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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第29話 王家の結い手

 翌朝、道具を包んでいると、隣の工房の戸が開いた。ヨナスさんが、木屑のついた前掛けのまま出てきた。


「どこへ」


「王城でございます」


 その方は、しばらく黙っていた。


「馬車」


「迎えが参ります」


「なら、いい」


 それだけ言って、中へ戻られた。戻る前に、店の看板を見ていかれた。今日は閉めることになるので、板を裏返して掛けてある。


    ◇


 王城は、丘の向こうにある。


 馬車で半刻ほどだ。門をくぐって、車寄せの手前で降ろされて、そこから先は歩いた。案内の方は一度も振り返らず、廊下の角を四度曲がった。


 通されたのは、日の当たらない側の小さな部屋だった。窓が、腰より下に切ってある。


 城の窓を低く切るはずがない。誰かが、この部屋のためにそう作らせたのだ。作らせた人は、結い手の部屋がどうあるべきかを知っていた人になる。


 部屋には、椅子が二脚と、姿見が一枚。棚に油の壺が並んでいる。壺の数は、うちの店の三倍あった。壺には、札が貼ってある。夏、冬、雨の日、と書き分けてある。字は同じ手だ。


 油を三通り使い分ける結い手を、わたくしは母のほかに知らない。椅子の一つに、老いた方が座っていらした。


「アルンハイムのゾフィーです」


「オルトレのアニエスと申します」


「知っています」


 その方は、そう仰って、こちらを見た。


 七十を越えていらっしゃる。背は低く、腰が曲がっていない。手を膝に置いて、指を組まずに置いていらした。


「イルゼさんの娘さんね」


「はい」


「そう」


    ◇


 用件は、その方が仰った。


「来月の末に、大典があります。王女様が成人なさる」


「伺っております」


「その日の頭を、わたしが結います。四十六年、この城の頭は、わたしが結ってきました」


「はい」


「その日、控えに立っていただきたいのです」


 わたくしは、道具の包みを膝の上に置いたままだった。


「わたくしは、王家の形を存じません」


「存じないでしょうね」


 その方は、あっさりと仰った。


「城の外の人間で、あの形を見たことがあるのは、いま二人だけです。一人は、この城の縫い方の頭。もう一人は、二年前に亡くなりました」


    ◇


「では、控えに立っても、結えません」


「結わなくてよろしい」


 ゾフィー様は、ご自分の右手を持ち上げた。指をまっすぐ伸ばして、そのまま止めていらっしゃる。


 止まらない。


 人差し指と中指の先が、細かく動いている。止めようとして止まらない動き方だった。


「三年前からです」


「はい」


「朝はましです。昼を過ぎると出ます。大典は、朝の儀ですから、当日は結えます」


 その方は、手を下ろされた。


「結えますが、万一があります。万一のときに、部屋に人がいないと、王女様は頭を結わずに列へ出ることになります」


「わたくしが控えていて、何をいたしましょう」


「わたしの手の代わりに、動いていただきます」


 その方は、そこで初めて姿見の方を向かれた。


「わたしが口で言います。あなたが手を動かします。それでしたら、あなたは形を覚えずに済みます」


 言って、少し間を置かれた。


「覚えられては困るのです。この形は、城の外へ出せません」


「では、お弟子は」


「取ったことがありません」


「四十六年、お一人で」


「一人です」


    ◇


 わたくしは、そのことの意味を、しばらく考えていた。


 囲われた結い手は、弟子を取らない。取れば、その家の形が外へ出る。外へ出た形は、余所の頭に載る。載れば、その家の紋ではなくなる。


 だから、囲う側は弟子を許さない。許さないから、結い手が一人になる。一人になった結い手が老いると、その家の形は、その人の手と一緒に終わる。


 ラントシュテット家は、十八年前にそれをやった。レンヴァルト家は、七年前にわたくしを囲って、去年それを失った。


 王家は、四十六年、一人で回してきた。


「王女様がお嫁ぎになると」


「嫁ぎ先の形になります。城には、下の姫様がおいでです」


「では、下の姫様の代までは」


「わたしは八十を越えております」


 ゾフィー様は、それだけ仰った。八十を越える、というのは、そのころまで生きているという意味ではない。


 この方は、下の姫様が成人なさる年に、ご自分が八十いくつになるかを、たぶん毎年数えていらっしゃる。数えて、足りないと分かっている。


 足りないと分かっている人が、弟子を取れない決まりの中に、四十六年いる。わたくしは、七年囲われて、それを窮屈だと思っていた。


 この方は、四十六年だ。しかも、囲われた先が国でいちばん上の家で、外へ出す形を一つも持っていない。


 わたくしには、街の家の形があった。街の家の形は登録が要らない。要らないので、誰にでも教えられる。テアに教えられたのは、その部分だ。


    ◇


 帰り際に、案内の方を待つあいだ、その方が一つだけ聞かれた。


「院の総長が、街へ行ったそうですね」


「参られました」


「何を言われました」


「間に合わない、と」


 ゾフィー様は、窓の方を見た。


「そうでしょうね」


 その方は、それきり何も仰らなかった。


 わたくしは、聞くべきことを聞かなかった。何に間に合わないのかを、この方はご存じの顔をしていらした。聞けば、たぶん答えてくださった。


 聞かなかったのは、この方が、そこまでは言うまいと決めた顔をしていらしたからだ。


    ◇


 城を出たのは、昼を過ぎたころだった。


 馬車から、大典の準備をしている広場が見えた。院の前の広場だ。予行の日と同じところに、いまは板を運び入れている。


 大典まで、二十日。


 板を運ぶ人足は十人ほどいた。板は白い。塗ったばかりの白だ。


 二百七十の家が並ぶ列は、この広場に入り切らない。予行のときは九十だった。当日は三倍近くになる。書記も三人立つと聞いた。


 列に出る家は前日までに札を受け取る。札には家の名と形の名が書いてある。書記はそれを読み上げる。読み上げられた家の者が前へ出て後ろを向く。


 その札に、うちの名は無い。


 無いのは今年に始まったことではない。祖母の代からずっと無い。オルトレは列に出る家ではなく、列に出る人の頭を作る家だからだ。


 わたくしは、そのことを一度も不足だと思ったことがなかった。


 要否の回答の期限も、その前の日だ。同じ日に、二つのことが決まる。


 店に戻ると、テアが店を開けて待っていた。客が二人来て、二人とも公定形で、二人とも結って帰したという。


「上手にできました」


「さようですか」


「あの、アニエスさん。王城って、どうでした」


「窓が低うございました」


 テアは、それを聞いて、うれしそうな顔をした。わたくしがどうしてそんな話をしたのか、この子はたぶん分かっている。


 夜、隣の工房の灯りが、また遅くまでついていた。削る音は、前より短くなっている。長く削るところは終わって、細かいところに移ったのだと思う。


 城で見た油の壺のことを、しばらく考えていた。夏と冬と雨の日で使い分ける人が、四十六年、あの部屋に一人でいる。


 わたくしの店には、油の壺が二つある。母の代からそうだった。

【結い手の覚え】囲われた結い手は、弟子を取りません。弟子を取れば、その家の形が外へ出ますので。


お読みいただきありがとうございます。


次話――七十一の手が、震えながら結い上げます。わたくしは、後ろで見ておりました。

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