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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第23話 予行の列

 予行は、典礼院の前の広場で行われた。


 列に入れるのは家の者だけで、街の人間は道から見る。道と広場のあいだに縄が張ってあって、その内側に院の者が三人立っていた。


 朝のうちから人が出ていた。物見だ。丘の上の家の頭が九十並ぶのを、ただで見られる日はそう多くない。


 わたくしは、縄から三歩下がったところに立った。


「オルトレのお嬢さん」


 声をかけられて振り向くと、ヘートヴィヒ様が立っていらした。男爵家の先代の奥様で、右の肩が少し高い。冬に一度、この方の頭を結ったことがある。


「お家の方は、列に」


「息子の嫁が並んでおります。わたくしは、こちらで結構」


 その方は、縄の内側を見たまま仰った。


「二十年ぶりに、この広場で名前を読ませるのですって。うちは自前で結いましたが」


    ◇


 時が来て、書記が台の上に立った。


 名簿を開いて、家の名を読み上げる。呼ばれた家の者が一歩前へ出て、後ろを向く。院の者が後ろから頭を見て、頷けば、書記が次を読む。


 それだけのことだ。


 それだけのことを、この国は二百年やってきた。


 わたくしは、頭が読まれるところを、初めて外から見た。嫁いでいた七年は、いつも列の中にいた。中にいると、自分の番が来るまでのあいだ、他の家の頭を見る余裕はない。


 外から見ると、よく分かる。読む方は、後ろしか見ていない。


    ◇


 三十ばかり読み進んだところで、ラントシュテットの名が呼ばれた。アウグステ様が一歩前へ出て、後ろを向かれた。


 輪がひとつ、低い位置に載っている。昨日わたくしが留めたところに、そのままある。院の者が頭を見て、頷いた。


 書記が、次の名を読んだ。


 それだけだった。


 わたくしは、それだけであることに、しばらく息を止めていた。読まれるというのは、こういうことだ。何も起こらない。呼ばれて、頷かれて、次へ行く。


 二十年、この何も起こらないことが起こらなかった。


 アウグステ様は列へ戻って、隣の家の奥様と何か話していらした。手が、輪のあたりへ二度上がった。二度とも、触る前に下ろされた。


 六十ばかり進んだところで、レンヴァルトの名が呼ばれた。


 前へ出たのは、アデリーン様だった。二十二におなりで、毛が細い。七年、わたくしが朝ごとに結った頭だ。


 後ろを向かれた。


 輪がひとつ、低い位置に載っている。公定形の三番だ。


 レンヴァルトの形は、輪をふたつ重ねて後ろで留める。ふたつ目を作るには、右のこめかみから厚みを回してこなければならない。あの家の女は三人とも、そこが薄い。


 院の者が頭を見て、頷いた。


 書記が、次の名を読んだ。


 名は呼ばれた。冠は無い。


 列の中では、たぶん誰も気づかない。気づくのは、あの家の形を知っている者だけだ。この広場に何人いるだろうと数えて、数えるのをやめた。


 お義母様は、列にいらっしゃらなかった。


    ◇


「ラントシュテットは、街の店で結ったそうね」


 ヘートヴィヒ様が、こちらを見ずに仰った。


「はい」


「あなたが」


「わたくしが結いました。図のとおりに」


「図のとおりに」


 その方は、そこで初めてわたくしの方を向かれた。


「あなたのお母様は、図を出しませんでしたよ」


「存じております」


「二十年前、院の廊下で、わたくしはお母様とすれ違いました。うちの結い手が亡くなって、届けに行った日です」


 この話は、冬に一度伺っている。母が「書けません」と言っているのを、この方は聞いていらした。


「あのとき、お母様は、こうしておいででした」


 ヘートヴィヒ様は、ご自分のうなじに手をやられた。親指ではない。中指と薬指を、うなじの上のところに揃えて当てる形だ。


「話しながら、何度もそうなさっていた。癖でしょうけれど」


 わたくしは、自分のうなじに手をやりかけて、途中で止めた。


    ◇


 昼が近くなったころ、列の後ろの方で人が動いた。女の方が両手を頭にやって、そのまま近くの者に何か言っている。


 輪が落ちていた。


