第22話 覚えられる形
テアが、いつもより半刻早く来た。扉を開けるなり、帽子のつばを両手で握っている。この子が緊張しているときの癖だ。
「アニエスさん。昨日の晩、やってみました」
「刷り紙のですか」
「はい。三つとも」
どなたの頭で、と聞くと、隣のパン屋の下の子と、その姉さんと、それから自分の母の妹だと言う。三人分の頭を、一晩で借りたことになる。
「見せていただけますか」
テアは桶を置いて、わたくしの前に立った。
「わたしの頭でよければ」
◇
鏡の前に座らせて、後ろに回った。
自分で自分の頭に結うのだから、当然、後ろは見えない。テアは二枚組の鏡を引き寄せて、角度を合わせた。それから、櫛を入れた。
梳く。分ける。束ねる。巻き込む。留める。迷いがない。手が止まったのは、一度だけだ。
癖毛は、束にすると膨らむ。膨らんだところを、この子は左の親指で押さえて、押さえたまま留めを差した。図には書いていない手だ。書いていないというより、癖毛の頭を図の人は想定していない。
留め終わって、鏡の中でこちらを見た。
「どうですか」
わたくしは、後ろから留めの位置を見た。三つとも、正しい。高さも、締めも、余りの巻き込みも。街の家の頭になら、そのまま出せる。
「上手でございます」
「ほんとですか」
「二日で覚えたことになりますが」
「二日じゃないです」
テアは鏡の中で、少し笑った。
「一晩です。紙、家に持って帰ったのが昨日なので」
◇
一晩、というのを、わたくしは頭の中でもう一度言った。
わたくしが母から冠を教わったのに、四年かかっている。四年のうち、最初の一年は人の頭に触らせてもらえなかった。触れたのは、母が結い終えた頭の、留めの下を指で辿ることだけだ。
辿って、覚える。覚えて、次の頭で確かめる。確かめて、また辿る。その四年ぶんが、この形には要らない。
要らないように作ってあるのだから、当たり前だ。当たり前だが、目の前で一晩と言われると、四年の方が間違っていたような気がしてくる。
間違ってはいない。四年で覚えたものは、図の外まで結える。そう思ってから、わたくしは、いま自分が何と比べているのかに気がついた。
◇
昼までに、街の娘さんが四人来た。
四人とも、大典の日に列へ出るという。刷り紙を持ってきた方が二人、口で「公定形で」と仰った方が二人だった。
わたくしは、テアに二人を任せた。
この子が人の頭を触るのを、横で見ているのは久しぶりだ。大祭のやり直しの日以来だから、ひと月と少しになる。
手つきが速くなっている。速くなったのは、迷わなくなったからだ。迷わなくなったのは、迷う場所が図に書いていないからだった。
図には、留めをどこへ差すかが書いてある。差す深さは書いていない。だがテアは深さを迷わない。わたくしが教えたからだ。
教えたものと、刷ったものが、この子の手の中で一つになっている。四人目の方だけ、手間取った。
頭が丸くて、後ろが高い。この頭は、図のとおりに束ねると、束ねたところが上がりすぎる。上がった束は、歩くと後ろへ抜ける。
テアは一度留めを外して、位置を指一本ぶん下げた。下げてから、こちらを見た。わたくしは頷いた。
「下げました。図より下です」
「はい」
「これ、下げたら、公定形じゃなくなりますか」
「見た目は同じでございます」
「見た目が同じなら、いいんですね」
いい、と答えるべきだったのだと思う。
実際にはわたくしは、そうですね、とだけ言った。院が読むのは見た目だ。見た目が同じなら読まれる。読まれる以上、それは公定形だ。
だが、それは答えではない。
◇
夕方、客が途切れたときに、テアが言った。
「あの。ひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「わたし、これ、覚えちゃっていいんでしょうか」
桶を伏せる手が止まっている。
「アニエスさんに教わったのと、順番が違うんです。アニエスさんのは、薄いところに先に寄せます。図は、寄せないで先に束ねます」
「はい」
「図の方が早いです。早いけど、夕方まで保たない頭が、たぶんあります」
この子は、そこまで見ている。
「それでも覚えるのは、駄目ですか」
◇
わたくしは、湯を止めた。止めてから、答えるまでに、たぶん十を数えるくらいの間があった。
「覚えてください」
「え」
「覚えたものは、減りません」
テアは、帽子のつばを握った手を、そのまま下ろした。
「図で結える頭は、図で結えばよろしいのです。図で保たない頭が来たときに、あなたは寄せる方を知っております。両方を持っている人は、いまこの街に、あなたともう一人しかおりません」
「もう一人って」
「わたくしです」
テアは、しばらく黙っていた。
「わたし、アニエスさんが嫌がると思ってました」
「嫌ではございません」
「ほんとに」
「図のことは、嫌ではないのです。図で結える頭が図で結われるのは、その頭のためになります」
「じゃあ、何が嫌なんですか」
この子は、こういうところで正面から聞く。
「図に載らない頭が、そのうち無いことになるのが嫌でございます」
言ってから、これは十四の子に言う話ではないと思った。テアは桶を持ち上げて、少し考えてから言った。
「載せればいいんじゃないですか」
「何をでしょう」
「載らない形を、図に」
◇
テアが帰ったあと、道具を拭いた。
母は、十八年前に手順を出せと言われて、出さなかった。出さなかったのではなく、出せなかった。書いたものが、こちらの求めるものではなかったと、ケルン様は仰った。
母は三度も四度も描き直したという。描き直すというのは、書こうとしたということだ。書けないと言った人が、四度描いた。
その母が、もし刷り紙を見たら、何と言ったか。
わたくしは、それを考えて、答えの出ないうちに櫛を置いた。母のことを、わたくしは知っているようで知らない。知っているのは、母の手が作った形と、帳面の字だけだ。
母は、四度描いて、五度目を描かなかった。
五度目を描かなかった人が、十一年、店を開けていた。開けて、来ない客を待って、来た客の名を書いた。帳面の後ろの十年は、名前が半分になっている。半分になった帳面を、母は捨てなかった。
捨てずに、最後の頁で一度だけ、書こうとした。棚から帳面を出して、最後の頁を開いた。塗り潰した一行の、はじめの一画。
この一行がもし、手順を書こうとして途中でやめたものなら、母は最後まで書こうとしていたことになる。
もし、そうでないなら。
わたくしは頁を閉じた。
明日は予行だ。丘の上の頭が九十、図のとおりに並ぶ。並んだ列を、道から見るつもりでいる。見て、何が分かるのかは、まだ分からない。
分からないまま行くのは、久しぶりだった。道具を包んだ。明日は結わない。結わない日に道具を持って出るのは、癖のようなものだ。
【結い手の覚え】図に書いてあるのは、留めを差す場所です。差す深さは書いてございません。深さは、頭ごとに違いますので。
お読みいただきありがとうございます。
次話――予行の日でございます。九十の頭が並びます。そのうちの三つが、昼までに崩れます。




