第27話 最後の頁
帳面は、革の表紙が反っている。母が始めたのは三十二年前で、閉じたのは七年前だ。二十五年ぶんの客が、この一冊に入っている。
一頁に十二行。行のはじめに客の名、次に日付、その次に代。いちばん右に短い覚え書き。わたくしは、最初の頁から読んだ。
初めの三年は、字が丁寧だ。丁寧というより、力が入っている。母は二十歳で店を継いだ。継いだ年の最初の客の名の下に、二重に線が引いてある。うれしかったのだと思う。
◇
十年目あたりから、字が速くなる。
同じ客の名が、季節ごとに並ぶ。フォルクマー。ラントシュテット。ケラー。ベルクマン。丘の上の家と、街の家が、混ざって並んでいる。
覚え書きは、みな短い。
——右へ流す。締め、弱く。
——去年より薄い。手数を減らす。
——喪。低く。持ち帰りの油を渡す。
寸法は、一つも書いていない。
書いていないのは、書けなかったからではない。書けば書けたはずだ。母は数字を書ける人だった。日付も代も、きちんと書いてある。
寸法を書かなかったのは、書いたものが翌年には合わなくなると知っていたからだと思う。
◇
十八年前の頁で、手が止まった。春までは、丘の上の名が並んでいる。夏の頁で、それが消える。
消えたというより、断ち切られている。同じ家の名が、前の頁までは月に二度あって、次の頁からは一つもない。
その境目の行に、覚え書きがない。名前と日付と代だけが書いてある。母は、その日から、覚え書きを書かない日が増えた。
書かない日が増えても、店は開いていた。街の客の名が、細く続いている。細く続いて、少しずつ間が空いて、後ろの十年で名前の数が半分になる。
半分になっても、母は毎日この帳面を開けた。開けて、客が来なければ、日付だけを書いた日もある。日付だけの行が、後ろの方に何十とあった。
◇
七年前の頁は、あと三枚のところにあった。その手前の頁で、わたくしはもう一度手を止めた。客の行のあいだに、行を跨いで、細い線が引いてある。
線は二本だ。左下から右上へ一本、右下から左上へ一本。交わったところに、小さな丸がついている。丸の上に、短い横線が一本。
絵だ。
客の名も日付も代も書いていない行に、母は絵を描いていた。わたくしは、それを指でなぞった。左右から一本ずつ、斜めに上がって、交差して、その上に輪をひとつ。
うなじの上にあるものと、同じだった。
◇
同じ絵が、その頁のあとに、三つある。
三つとも、少しずつ違う。一つ目は交差が浅い。二つ目は輪が大きい。三つ目は、交差のところに小さな数字が振ってある。一、二、三、と順に。
順を書こうとしている。
順は、いちばん書きにくいところだ。どこを先に取るかで、同じ絵が別の形になる。母は、それを数字で書こうとした。三つまで振って、四つ目で止まっている。
母は、この形を紙に落とそうとしていた。四度描き直したのは十八年前の話だと、ケルン様は仰った。これは、七年前の頁だ。
十八年経って、母はもう一度描いた。
三つ目の絵の下に、四つ目を描きかけた跡があって、途中で止まっている。線が一本だけ引いてあって、その先がない。
◇
最後の頁を開いた。
七年前の春で、行が止まっている。いちばん下に、塗り潰した一行。窓を開けて、朝の光にかざした。
紙は厚い。厚いが、裏から透かすと、塗りの下の形がうっすら見える。塗りは墨を横に往復させて引いてあるので、縦の画が残る。
一つ目の字は「院」だ。これは前から見えていた。二つ目の字に、縦が二本ある。二本の右側が長い。三つ目は、点が三つ並んでいる。
わたくしは、その形を紙に写した。写して、口に出してみた。院に、と読める。院に、のあとの字は、消えている。
院に出す、なのか。院に届ける、なのか。あるいは、院にはもう出さない、と書こうとしたのか。三つ目の点が三つは、「さ」の一部にも見えるし、「な」の一部にも見える。
テアが来たとき、わたくしはまだ台の前にいた。
「アニエスさん。寝てないんですか」
「少し」
「少し寝たんですか、少ししか寝てないんですか」
「後の方でございます」
テアは何か言いかけて、やめて、桶を持って出ていった。戻ってきたときには、水と一緒にパンを持っていた。
「食べてから、話してください」
「まだ何も申しておりませんが」
「話す顔してます」
わたくしはパンを半分食べて、帳面を開いて見せた。絵のある頁だ。テアは台に手をついて、顔を近づけた。
「これ、なんですか」
「形でございます」
「形って、髪の」
「はい」
テアは、三つ並んだ絵を順に見て、それから指を離さずに言った。
「これ、下手ですね」
わたくしは、思わず手を止めた。
「下手というと」
「下手っていうか、あの、うまく言えないんですけど。順番が分かりません。一、二、三って書いてありますけど、この一のところ、どっちから取るのか書いてないです」
「どちらから」
「右からか、左からかです。うなじで交差させるなら、どっちを先に上げるかで、上下が変わります」
この子は、十四だ。
絵を見て、書いていないことを言い当てた。母が四度描き直して、それでも足りなかったところを、二日で図を覚えた子が指した。
「テアさん」
「はい」
「この形を、あなたなら結えますか」
テアは、絵をもう一度見た。長く見た。
「無理だったら無理って、先に言っていいですか」
「どうぞ」
「いまは、無理です」
その子は、そう言ってから、付け足した。
「頭を触らせてもらえたら、たぶん、分かります」
母は、この形を出そうとした。出そうとして、書式が整わずに戻されている。戻された年の夏に、母は亡くなった。
最後の朝、母はわたくしの頭にこの形を結った。結って、名前を言わずに逝った。名前を言わなかったのではない。
名前が、無かったのだ。
台帳に載っている形には、名がある。三つ編みの冠。耳の上の交差。低い束ね。名があるから、書記が読み上げられる。読み上げられるから、列に並べる。
わたくしが七年載せていたものには、それがない。
母は、この形をどこで覚えたのか。祖母から渡されたものなら、祖母はどこで覚えたのか。三代のあいだ、誰の頭にも載っていない形が、なぜ家の中にだけ残っていたのか。
帳面には、その答えが書いていない。書いていないものを、わたくしは指でなぞって、朝まで座っていた。
母の字は、最後まで丁寧だった。日付だけの行も、曲がっていない。
◇
昼を過ぎたころ、扉が開いた。入ってきた方は、戸口で一度立ち止まって、店の中を見渡された。左の膝を庇う立ち方に、見覚えがあった。
ヴィルヘルミナ・レンヴァルト様が、七年ぶりに、客の顔をしてそこに立っていらした。手に、布の包みを持っていらっしゃる。
包みの形と大きさに、見覚えがあった。黄楊の櫛は、たいていあの形に包まれて売られている。
【結い手の覚え】帳面に寸法は書きません。書いたものは、翌年には合わなくなります。書くのは、名前と日付と、短い一行だけです。
お読みいただきありがとうございます。
次話――お義母様が、店の椅子にお座りになります。二十年ぶりに買った櫛を、包んだまま持っていらっしゃいました。




