第33話 項目をひとつ
届け出の用紙を、台の上に広げた。欄が五つある。届け出人。登録番号。形の名。図。それから、いちばん下に日付。
名前と番号と日付は、書ける。図は、母が四度描いたものがある。あの絵をもう少し丁寧に写せば、欄には収まる。
三つ目の欄が、埋まらない。
◇
わたくしは、その欄をしばらく見ていた。
名を付ければいい。オルトレの形、と書けば通る。通れば、図が刷られて、台帳に載る。載れば、この形は残る。
残ると言っても、残るのは名前と、正面と横の絵だけだ。うなじの上の交差は、絵にすると線が二本になる。上下は決まらない。
半分残るなら、何も残らないよりましだと、総長は仰った。わたくしは、その理屈に一日かけて反対できなかった。
反対できないまま、朱の一行を見た。
——名の欄が空白のものは受理せず。
この一行を、院はわざわざ書き足している。書き足すのは、空白で出してくる者がいるからだ。わたくしは、そこで手が止まった。
空白で出す者は、名を思いつかなかったのではない。名を書く欄に何も書かずに出すというのは、書けなかったのではなく、書かなかったということだ。
母は、書式が整っていないと言われた。整っていないというのは、欄が埋まっていないということだ。七年前、母は、名の欄を空けたまま出した。
◇
わたくしは、帳面を出して、絵のある頁を開いた。三つの絵に、順の数字が振ってある。一、二、三まで。四つ目は、線が一本あって、その先がない。
母は、書ける限りを書いて、書けないところで止めている。止めたところまでを、そのまま院へ持っていった。
名の欄には、何も書かなかった。
書けば、その形は「オルトレ家の形」になる。家の形になったものは、その家の女が載せるものになる。列に出て、名を呼ばれて、席に着く頭の紋になる。
オルトレは、列に出る家ではない。三代、人の頭を作ってきた家だ。母が残したかったのは、家の紋ではない。
書けないものが世の中にある、ということを、院の台帳に一行だけ残したかったのだと思う。
◇
だから、名の欄は空白でなければならなかった。
名前を書いた時点で、それは「書けるもの」の仲間に入る。名があって、図があって、台帳に載っている形は、いずれ図に刷られる。刷られた図で結った頭は、後ろが留まらない。
母の願い出は、形を登録してくれという願い出ではない。台帳に、名のない形を置く場所を作ってくれ、という願い出だ。
院は、それを書式の不備として戻した。
戻したのは、たぶん、意味が分からなかったからだ。書記は、空欄を見て、書き忘れだと思ったのだろう。思って、突き返した。
母は、二度目を出さなかった。その年の夏に、亡くなった。二度目を出さなかったのは、諦めたからではないと思う。
あの人は、四度描いて五度目を描かなかった人だ。同じことを二度やって同じ結果になるなら、三度目はやらない。やらないかわりに、別の残し方をする。
その別の残し方が、わたくしの頭だ。
春に突き返されて、夏に寝ついた。そのあいだのどこかの朝に、母はわたくしを座らせて、この形を結った。
結ったものは、七年もった。紙は一日ももたなかった。
どちらが残ったかといえば、頭の方だ。ただし、頭は一つしかない。載せている人が一人しかいないものを、残ったと言っていいのかどうかは、また別の話になる。
◇
テアが、桶を持ったまま台のところに立っていた。
「アニエスさん。それ、書かないんですか」
「書けない欄がございます」
「名前のところですね」
「はい」
「空けたら、駄目って書いてあります」
「書いてございます」
テアは、紙を横から覗き込んだ。
「じゃあ、名前を作ればいいじゃないですか。適当に」
「適当に付けますと、それが名になります」
「なりますね」
「なりましたら、この形は名のある形になります。名のある形は、いずれ刷られます」
テアは、しばらく黙って、それから言った。
「刷ったら、後ろが分かりませんね」
「はい」
「じゃあ、名前がないってことを、名前のところに書けばいいんじゃないですか」
わたくしは、その子の顔を見た。
「もう一度、仰っていただけますか」
「え。あの、その、名前が無いんですよね。だったら、無いって書くのは、嘘じゃないです」
テアは、桶を持ち直した。
「無いって書いて、駄目って言われたら、それはもう、書き忘れじゃないです」
わたくしは筆を置いた。
この子は十四だ。院の書式も台帳の作りも知らない。知らないので、空欄と「無い」の違いを、そのまま見た。
母は書かなかった。わたくしは書く。やることは同じで、紙の見え方だけが変わる。変わった紙は、読まないと突き返せない。
七年前に足りなかったのは、たぶんそこ一つだった。
◇
わたくしは、筆を取った。三つ目の欄に、名を書かなかった。
書いたのは、こうだ。
——この形に名はありません。名を付けると、別の形になります。
図の欄には、母の絵を写した。四つ目の線は、途中で止まったところまでを、止まったまま写した。いちばん下に、一行だけ書き足した。
——名のない形を置く欄を、台帳に一つお作りください。
日付を入れて、名を書いて、登録番号を写した。母が出したものと、同じものになったかどうかは、分からない。分からないが、空白ではない。
空白は、書き忘れに見える。書き忘れに見えるものは、突き返される。突き返した側は、突き返したことを覚えていない。
書いてあるものは、読まないと突き返せない。
読めば、書いた者が何を言っているかが分かる。分かったうえで突き返すなら、それは書式の話ではなくなる。
母のときと、そこだけが違う。
◇
翌朝、院へ持っていった。受付の書記は、若い方だった。用紙を受け取って、上から順に目を落として、三つ目の欄で止まった。
「これは、名ではございません」
「名がございませんので」
「名の欄には、名を書いていただきます」
「無いものは、書けません」
その方は、紙をこちらへ押し戻された。
「書式が整っておりません」
わたくしは、押し戻された紙を、押し戻さなかった。
「では、整っていない旨を、受付の帳面に書いていただけますか」
「は」
「七年前にも、同じ書式のものが出ております。イルゼ・オルトレの名で。そのときも、受理されておりません」
書記の方は、手を止めた。
「そちらは、帳面に残っておりますでしょうか」
書記の方は、返事をなさらない。奥へ入って、なかなか戻ってこられなかった。戻ってきたときには、一人ではなかった。
年嵩の書記が、こちらの紙を手に取って、三つ目の欄を読んだ。読んで、いちばん下の一行も読んだ。それから、わたくしの顔を見た。
「お預かりだけ、いたします」
「受理ではなく」
「預かりです」
その方は、紙を持って奥へ入っていかれた。
わたくしは、受付の前でしばらく待った。控えの紙は出なかった。預かりというのは、そういうものらしい。
院を出ると、外は明るかった。広場では、大典の板をまだ運んでいた。
【結い手の覚え】名を付けると、それは名のある形になります。名のある形は、いずれ紙に刷られます。
お読みいただきありがとうございます。
次話――母の櫛の、欠けた歯二本の話をいたします。祖母が折ったものだと、わたくしは十二の年から聞いておりました。




