第25話 訪い
馬車から降りてきたのは、一人だった。供を連れていない。御者は轅のところに残って、こちらを見ようともしない。慣れた止め方だった。
外套は黒で、飾りがない。襟に留め金もない。院の方だと分かったのは、外套の裾の長さが街の人のものではなかったからだ。
その方は、うちの看板を下から見上げて、それから扉のところで足を止めた。
「入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「座ってもよろしいですか」
わたくしは、客の椅子を引いた。
◇
「典礼院の、ハルトムート・ザイフェルトと申します」
五十七、八とお見受けした。声が遅い。一つの文を、最後まで言い切ってから次を言う方だ。
「総長でいらっしゃいますか」
「そう呼ばれております」
その方は、椅子に座って、膝の上で手を組まれた。
わたくしは湯を沸かした。沸かすあいだ、その方は店の中を見ていらした。棚と、道具と、洗い場と、二枚組の鏡。順に見て、それから、天井の低いところを見上げた。
「窓が、低いですね」
「毛の流れを読みますので」
「なるほど」
なるほど、と言った人は、二人目だ。一人目は、この店を建てた祖父だと母から聞いている。
◇
茶を出すと、その方は両手で椀を持たれた。持って、飲まずに置いた。
「一昨日の予行を、道からご覧になっていたそうですね」
「はい」
「三つ落ちました」
「拝見しました」
「あれは、図の落ち度です」
わたくしは、布を畳む手を止めた。
止めたのは、その言葉を予期していなかったからだ。リント様なら、結った者の腕だと言う。ヘートヴィヒ様も、院ならそう言うと仰った。
「後ろの重い頭は、留めが三つでは足りません。図には三つと書いてある。書いた者が、重い頭を持ったことがなかったのです」
「さようでございます」
「書けないのは、知っております」
その方は、そこで初めてこちらを見た。
「十五年、書き取りを続けて、二百十四の手順を集めました。使えたものはございません。ケルンは最後まで、集め方が悪いのだと申しておりました。私は、そうは思っておりません」
「では、なぜ」
「間に合わないからです」
間に合わない、という言い方を、わたくしはしばらく持て余した。
院が急いでいるのは、去年からのことではない。書き取りは十五年続いた。十五年やって間に合わないのなら、それは急いでいるのではなく、遅れているのだ。
遅れているものには、期限がある。
「大典は、来月の末です。二百七十の家が列に並びます」
その方は、指を組んだまま話された。
「読めない頭が百十八ございます。この百十八を読めるようにする道は、二つしかありません。結える者を百十八人ぶん揃えるか、誰でも結える形に替えるか」
「揃える道は」
「ございません。街の結い手は五十一人。丘の上の形を結えるのは十九人で、うち十四人は家に囲われております。囲われた者は、当日、自分の家の頭しか結えません」
数が、正しい。
わたくしが昨日、頭の中で数えたのと同じ数だ。この方は、それを紙も見ずに言った。
「残りは五人でございますね」
「五人です。そのうちのお一人と、いま話しております」
◇
湯が鳴りはじめた。
「オルトレのお店は、登録の更新をなさいますか」
「要る、と書くつもりでおります」
「そうですか」
その方は、少し間を置かれた。
「では、来年の春に、手順の提出を求められます。私は、それを求めないという約束はできません」
「存じております」
「求められて、出せないと答えれば、抹消になります。十八年前と同じ手続きです」
「はい」
「同じ手続きを、私はやめさせるつもりがありません。制度が二通りあると、列が二通りになりますので」
この方は、脅していない。脅す人は、こちらの顔を見て言う。この方は、椀を見て言った。
ケルン様は、信じていらした。書き取れば残ると信じて、十五年その方向へ人を動かした。信じている人には、崩れる日が来る。実演で髪が落ちた日に、あの方は自分の足元が抜けた顔をなさった。
この方には、それが来ない。
初めから信じていないものは、崩れようがない。崩れたら、崩れた数を書き足して、次の手を打つだけだ。三つ落ちれば三つと書く。九十のうち三つなら続ける。三十落ちれば、やめて別の道を探す。
わたくしが七年見てきたのは、こういう人ではなかった。屋敷の人たちは、みな、自分の見たいものを見ていた。
◇
「一つ、伺いたいことがあって参りました」
その方は、懐から紙を出された。院の古い台帳の写しだ。
「三十二年前の登録簿に、マレン・オルトレという名がございます」
祖母の名だ。
その名を、わたくしは字で見たことがない。母が口にしたのを、数えるほどしか聞いていない。
「あなたのお祖母様ですか」
「祖母でございます」
「この名の下に、註が入っております。註のある登録は、当時、四つしかありません」
その方は、紙を裏返して置いた。読ませない置き方だった。
「註の中身は、申し上げられません。ただ、同じ註が、イルゼ・オルトレの登録にも入っております」
「母にも」
「入っております。十八年前に抹消されるまで」
註のある登録が、三十二年前に四つ。四つのうち二つが、この家の名だった。祖母と母が、同じ理由で何かを書き添えられていたことになる。
書き添えたのは院だ。院が、この二人に同じ印をつけた。印の意味を、いま院の長がわざわざ街まで来て、こちらの顔を見に来ている。
見に来て、中身は言わない。言わないのは、こちらが知っているかどうかを確かめに来たからだ。
◇
その方は、茶を飲まずに立ち上がられた。
「もう一つ、これは、私の落ち度でお伝えするのですが」
扉のところで、こちらを向かれた。
「七年前に、イルゼ・オルトレから願い出が一件、院に届いております」
わたくしは、返事をしなかった。
「届いておりますが、受理されておりません。書式が整っていなかったためです」
「願い出、と申しますと」
「形の届け出でございます」
その方は、それだけ仰って、外へ出られた。馬車の扉が閉まる音がして、車輪が回りはじめた。
茶は、椀に残ったままだった。飲まない人が茶を受け取るのは、こちらの手を止めさせないためだ。屋敷にも、そういう作法の人が一人いた。
◇
わたくしは、棚から帳面を出した。最後の頁の、塗り潰した一行。はじめの一画だけが、塗りの外に出ている。
院、と書こうとした一行だと、七年思ってきた。院へ出す、と書こうとしたのか。院へ出した、なのか。院は受け取らなかった——そのどれかだろう。
母は、七年前の春に何かを出した。出して、受理されなかった。受理されなかったことを、母は誰にも言っていない。
わたくしにも、言わなかった。その年の春に、母は寝ついた。夏の終わりに亡くなった。言う時が無かったのか、言わないと決めたのかは、この頁からは分からない。
分からないものを、わたくしは七年、棚に置いていた。
【結い手の覚え】登録簿には、名前のほかに註が入ることがございます。註の中身は、書いた側にしか分かりません。
お読みいただきありがとうございます。
次話――予行で落ちた三つの頭は、誰の落ち度になったのでしょう。院の中で、一人だけ席を移られました。




