第26話 責は問わず
予行から三日経って、落ちた頭のうちのお一人が店に来られた。ミュラー家の奥様で、四十を少し過ぎたくらいの方だ。うちには初めていらした。
「予行の日に、お見かけしました」
「道から見ておりました」
「あのとき、道具をお持ちでしたね」
わたくしは、お持ちでした、とだけ答えた。その方は椅子に座って、鏡の中でご自分の後ろを見ようとして、見えないので諦められた。
「あの日、うちの侍女が結いました。図のとおりに」
「はい」
「あの子が叱られました」
◇
「院からは、何も言ってきておりません」
その方は、膝の上で手を重ねていらした。
「言ってきたのは、うちの主人です。恥をかいたと。誰の落ち度かと言われて、結った者だ、と決まりました」
「その方は、図のとおりに結われましたか」
「そのとおりに。紙を横に置いて、そのとおりにやりました。わたくしが見ておりました」
「では、落ち度はございません」
「そう申しました。申しましたが、では誰の落ち度かという話になって、それきりです」
誰の落ち度でもないことにすると、家の恥だけが残る。家の恥は当主の話になる。当主の話にしないためには、誰かの落ち度にする必要がある。
いちばん下の者が、いちばん近い。七年、屋敷にいて、この順番を何度も見た。
朝の間で誰かの結い形が乱れていると、まず侍女が呼ばれる。侍女は前の晩の油の量を言われ、その前の日の湯加減を言われ、最後に手が悪いと言われる。言う方は、乱れた理由を知りたいのではない。誰の話にするかを決めているだけだ。
決まれば、その場は収まる。収まったことにする、というのが、あの家の朝だった。わたくしは、その方の髪を梳いた。
後ろが重い。毛の一本が太くて、量もある。この頭は、図の三つの留めでは保たない。
「留めを、四つ差します」
「図は三つでしたが」
「四つ差しても、見た目は変わりません」
「変わらないのに、保つのですか」
「保ちます」
結い上げて、鏡を回した。その方は、後ろを見るために首を回して、また見えないので前を向かれた。
「侍女に、これを教えていただけませんか」
「お教えできます」
「四つ目の場所は、紙に書けますか」
「書けます。ただ、その紙は、奥様の頭にしか使えません」
その方は、しばらく黙っていらした。
「うちの娘の頭には」
「娘御の毛の量を見ないと、分かりません」
◇
その方が帰られたあと、テアが言った。
「アニエスさん。あれ、紙に書いていいんですか」
「一人ぶんなら、書けます」
「じゃあ、二百七十人ぶん書けば」
「二百七十人が、毎年同じ頭でいてくださるなら」
テアは、口を開けたまま、桶を持ち上げた。
人の頭は、年に二度変わる。夏に痩せて、冬に戻る。産めば抜ける。病めば細る。年を取れば、後ろから薄くなる。
書けるのは、いまの頭の、いまの寸法だけだ。
母の帳面には、寸法が書いていない。書いてあるのは、客の名と、日付と、代と、それから短い覚え書きだけだ。
——右へ流す。締め、弱く。
——去年より薄い。
——喪。低く。
寸法の代わりに、この短い一行が並んでいる。読めば思い出す人にだけ、意味のある一行だ。母が死んで、思い出す人はいなくなった。残っているのは、名前と日付と代の数字だけになる。
◇
その日の夕方、ギーゼラさんが来られた。今度は裏口から入ってこられた。母のころと同じ入り方だった。
「院の若いのが、変わったそうですよ」
「リント様が」
「結髪局長でなくなったって。記録の方へ移られたと」
わたくしは、湯を落とす手を止めた。
「崩れた三つの件でございますか」
「そうじゃないらしいね。落ちたのは九十のうち三つで、それは書類に三つと書いてお終いだったそうな」
ギーゼラさんは、椅子に座って足を伸ばされた。
「総長が、自分でやると仰ったんだと。二十日で決めるのに、間に人を挟むと遅いからって」
◇
わたくしは、そのことを、しばらく考えていた。リント様は、落ちた三つの責を問われていない。問われていないのに、外された。
外されたのは、遅いからではない。あの方は速い。速すぎて、総長のところへ話が上がるまでに形が決まってしまうからだ。
二十日で決めると言った人は、決めるところに自分の手を置いておきたい。
あの方は、悪い形で退いたのではなかった。記録の方へ移って、来年には別の局を任される。三十二の局長は、そういうふうに動く。
わたくしは、この人を憎んでいたのだろうか。憎んでいたとして、その人は罰されていない。罰されずに、席を移った。
落ちたのは、頭の方だ。三つの頭と、その頭を結った侍女と、恥をかいた家の名。
ケルン様のときは、落ちた先がはっきりしていた。あの方は自分の名前で線を引いて、自分の名前で失脚した。引いた線の下に母がいたと、あの方は最後に自分で言いに来られた。
今度は、線を引いた人の名前が出てこなかった。
誰も悪意を持っていない。誰も嘘をついていない。図は正しく刷られ、侍女は図のとおりに結い、院は落ちた数を正しく三と書いた。
それで頭が三つ落ちて、下の者が一人叱られた。こういうものを、どう憎めばいいのかが、わたくしには分からない。
◇
ギーゼラさんが帰り際に、紙のことを仰った。
「わたしは、要らないに丸をしました。昨日、出してきました」
「さようでございますか」
「あんたは、要るに丸をするんだね」
「はい」
「出すのかい。形の方も」
わたくしは、櫛を布に置いた。
「形、と申しますと」
「オルトレの形だよ。あんたの家の。要ると書くなら、来年の春に手順を出せと言われる。出せないと言えば、切られる。切られたくないなら、出すしかない」
「オルトレの形は、台帳にございません」
「無いものは、出せないねえ」
ギーゼラさんは、そう仰って、裏口から出ていかれた。
◇
無いものは、出せない。
わたくしは、うなじに手をやった。輪はほどいてある。ほどいてあるので、指はまっすぐ肌に当たる。左右から一本ずつ、斜めに上がってくる。うなじの上で交差して、右が上になる。
この形に、名前は付いていなかった。
名前がないので、届け出の紙に書く欄が埋まらない。書式が整っていないものは、受理されない。総長は、母の願い出をそう言った。
母は、七年前に、この形を出そうとしたのではないか。出そうとして、名の欄で止まった。止まって、帳面に一行書きかけて、それも消した。
これは、思いつきだ。思いつきを確かめる手立てを、わたくしは持っていない。院は註の中身を言わない。母を知る人は半分ずつに割れている。
残っているのは、母の字だけだ。わたくしは棚から帳面を下ろした。二百人ぶんの記録を、最初から見直すことにした。
いままでは、必要なところだけを開いてきた。客の名を引いて、覚え書きを読んで、閉じる。全部を頭から読んだことは、一度もない。
【結い手の覚え】留めをひとつ足した紙は、その方お一人にしか使えません。人の頭は、夏に痩せて冬に戻ります。
お読みいただきありがとうございます。
次話――母の帳面を、最初の頁から見てまいります。二百人ぶんの名前の、後ろの方が半分になっております。