 落ちたというより、後ろへ抜けている。前から見れば、まだ載っているように見える。後ろは、髪の重みで下がり切っていた。


 同じことが、それから半刻のあいだに、あと二つ起きた。三つとも、後ろの重い頭だった。


 図には、正面と横しか描いていない。


 後ろは、線が二本あるだけだ。どちらが上か、どの深さで留めるかは、書いていない。書けないのではなく、絵にすると同じ線になる。


 昨日、わたくしはアウグステ様の頭に留めを四つ差した。図は三つだ。四つ目を差したのは、あの方の後ろが薄かったからで、薄い頭は軽い。


 重い頭は、三つでは足りない。足りないことは、結ってみれば分かる。分かる人が結えば、その場で足す。


 図を見て結った人には、足すという考えが出てこない。図に書いていないからだ。


    ◇


 リント様が、台の下で書記と話しているのが見えた。


 紙を見せて、指で二か所を指している。声は聞こえない。聞こえないが、あの方の言うことは想像がついた。


 九十のうち、三つ。


 三つは、九十に比べれば少ない。少ないというのは、数の話だ。


 落ちた三人の方は、頭に手をやったまま、列を離れて縄の外へ出ていらした。出てきた方の一人が、こちらを見た。目が合ったのではない。誰でもいいから見ていない方を探していらしたのだと思う。


 わたくしは、道具を持っていた。結わない日に持って出た道具だ。


 縄の内側へは入れない。入れないが、声をかけることはできる。かければ、あの方は縄際まで来られるだろう。来られたら、結び直すのに四半刻もかからない。


 わたくしは、声をかけなかった。


 かけなかったのは、意地ではない。ここで結い直せば、直したのは街の結い手だと院の者が見る。見れば、リント様は数を直す。三つのうち一つは、結い直したので保ったと書かれる。


 書かれた紙は、二十日後に総長のところへ行く。落ちた頭は、落ちたままの方がいい。


 そう考えている自分に気がついて、わたくしは道具の包みを持ち直した。持ち直したところで、考えたことは消えなかった。


 ヘートヴィヒ様は、まだ隣に立っていらした。


「三つね」


「三つでございます」


「九十のうち三つなら、院は続けますよ」


 その方は、縄の内側を見たまま仰った。


「わたくしが院にいる者なら、そう申します。三つは、結い方の話ではなく、結った者の腕の話にすればよろしいのですから」


 言われて、そのとおりだと思った。


 図が悪いのではなく、図を使った者が下手だった。そう言われれば、図は減らない。減るのは、結った人の名前の方だ。


    ◇


 店に戻ったのは、日が傾いてからだった。テアが、台の上に紙を置いて待っていた。院の紙だ。刷りではなく、書いたものだった。


 ——登録の更新について。次期更新は、これを最後とする場合あり。要否の回答を、二十日以内に提出のこと。


「これ、うちだけじゃないみたいです」


 テアは、外の方を指した。


「向かいの床屋にも来ました。あと、二本向こうの、おばあさんのところにも」


 二本向こうの店は、母の代からある。あの方は七十を越えていらして、目がもう遠い。手だけで結っていらっしゃると、前に伺った。


 紙には、回答の書き方まで刷ってある。要る、か、要らない、のどちらかに丸を付けて、名前を書く。それだけだ。


 要らないに丸を付ける方が、たぶん、早い。書く字が少ないからではない。要ると答えれば、来年の春に手順の提出を求められるからだ。十八年前と同じことが、また始まる。


「アニエスさん。二十日って、大典の前の日ですよね」


「そうですね」


 わたくしは紙を裏返した。裏は白い。


「みんな、出すんでしょうか」


「出すか出さないかを、みなさん、まだ相談していらっしゃらないと思います」


「相談、するんですか」


「したことがございません」


 五十一人いる。街の結い手は、いま五十一人だ。三十年前は百四十七人だった。

【結い手の覚え】図に描けるのは正面と横まで。後ろの重い頭は、留めをひとつ足さないと夕方までもちません。


お読みいただきありがとうございます。


次話――院から紙が回りました。街の結い手は五十一人。そのうち何人が、要らないと答えるのでしょう。

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