第31話 急ぐ理由
総長は、前と同じ椅子に座っていらした。
茶は、前と同じように手つかずで置いてある。テアに礼を言って、外へ出した。この子は何も聞かずに桶を持って出ていった。
「稽古の帰りですか」
「はい」
「ゾフィー殿の手のことは、聞いておられますね」
「拝見しました」
その方は、膝の上で手を組まれた。
「では、話が早い」
◇
「回答が、昨日までに三十一通参りました」
その方は、紙も見ずに数を言われる。
「五十一人のうち、要ると答えたのは十六人。うち十四人は、家に囲われた者の分を家が出したものです」
「街の店は、二人でございますね」
「あなたと、コルベルトの若いのです」
名前まで出た。
「要らないと答えたのが十五人。残る二十人は、まだ出しておりません。期限は大典の前日ですので、あと十七日ございます」
「二十人は、迷っておいでかと」
「迷う話ではないと、私は思っております」
その方は、そこで一度言葉を切られた。
「要ると答えれば、来年、書けと言われます。書けないと答えれば切られます。要らないと答えれば、今日から何も起こりません。迷う理由は、意地だけです」
◇
わたくしは、湯を沸かした。
「総長様」
「はい」
「なぜ、そこまでお急ぎになるのでしょう」
その方は、しばらく黙っていらした。この人が黙るのを、わたくしは初めて見た。前に来られたときは、こちらの問いに間を置かずに答えた。
「ゾフィー殿は、七十一です」
「はい」
「あの方が結える形を、ほかに結える者がおりません。四十六年、弟子を取らせておりません。取らせなかったのは、城です」
「存じております」
「あの方が倒れれば、王女様は頭を結わずに大典へ出られます」
湯が鳴りはじめた。
「王家の頭が、列で読まれません」
わたくしは、湯を落とす手を止めた。
王家の頭が読まれないというのは、こういうことだ。書記が名を読み上げて、王女様が前へ出て、後ろを向く。院の者が見て、頷けない。頷けなければ、列は次へ進まない。
進まないまま、二百七十の家がそれを見ている。その日から、列は成り立たなくなる。いちばん上の頭が読めない列で、下の家の頭を読む意味がなくなるからだ。
「二百七十の家のうち、読めない頭が百十八ございます。その百十八は、公定形で読めるようにします」
その方は、指を一本立てた。
「ですが、いちばん上が読めなければ、下を揃えても意味がありません。列というものは、いちばん上から読み上げます」
「王家の形を、公定形にはできませんのですか」
「できません。あの形は、王家のものです。院が定める形ではない」
「では」
「ですから、決めねばならないのです」
その方は、指を下ろされた。
「王家の形を、院の台帳に載せるか。載せるとすれば、誰の手で写すか。写せぬなら、大典の朝に何をもって王家の頭とするか。二十日で決めます」
◇
院が急いでいた理由が、それだった。書き取りを十五年やって間に合わなかったのは、丘の上の百十八ではない。いちばん上の一つだ。
ケルン様は、下から順に集めていらした。二百十四の手順を集めて、最後まで王家の形には手が届かなかった。届かないまま実演をして、割れた。
この方は、下を諦めて、上だけを見ている。下を諦めるというのが、公定形だ。百十八の家の形を図に置き換えて、その代わりに、王家の一つを守る。
「守る、と申してよろしいのでしょうか」
わたくしは、思わずそう聞いた。
「守る、で結構です」
その方は、そう仰った。
「私は、王家の形を残したいのです。残すために、ほかの百十八を図に替えます。それが取引だということも、承知しております」
◇
わたくしは、茶を淹れ直した。この方は、初めから何も隠していない。数を言い、期限を言い、取引だと自分で言う。
憎むには、足がかりが要る。嘘をつく人は憎める。威張る人も憎める。自分のためにやっている人は、いちばん憎みやすい。
この方は、そのどれでもない。
やっていることは、街の結い手を五十一人から十六人にすることだ。十六人のうち十四人は家に囲われていて、街には二人しか残らない。
残らないと分かっていて、この方は数を読み上げる。読み上げながら、王家の形は残したいと言う。残したいものが一つあって、そのために九十九を諦める人を、わたくしはどう呼べばいいのだろう。
屋敷にいたころ、わたくしはこういう人に会ったことがない。あの家の人たちは、諦めているという自覚を持たなかった。持たずに、いつのまにか結い手を失った。
