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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第24話 櫛を買う人

 朝いちばんの客は、ギーゼラさんだった。


 二本向こうで店をやっていらっしゃる。七十四になると伺っている。母の代からの方で、わたくしが子供のころは、うちの店の裏口から入ってきて母と喋って帰る人だった。


 その方が、表から入ってこられた。


「これを、読んでくださいな」


 院の紙だ。手に握って来られたので、皺になっている。


「目が、もう字を追いません」


 わたくしは紙を広げて、読み上げた。要否の回答を、二十日以内に。要ると答えた場合は、来春の更新の際に手順の提出を求めることがある。


 読み終えると、ギーゼラさんは、しばらく黙っていらした。


「十八年前と、同じ書き方ですね」


「はい」


「あのときは、六人切られました。イルゼさんだけが戻らなかった」


    ◇


「あなたは、どちらに丸をつけるの」


「要る、と書きます」


「なぜ」


「わたくしは、図に無い形を結いますので」


 ギーゼラさんは、椅子の背に手をかけて、ゆっくり座られた。


「わたしは、要らないに丸をします」


「さようでございますか」


「七十四ですよ。来年の春に手順を出せと言われても、書けません。書けないと言えば、また切られる。切られるくらいなら、こちらから要らないと言った方が、後味がいい」


 その方は、ご自分の手を見ていらした。指の関節が太い。長く櫛を持った人の手だ。


「それに、うちの客はもう六人しか残っていません。六人とも、街の家の形です。図のいちばん左ので足ります」


「足りますね」


「足りるんですよ」


 足りる、というのを、その方は二度仰った。二度目は、こちらに言ったのではないと思う。


 結い手の商いは、足りるかどうかで決まる。客が六人で暮らしが立つなら、六人でいい。図で足りる客が図へ行くのは、その方たちにとって損ではない。損ではないから、止める理由がない。


 止める理由があるのは、六人が三人になり、三人が一人になって、最後の一人がいなくなったときに、その家の形を誰も結えなくなることを知っている者だけだ。


 知っている者は、たいてい年寄りで、あと何年か店を開けたら畳む人だった。


    ◇


 わたくしは、湯を落として茶を出した。ギーゼラさんは、両手で椀を持って、ふうと息を吹いた。


「イルゼさんに、一度だけ言ったことがあります。書いて出しなさい、と」


「母は、何と」


「書けませんの一点張りでね。わたしは、あの人が意地を張っているのだと思っていました」


 その方は、椀を置いた。


「いまも、半分はそう思っています。半分は、思っていません」


 半分と半分の話を、わたくしは聞いていた。母を知る人は、もうこの街に多くない。多くない人たちの中でも、半分ずつに割れている。


    ◇


 昼前に、街の結い手が三人来た。


 一人はギーゼラさんの知らせで来た方、あとの二人はその方が声をかけた方だという。四人で狭い店に座ると、椅子が足りなかった。


 用は、紙のことだった。


「みんなで同じに答えた方がいいんじゃないか」


「同じにすると、示し合わせたと言われますよ」


「言われて困ることですか」


 この方たちが顔を突き合わせるのを、わたくしは見たことがない。結い手同士は、めったに集まらない。客を取り合う商売だからだ。


 集まったのは、取り合う客が減ったからだった。


 街の結い手は五十一人いる。そのうち、丘の上の形を結えるのは十九人で、その十四人は家に囲われている。囲われた十四人は、この紙を受け取っていない。受け取るのは、雇い主の家だ。


 残りは五人。ギーゼラさんと、今日ここに来た三人と、わたくしだ。


 五人で、丘の上の家の形を全部覚えているかというと、覚えていない。わたくしが結えるのは十一の家の形で、そのうち五つは母の帳面を見ながらでないと確かでない。


 帳面のある店が、この街に幾つ残っているのかを、わたくしは知らない。結論は出なかった。出なかったが、二十日のあいだにもう一度集まることになった。


 帰り際に、いちばん若い方が言った。


「オルトレさん。あんたのところは、丘の上の家から使いが来るだろう」


「一軒だけ、来ております」


「一軒でもいいよ。来る店がある方が、こっちも言いやすい」


    ◇


 その方たちが帰ったあと、ハンナが来た。月に二度、屋敷から街へ下りてくる。前は使いの用があるときだけだったが、いまは休みの日にも来る。


「アニエス様。丘の上は、少し変でございます」


「変、と申しますと」


「院の方が、三日にいっぺん来られます。お館様とお話しになって、帰られます」


 レンヴァルトにも回っているのだと分かった。二百七十の家に順に当たっているなら、当然だ。


「お館様が、刷り紙をお屋敷へ取り寄せられました。三種のうち、右のものを使うようにと」


「アデリーン様のお頭も」


「はい。大典には、あれでお出になります」


 ハンナはそう言って、少し黙った。


「奥様は、何も仰いません」


「それと、これは他所様のお話でございますが」


 ハンナは、そこで声を落とした。


「王城から、院へ人が入っていらっしゃるそうで。二日に一度だとか」


「王城から」


「どなたがどう、というのは存じません。ただ、院の方が、大典の話をなさるときに、二十日、二十日と仰るのだそうです」


 二十日は、要否の回答の期限だ。同時に、大典の前の日でもある。院は、大典の日までに何かを決める。決めるために、その前日までに数を揃える。


    ◇


「それと、奥様のことでございます」


 ハンナは、前掛けの端を持ち直した。


「先日、街へお出になりました」


「お義母様が」


「はい。お一人で、馬車も使われずに」


 ヴィルヘルミナ様は、六十一で、左の膝が悪い。丘を歩いて下りる方ではない。


「櫛を、お買いになりました」


「櫛を」


「黄楊の、細かい歯のものでございます。市の道具屋で、値を聞いて、二度お戻りになって、三度目にお買いになりました」


 ハンナは、そこで少し口ごもった。


「お屋敷では、お使いになっておりません。包んだまま、簞笥の上に置いてございます」


    ◇


 ハンナが帰ったあと、道具を拭いた。あの方は、自分の髪を自分では結えない。大祭の日に、それを人前で証明してしまった方だ。


 その人が、櫛を買った。


 買って、使わずに置いてある。


 考えられることは幾つかある。幾つかあるうちのどれかを選ぶには、材料が足りない。わたくしは、義母だった人の考えを、七年かかって一度も当てられなかった。


 一つだけ、思い当たることがあった。


 あの方を四十年結ったのは、ヘルガという結い手だ。八年前に亡くなっている。亡くなったあと、あの方は半年ご自分で結おうとなさって、招きを二度断られた。断ったのだと屋敷では言うが、断ったのではなく、出られなかったのだろう。


 ヘルガのことを、あの方が口に出したのを、わたくしは七年で一度も聞いていない。外が暗くなってきたので、看板を下げに出た。


 通りの先に、馬車が停まっていた。


 黒い箱馬車で、丘の上の家のものより一回り大きい。轅に紋が入っている。街の道でこの大きさを見ることは、まずない。


 馬車は、うちの店の三軒手前で止まって、動かなかった。

【結い手の覚え】手順を書けと言われて書けないと答えると、意地を張っていると思われます。十八年前も、そう思われました。


お読みいただきありがとうございます。


次話――大きな馬車から、供も連れずに人が降りてまいります。院でいちばん上の方でございました。

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