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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第30話 あと一人

 稽古は、三日に一度と決まった。朝のうちに城へ上がって、昼過ぎに下りる。店はテアに任せる。任せて困らない日が、いつのまにか増えていた。


 二度目の日、ゾフィー様は侍女を一人連れてこられた。


「この子の頭で稽古します」


「王女様の頭ではなく」


「王女様の頭は、当日まで触りません。触れば、そのぶん形が付きます」


 言われて、そのとおりだと思った。前の日に結った跡は、翌日の毛の流れに残る。当日いちばんきれいに上がるのは、しばらく触っていない頭だ。


    ◇


 稽古のやり方は、ゾフィー様が仰ったとおりだった。その方が口で言う。わたくしが手を動かす。


「右の耳の上、指二本ぶん下から取ります」


「はい」


「取った束を、そのまま上へは上げません。一度、下へ落とします」


 落とす、というのを、わたくしは知らなかった。


 束を一度下へ落として、それから上げると、根元の向きが変わる。向きが変わると、上げたときに毛が寝る。寝た毛は光を返さない。返さない面が、正面に来る。


 王家の形は、光らない。そのことに、手を動かしながら気がついた。


「この形は、艶を出しませんのですね」


「出しません」


「なぜでございましょう」


「知りません」


 ゾフィー様は、そう仰った。


「四十六年、そう教わったとおりにしております。理由は、教わっておりません」


 わたくしにも、そういう手がいくつかある。


 レンヴァルトの冠は、外側を一度ほどいてから薄い側へ回す。回したところで撚りを逆にする。逆にする理由を、母は言わなかった。言わなかったが、逆にしないと三日で緩む。


 なぜ緩むのかは、いまも知らない。


 結い方というのは、こういうものの積み重ねだ。理由の分かっているものと、分からないままそのとおりにしているものが、半分ずつある。


 分からないままのものを、紙に書くことはできる。書けば、そのとおりに手が動く人がいるかもしれない。だが、書いた紙を読んだ人は、なぜそこで逆にするのかを聞いてくる。聞かれて答えられないものは、書き落とされる。


 書き落とされたものから、先に消えていく。


    ◇


 昼が近くなるころ、その方の手が動きはじめた。膝の上に置いた右手の、人差し指と中指の先だ。細かく、速い。ゾフィー様は、その手を左手で押さえなかった。押さえずに、そのまま置いていらした。


「見苦しいでしょう」


「いいえ」


「隠すと、力が入ります。力が入ると、肩まで来ます」


 その方は、震える手で椀を取って、こぼさずに飲まれた。持ち方が違う。指を三本しか使っていない。親指と、人差し指と、小指。中指と薬指は、椀に触れていなかった。


 三本で持てば、震えるのは残りの二本だけになる。この持ち方を覚えるのに、何年かかったのだろうと思った。午後、その方は侍女の頭を、ご自分で結われた。


「一度、見てください」


 手が震えている。震えたまま、櫛が入った。


 根元で止まらない。抜いて、下から入れ直す動きが、わたくしより速い。速いのは、止まる前に抜いているからだ。震える手は、止まったところで力を入れると跳ねる。跳ねる前に抜く。


 撚るときは、指を三本しか使っていらっしゃらない。留めを差すところで、一度、指先が跳ねた。跳ねた先が、頭皮に触れた。侍女の方は、何も言わなかった。ゾフィー様も何も仰らずに、留めを差し直された。


 結い上がった。


 上がった頭は、朝にわたくしが結ったものより、きれいだった。


    ◇


「どこが違いますか」


 聞かれて、わたくしは後ろから見た。


「留めの深さでございます」


「そう」


「わたくしのは、浅うございます。浅いと、夕方に緩みます」


「深く差すと、痛いのです。痛い深さの手前で止めるのが、いちばん難しい」


 その方は、櫛を布に置かれた。


「あなたは、上手です。あと二年もあれば、わたしと同じところまで行きます」


「二年」


「あなたは、もう覚えることができる人だからです。三十より前に人の頭を千は触っている手は、そういうふうになります」


 千という数を、わたくしは数えたことがなかった。七年、屋敷で三人の頭を毎朝結った。それだけで七千を超える。街へ戻ってからのぶんは、帳面につけている。


 数えたことがなかったのは、数えても誰も見ないからだ。この方は、数えずに当てた。当てたのは、この方も同じ数を通ってきたからだと思う。


    ◇


 道具を片付けているときに、その方が仰った。


「あなたのお母様に、一度お会いしています」


 わたくしは、手を止めた。


「二十年ほど前でしょうか。院の廊下で、順番を待っておりました。わたしは城の用で、あの方は登録の用で」


「母は、何か申しましたか」


「話しておりません。話したのは、わたしではなく、あの方と院の書記です」


 ゾフィー様は、少し思い出す顔をなさった。


「順番を書こうとしていらした。紙を広げて、一、二、と指で押さえながら、書記に何か説明しておいででした」


「その紙を、ご覧になりましたか」


「見ておりません。見えたのは、あの方の手だけです」


 その方は、ご自分の震える手を見た。


「手だけは、よく見えました。指の使い方が、うちの師と同じでしたので」


    ◇


「アニエスさん」


 その方が、初めてわたくしの名を呼ばれた。


「あなたは、ご自分の形をお持ちですか」


 わたくしは、少し黙った。


「ございます」


「そう」


「台帳にはございません。名前もございません」


「そうでしょうね」


 ゾフィー様は、それだけ仰った。驚きもなさらず、聞き返しもなさらない。その反応が、いちばん応えた。


 この方は、名前のない形が世の中にあることを、知っていらっしゃる。知っていて、四十六年、名前のある形だけを結ってこられた。


 帰り支度をしながら、わたくしは一つだけ聞いた。


「ゾフィー様は、ご自分の頭をどうなさっておいでですか」


「後ろで束ねております」


 その方は、こちらを見ずに答えられた。


「四十六年、王女様と、その前の王妃様の頭を結ってまいりました。自分の頭は、束ねるだけです」


「結わないのでございますか」


「結い手が結い手の形をしていると、客が落ち着きません」


 これは、母も言っていた。言い方は違ったが、中身は同じだ。


 結い手は、頭を作る側の人間で、作られる側にはいない。だから列に出ず、形も要らない。要らないものには、持っていても名前が付かない。


 三代、そうしてきた。わたくしのうなじの上にあるものは、その決まりの外側にある。


    ◇


 城を下りて店へ戻ると、通りに黒い箱馬車が停まっていた。三軒手前で止まっている。前と同じ止め方だ。テアが扉のところに立っていて、わたくしを見つけると、小走りに来た。


「アニエスさん。あの、院の」


「総長でいらっしゃいますね」


「はい。中でお待ちです。お茶、出しました」


「よくできました」


「飲んでません」


 飲まない人だと、この子はもう覚えたことになる。

【結い手の覚え】震える手で結うときは、止まる前に櫛を抜きます。止まったところで力を入れると、跳ねますので。


お読みいただきありがとうございます。


次話――院が何を急いでいたのか、その理由が出てまいります。総長は、椅子に座ったまま、二十日の話をなさいました。

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