「オルトレさん」
「はい」
「一つ、提案がございます」
その方は、茶に手を伸ばして、今度は一口飲まれた。
「あなたの家の形を、公定形の四番目になさいませんか」
◇
わたくしは、返事をしなかった。
「三十二年前の登録簿の註のことを、申し上げましたね。あれは、こう書いてあります。——書式外。名なし。手のみ」
「名なし」
「マレン・オルトレの登録に、その註がございます。イルゼ・オルトレにも同じものが。院は、二代にわたって、名の無い形を持つ家だと承知していたことになります」
その方は、椀を置かれた。
「四番目にすれば、図が刷られます。刷られれば、名が付きます。名が付けば、台帳に載ります」
「載ればどうなりますのでしょう」
「あなたの家の形は、残ります。少なくとも、紙の上には」
◇
「後ろの交差は、図に描けますか」
わたくしは、そう聞いた。その方は、答えなかった。答えないことが答えだった。
図に描けるのは、正面と横までだ。うなじの上で交差する二本は、絵にすると線が二本になる。どちらが上かは、絵からは決まらない。
決まらないものを刷れば、半分の人が上下を逆に結う。逆に結った形は、別のものになる。母は、それを知っていた。知っていて、四度描いて、五度目を描かなかった。
「上下が入れ替わっても、同じ絵になります。予行で三つ落ちたのと、同じことでございます」
「承知しております」
「では、刷られた四番目は、わたくしの家の形ではございません」
「そうなるでしょうね」
その方は、立ち上がられた。
「ですが、名の無いものは、いずれ無かったことになります。私は、無かったことになる前に、半分でも残す道を申し上げております」
扉のところで、こちらを向かれた。
「大典の前日までに、お返事をいただけますか」
馬車が出ていったあと、わたくしはしばらく椅子の背に手を置いていた。書式外。名なし。手のみ。
三十二年前に、祖母の名の下に書き添えられた三つの言葉だ。書いたのは院の書記で、たぶん、困って書いた。この登録をどう扱えばいいのか分からないので、そのまま書いた。
二代、そう書かれ続けて、十八年前に片方が消された。残ったのは、わたくしの頭の上にあるものだけになる。
テアが桶を持って戻ってきて、茶の椀を見た。
「今日は、飲んだんですね」
「一口だけ」
「一口でも、飲んだんですね」
夕方に、客が一人来た。
六十を越えた方で、ギーゼラさんのところの客だという。要らないに丸をつけたので、丘の上の形はもう結わないと言われたのだそうだ。
ギーゼラさんは、客を六人しか持っていないと仰っていた。その六人のうちの一人が、こうしてこちらへ来る。残りの五人がどこへ行くのかは、あの方も知らないだろう。
「ヴァイスの分家でしてね。後ろで結んで垂らすだけの形なんですけど」
「三寸上げると、余所行きになります」
「そう、それです。それを、あの人はいつも黙って上げてくれました」
わたくしは湯を落として、その方の髪を梳いた。細くて、後ろが少し痩せている。結ぶ位置を三寸上げると、痩せたところが正面から見える。見えないように、上げる前に左から一束、内側へ回す。
梳く。分ける。回す。結ぶ。上げる。
鏡を回すと、その方は自分の頭を見て、それから、うしろの方を見ようとして首を回された。
「上がってますね」
「上がっております」
「あの人が結ったのと、同じですか」
「同じではございません。同じ形です」
その方は、しばらく考えて、それから笑った。
「それで結構ですよ」
同じではない、と言ったのは、値を下げるためではない。あの方の手で三十年上がってきた頭を、わたくしの手で同じにはできない。できないものを、できると言って受け取ると、二度目に呼ばれなくなる。
代を受け取って、戸を閉めた。
今日、この街の結い手が一人減って、その客が一人こちらへ来た。減った人の手は、まだ何も失われていない。ただ、使う場所が無くなっただけだ。
使わない手は、五年で結えなくなる。
【結い手の覚え】列は、いちばん上から読み上げます。下を揃えても、上が読めなければ列になりません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――丘の上のお屋敷から、二十年ぶりに列へ出た方が、また店にお見えになります。今度は、泣いていらっしゃいました。




