第28話 礼
「座ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
ヴィルヘルミナ様は、客の椅子に座られた。
左の膝を庇いながら、腰を落として、それから背を伸ばされる。座り方は七年前と同じだ。屋敷の朝の間で、毎朝この座り方をご覧になっていた。
テアが奥から出てきて、こちらを見た。わたくしは、目で外を指した。この子は、それだけで桶を持って出ていった。
包みは、膝の上に置かれたままだった。
◇
「街は、暑いのね」
「丘の上より、三度は高うございます」
「歩いてくると、余計に」
その方は、包みを膝の上で持ち直された。
「ハンナから、お聞きになったのでしょう」
「何をでございましょう」
「櫛を買ったことを」
わたくしは、湯を沸かしていた。沸かす手を止めなかったのは、ケルン様のときと同じ理由だ。止めると、次に何をすればいいか分からなくなる。
「伺っております」
「あの子は、口が軽いのではありません。わたくしが、あなたに伝わるように言ったのです」
◇
「梳いていただけますか」
「結わずに、でございますか」
「結わずに」
その方は、ご自分で髪をほどかれた。
後ろで低く束ねてあっただけの髪が、肩に落ちた。白いものが増えている。七年前は、こめかみのところだけだった。
わたくしは、その後ろに立った。
右のこめかみが薄い。ここは、七年ぶん覚えている。外側を一度ほどいて、薄い側へ回して、そこだけ撚りを逆にする。そうすると冠が傾かない。
いまは、冠を作らない。
梳くだけだ。
◇
櫛を入れると、根元で一度止まった。抜いて、下から入れ直す。もう一度、下から。三度目で、根元まで通った。
「八年、こうしてもらっておりません」
「さようでございますか」
「ヘルガが亡くなってから、誰にも頭を触らせておりません。あなたにも」
これは、本当だ。
七年、わたくしはこの方の頭を結った。結ったが、梳いたことは一度もない。結い形を作るのに要るところだけを触って、あとは触らせていただけなかった。
毎朝、わたくしはこの方の頭の、必要なところだけを知っていた。櫛は、後ろへ下りるにつれて楽になった。
前の方は絡む。後ろの下の方は、絡まないかわりに、毛が薄い。年を取ると、後ろから薄くなる。この方の後ろは、七年前より指一本ぶん、地肌が近い。
薄くなった頭に冠を作るのは、難しい。難しいが、できないことではない。できないのは、それを毎朝続ける人がいないときだ。
「ヘルガは、四十年、わたくしを結いました」
その方は、鏡を見ずに話された。
「十七で嫁いで、初めの朝に結ったのがあの人です。以来、四十年、毎朝」
「はい」
「一度も、礼を申しておりません」
◇
「四十年ですよ」
その方は、そこで初めて笑うような息をされた。笑ったのではない。息が、そういう出方をしただけだ。
「言う機会がなかったのではありません。言わなくてよいものだと思っておりました。あの人は使用人で、それが仕事でしたから」
「はい」
「亡くなったと聞いた朝に、わたくしは自分で結おうとしました。半年やって、できませんでした。できないと分かってから、あの人に一度も礼を言っていないことを思い出しました」
櫛が、また止まった。今度は、わたくしの手が止まった。
「八年、思い出し続けております」
わたくしは、櫛を入れ直した。
◇
「明日、墓へ参ります」
その方は、包みを開かれた。黄楊の櫛だった。歯が細かい。市の道具屋で、二度戻って三度目に買われたものだ。
「あの人の櫛は、家の者が処分しました。使用人の道具は、そういうものですから」
「はい」
「同じものを探しましたが、ございません。あの人の櫛は、歯が二本欠けておりました」
わたくしは、手を止めた。
「欠けておりましたか」
「二本です。どのあたりだったかは、覚えておりません。粗末に扱ったのだと、そのころは思っておりました」
その方は、鏡の中でこちらを見た。
「あなたの櫛も、欠けておりますね」
わたくしは、自分の櫛を台に置いた。母のもので、祖母が折ったものだ。峰から三本目と四本目の歯がない。
ヘルガという方に、わたくしは会ったことがない。八年前に亡くなった、丘の上の家の結い手だ。母の帳面には、名前がない。囲われた結い手は、街の店に来ないからだ。
その人の櫛も、同じところが欠けていた。
「粗末に扱ったのではございません」
「では」
「折ってあるのです。細い毛を掬うときに、歯が詰まっていると束が拾えません。二本抜くと、そこだけ隙間ができます」
その方は、しばらくご自分の膝の上の櫛を見ていらした。
「四十年、知りませんでした」
◇
梳き終えて、後ろで低く束ねた。留めは一つで足りる。その方は立ち上がって、包みを持ち直された。
「代を」
「頂戴いたします」
その方は、きちんと払われた。値切りもなさらなかった。扉のところで、一度止まって、こちらを向かれた。
「あなたに礼を言うつもりで来たのではありません」
「存じております」
「ただ、あの人に言えなかったことを、誰かに一度言っておかないと、墓の前で言えない気がしたのです」
その方は、それだけ仰って、出ていかれた。わたくしは、椅子の上の髪を掃いた。白いものが、床に何本か落ちていた。
あの方を、わたくしは許していない。
七年、備品と呼ばれた。母を大したことのない結い手だと言われた。そのことは、櫛を一本買ったくらいでは動かない。
動かないままで、あの方は明日、墓へ行く。
行って、四十年ぶんの礼を言う。言われる人は、もういない。言えなかった側だけが、それを持って帰ってくる。
わたくしは、床の髪を集めて、紙に包んだ。客の髪は捨てずに包む。母がそうしていたからで、理由は聞いていない。
夕方、ギーゼラさんが回答の話を持ってきた。
五人のうち、要ると答えたのは二人だという。わたくしと、いちばん若い方だ。あとの三人は、要らないに丸をつけた。
「囲われている十四人は、家の方が出しますから、あちらは全部要るになりますよ」
「では、五十一人のうち」
「街で店を出している五人のうち、二人ですね」
五人のうち二人。
残りの三人は、明日から公定形だけを結う。結うといっても、図で足りる客しか来なくなる。来なくなれば、それ以外の結い方は、使わないうちに手から抜ける。
手から抜けるのに、何年もかからない。二年で怪しくなり、五年で結えなくなる。母は十一年、丘の上の形を結わずに店を開けていて、それでも結えた。だが母は、毎朝、誰も来ない店で手を動かしていた人だ。
ギーゼラさんが帰ったあと、扉を閉めようとして、外に人が立っているのに気づいた。外套に、見たことのない紋が入っていた。院のものではない。丘の上のどの家のものでもない。
「オルトレのアニエス殿でいらっしゃいますか」
「はい」
「王城より参りました」
【結い手の覚え】結い形を作るのに要るのは、頭のうちの半分ほどでございます。残りの半分は、梳くときにしか触りません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――王城からの使いに従って、丘を越えます。七十一におなりの結い手が、お一人でお待ちでした。




