第32話 読まれた頭
アウグステ様は、馬車で来られた。前に伺ったときは、次から馬車を出すと仰った。その馬車が、今度はご自分を乗せてうちの前に停まった。
「三度、呼ばれました」
椅子に座るなり、そう仰った。
「予行と、そのあとの集まりが二度。三度とも、名前を読み上げていただきました」
「さようでございますか」
「二十年ぶりに、席の前の方に座りました」
その方は、そこまで早口で仰って、それから黙られた。黙ってから、鏡を見ていらっしゃる。
鏡の中の頭には、輪がひとつ載っている。わたくしが結ったものではない。屋敷の侍女が図のとおりに結ったのだろう。留めが三つで、位置が高い。この頭には高すぎる。
高すぎるが、崩れてはいない。今日の集まりまでは保つ。
「今日は、何をいたしましょう」
「戻していただけますか」
「戻す、と申しますと」
「うちの形に」
わたくしは、道具を並べる手を止めた。
「ラントシュテットの形は、輪をふたつ重ねます」
「そうです」
「二十年、同じところで束ねていらっしゃいます。右の後ろが薄うございます」
「結えませんか」
「やってみます」
◇
梳いて、分けて、薄い側へ寄せた。寄せて、撚って、一つ目の輪を作った。ここまでは上がる。
二つ目の輪を作るには、上の毛を使う。上の毛は、一つ目の輪に取られている。取られたぶんを足すには、下から回す。下から回せば、輪の下が痩せる。
痩せたところは、歩けば下がる。
三度、やり直した。
三度目に、テアが横から言った。
「アニエスさん。上の輪、小さくしたらどうですか」
「小さくすると、形が変わります」
「変わりますけど」
テアは、鏡の中のアウグステ様を見た。
「変わりますけど、いまのままだと、うちの形にも公定形にもなりません」
◇
わたくしは、手を止めた。テアの言うとおりだった。
わたくしがやっているのは、ラントシュテットの形を、この頭に合わせて小さくしていく作業だ。小さくしていけば、どこかで公定形の右の図と同じ大きさになる。
同じ大きさになったところで、それはもう、どちらでもない。
「テアさん」
「はい」
「あなたなら、どちらにいたしますか」
テアは、少し考えてから言った。
「わたしは、公定形にします。そのほうが、この方の頭では保ちます」
「では、うちの形は」
「保たないです。三時間くらいです」
その子は、そこで一度、アウグステ様の後ろに回った。
「でも、三時間なら、上がります」
わたくしは、この子の言ったことを、頭の中でもう一度並べた。公定形なら保つ。うちの形なら三時間。三時間なら上がる。
三つとも、この頭を触った者にしか言えないことだ。図を見ただけでは言えない。教わっただけでも言えない。両方を知っていて、いま目の前の頭に手を当てた者だけが言える。
この街で、それを言えるのは二人しかいないと、わたくしはこの子に言った。言ったときは、慰めのつもりが半分あった。いまのは、慰めではない。
「三時間、上がりますか」
アウグステ様が、鏡の中でそう仰った。
「上がります。あの、崩れるときは、後ろから落ちます。前から見ると、崩れているのが分かりません」
「三時間で結構です」
その方は、そう仰った。
「集まりは二時間です」
わたくしは、上の輪を大きく取り直した。下から回して、痩せるところを承知で作った。結い上がるまでに、いつもの倍かかった。
輪がふたつ、重なっている。二十年前に、この家の女たちが載せていたものだ。
鏡を回した。
アウグステ様は、しばらく黙って見ていらした。それから、両手で顔を覆われた。
◇
泣いていらっしゃるのが分かるまで、少し間があった。声を立てない泣き方だった。肩も動かない。手の下から、顎のところへ落ちるものが見えて、それで分かった。
「申し訳ございません」
その方は、手を下ろしてそう仰った。
「三度、呼ばれて、嬉しかったのです。ほんとうに嬉しかった」
「はい」
「嬉しかったのに、帰って鏡を見ると、これは誰の頭だろうと思いました。呼ばれたのはラントシュテットで、載っているのは公定形の三番です」
その方は、目のところを押さえられた。
「贅沢を申しております」
「いいえ」
「二十年、名前を呼ばれなかった女が言うことではありません」
贅沢ではない、とわたくしは思った。
読まれるというのは、その家の女であると認められることだ。認めるのは院で、院が見るのは形の名だけになる。名が合っていれば、頭の中身は問われない。
問われないものを、この方は二十年欲しがった。手に入れてみたら、欲しかったのはそれではなかった。欲しかったのは、うちの形で座ることだ。
二つは、外から見ると同じに見える。同じに見えるので、贅沢だと言われる。
◇
わたくしは、留めを一つ足した。
「三時間でございます」
「ええ」
「集まりが終わりましたら、そのままお戻りください。戻られたら、ほどいてお休みくださいませ」
「ほどいて」
「ほどいた跡は、二日残ります。二日のあいだは、輪が立ちやすうございます」
アウグステ様は、代を払って、馬車へ乗られた。乗る前に、一度だけ振り向かれた。
「あなたのお祖母様は、うちに来ていらしたそうね」
「帳面に、三度ございました」
「そう。母が、そう申しておりました」
◇
その日の夕方、ヴィルヘルミナ様が二度目にいらした。今度は、梳いてくれとは仰らなかった。椅子にも座られなかった。
「頼みがあります」
「伺います」
「レンヴァルトの冠を、あなたの帳面に書いておいてくださいませんか」
わたくしは、返事をしなかった。
「アデリーンは結えません。教える者もおりません。あの家の形は、わたくしの代で終わります」
「お家には、書き取りの写しがあるかと」
「院に出したものは、使い物にならないと聞きました」
その方は、扉のところに立ったまま仰った。
「あなたが七年、毎朝結ったものです。書けるのは、あなたしかおりません」
「書けません」
わたくしは、そう答えた。
「書けるのは、名前と、だいたいの見た目までです。お義母様の右のこめかみのことは、書けます。アデリーン様の頭のことは、書けません」
その方は、少し黙って、それから頷かれた。
「それは、そうでしょうね」
その方は、扉に手をかけたまま、少し立っていらした。
「アデリーンは、来年に嫁ぎます。嫁げば婚家の形になりますから、レンヴァルトの冠を結う者は、もうおりません」
「はい」
「終わるものは、終わるのでしょう」
わたくしは、何も申し上げなかった。慰めを言えば、あの方は嗤う。嗤われるのが嫌なのではなく、慰めが要る話ではなかった。
◇
その方が帰られたあと、扉の下に紙が挟んであるのに気づいた。院の使いが置いていったものだ。届け出の用紙だった。
——形の届け出。届け出人。登録番号。形の名。図。
欄が五つある。
いちばん右の隅に、朱で小さく書き足してあった。
——名の欄が空白のものは受理せず。
朱の字は、細い。院の書記の字だ。刷りの用紙にわざわざ書き足してあるのは、空白で出してくる者がいるからだろう。七年前にも、一人いた。
【結い手の覚え】崩れるときは、後ろから落ちます。前から見ているうちは、崩れているのが分かりません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――届け出の紙には、名を書く欄がございます。母が七年前に埋められなかったのは、そこでした。




