは、櫛を手の中で回した。三本目と四本目。峰から数えて、その二本。
母は、この櫛を使い続けた。折れているから買い替えないのだと、わたくしは思っていた。フーゴに新しい櫛を返したときも、そう説明した。細い毛を掬うため、と。
母が言ったとおりを、わたくしは十四年、そのまま人に言ってきた。言ったことは、嘘ではない。嘘ではないが、半分だ。残りの半分は、母が言わなかった。
言わなかったのは、言う相手がいなかったからだと思う。この櫛の残りの半分の使い道は、うなじで交差する形を結うときにしか要らない。その形は、この家の中にしかない。
◇
祖母のことを、わたくしはほとんど知らない。名を、母は数えるほどしか口にしなかった。総長が院の登録簿で読み上げたのが、わたくしが字で見た最初になる。
その人が、櫛の歯を二本折った。
折ったのは、形が先にあったからだ。形があって、それを結うために道具を作り替えた。作り替えた道具は、次の代に渡った。渡った先で、形と一緒に使われた。
三代で渡ってきたのは、形だけではない。形と、それを結うための櫛と、その櫛の欠けの理由の半分だけが渡ってきた。
半分が欠けたまま渡ったものを、わたくしは十四年持っていた。渡し損ねたのではない。母は、渡す途中で死んだ。
結い方を渡すのに、何年かかるかは知っている。わたくしが冠を覚えるのに四年かかった。四年のうち最初の一年は、人の頭に触れていない。
母は、わたくしが十八のときに亡くなった。十二から教えはじめて、六年だ。六年で渡せたのは、街の家の形と、丘の上の形が五つと、櫛の欠けの理由の半分だった。
残りは、わたくしの頭の上に載せて渡された。
載せたまま嫁がせて、七年ほどかせなかったのは、そのためだったのかもしれない。ほどけば消える。消える前に、誰かがそれを見る日が来ると、母は思ったのだろうか。
思ったのだとしたら、その日は七年後に来た。来たときには、見た人は自分の目では見られなかった。
◇
テアが、桶を持って出ていきかけて、戻ってきた。
「あの。今の、書けますか」
「何をでございましょう」
「櫛のこと。二本抜いたところで分けて持つ、っていうの」
わたくしは、届け出の写しを見た。図の欄には、母の絵を写してある。線と、丸と、数字が三つ。櫛のことは、書いていない。
「書けます」
「じゃあ」
「ですが、書きますと、櫛が要ることになります。峰から三本目と四本目の歯を抜いた櫛が、この形には要ります」
「要りますね」
「そう書いた紙を読んだ方は、まず櫛を折ります」
テアは、少し笑った。
「折りますね。折って、たぶん、違うところを折ります」
わたくしも、そう思う。
三本目と四本目という言い方は、櫛の歯の数が同じでなければ通じない。母の櫛は歯が三十二本ある。新しいものは四十を越えているものが多い。
同じ紙を読んで、同じところを折れる人は、この街に何人いるだろう。明後日が大典だ。院からは、まだ何も言ってこない。
【結い手の覚え】歯を二本抜いた隙間は、細い毛を拾うためだけのものではございません。二本の束を、別々に持つための幅でございます。
お読みいただきありがとうございます。
次話――大典の朝でございます。城の小さな部屋で、七十一の手が待っております。




