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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第21話 図のとおりに

 二日目の朝に、丘の上から使いが来た。若い男で、外套の裾が土で汚れている。歩いてきたのだと分かった。


「ラントシュテットでございます。奥様が、明日の支度をお願いしたいと」


 テアが手を止めた。ラントシュテットの名は、この店では大祭の話のときに出た。席を取り戻した家だ。結ったのは南の町から出てきた女の人で、それきり来ていないと聞いている。


「あの方は、もうお辞めになりました」


 使いはそう言った。言い方が早い。屋敷で何度も言わされているのだろう。


「では、明日の予行はどなたが」


「それを、お願いに参りました」


 わたくしは、支度に要るものを聞いて、道具を包んだ。


 ラントシュテットは、母の帳面に名のある家だ。十八年前より前の頁に、三度だけ出てくる。呼ばれたのは母ではない。母の母、つまりわたくしの祖母が呼ばれた頁だった。


 その家が、十八年ぶりにこの店へ人を寄越した。寄越したのは、公定形が刷られたからだった。


 断る理由を、わたくしは持っていない。持っていないというより、断ればあの方の頭は明日また列の後ろになる。それは、公定形の是非とは別の話だ。


    ◇


 ラントシュテットのお屋敷は、丘の中ほどにある。


 門から玄関までが短い。短いのは、庭を削って売ったからだと、街の噂で聞いたことがある。噂は当てにならないが、庭の土の色は場所によって違っていた。


 奥様は、アウグステ様と仰った。四十八とお見受けした。


「歩いてきたの」


「はい」


「次からは馬車を出します。街から丘を上がると、髪が乱れるでしょう」


 この方は早口で、褒めるところと切るところが同じ速さで出てくる。通されたのは、二階の小さな部屋だった。姿見が一枚あって、布がかかっている。


「二十年、使っていません」


 布を取ると、鏡の下の縁に埃が溜まっていた。


 部屋には、椅子と鏡のほかに何も置いていない。結い手のいる家では、この部屋に道具の棚があって、油と留め具と、その家の頭の寸法を書いた紙が置いてある。棚のあった壁だけ、色が違っていた。


 窓は、腰より下に切ってある。上から光が落ちると毛の流れが読めないので、結い手の部屋の窓は低く作る。この家を建てた人は、そのことを知っていた人だ。


 知っていた人が建てた部屋を、二十年、布をかけて閉めてあった。


    ◇


「うちの結い手は、二十年前に亡くなりました」


 アウグステ様は椅子に座って、まっすぐ前を見ていらした。


「その二年ほど前に、院から呼び出しがあって。手順を出せと言われて、出せなくて、登録を切られました。切られた翌年に病んで、その次の年に」


「さようでございますか」


「代わりを探しましたよ。十年ほど。十年探して、来ていただけるのは月に一度が精一杯で、それも三年で切れました。月に一度いらしても、できるのは梳いて束ねるまでです」


 その方は、鏡の中のご自分を見た。


「以来、後ろで束ねております。束ねて、列の後ろに立って、名前を呼ばれないところまでで帰ります」


 わたくしは布を広げて、道具を並べた。


「大祭のときは、どなたかが結ってくださったと伺いました」


「一度きりです。あの方は、南へお帰りになりました」


「では、明日は」


「これで」


 アウグステ様は、膝の上の刷り紙を差し出された。折り目が深い。何度も広げては畳んだ紙だった。


    ◇


「三種の、右のもので。うちの形は、輪をふたつ重ねます。図の右は、輪がひとつです」


「ひとつでございますね」


「ひとつでも、読むと院は言っております」


 わたくしは髪に触れた。


 細い。細いうえに、右の後ろが薄い。二十年、同じところで束ねてきた跡だ。同じ位置で締め続けると、そこの毛は戻らなくなる。


 輪をふたつ重ねる形は、この頭では結えない。厚みが足りない。二十年前に結えていたとしても、いまは無理だ。


 輪ひとつなら、結える。


「お結いいたします」


    ◇


 梳く。分ける。薄い方へ寄せる。撚る。載せる。留める。図のとおりだと、留めは三つで足りた。三つで足りるように作ってある。


 わたくしは四つ目を足した。足したのは、この方の後ろが薄いからで、図の落ち度ではない。図は、薄い頭のことを書いていないだけだ。書いていないものは、間違ってもいない。


 輪を載せて、指で締めを見た。ひと晩は保つ。明日の昼までなら、まず崩れない。


 鏡を回した。


 アウグステ様は、しばらく何も仰らなかった。それから、右の後ろに手をやって、すぐに下ろされた。


「触ると崩れるかしら」


「触っても崩れません」


「そう」


 その方は、もう一度手をやって、今度は輪のところを撫でた。


「二十年ぶりに、上がっているところに手が届きました」


 その方は、そのまま鏡を見ていらした。


 結い上がった頭を見る人には、二通りある。すぐに顔を見る人と、後ろを見たがる人だ。アウグステ様は、どちらでもなかった。輪の高さのあたりを、ただ見ていらした。


「明日、名前を呼ばれます」


「はい」


「二十年前は、呼ばれて当たり前でした。当たり前だったころのことを、わたくしはよく覚えておりません」


 覚えていないのは、数えていなかったからだ。数えるようになるのは、無くなってからになる。わたくしは道具を布に戻した。


    ◇


 代を受け取って、帰り支度をしているときに、聞かれた。


「オルトレの形は、どれになるの」


「と、申しますと」


「三種のうち。あなたの家の形は、どの図に似ているのかしら」


 わたくしは、答えなかった。答えられなかったのではない。答えが無いことを、この場で言うのが正しいのか分からなかった。


 オルトレは結い手の家だ。結い手の家は、客の形を結う。自分の家の形は、持っていても、結わない。


「似ているものは、ございません」


「では、あなたは列に出られないの」


「出たことがございません」


「これからも」


 アウグステ様は鏡の中でこちらを見ていらした。


「これから、二百七十の家が図で読まれます。図に無い形の人は、どうなるのかしら」


    ◇


 丘を下りながら、そのことを考えた。


 わたくしが列に出ないのは、出られないからではない。出る家がないからだ。結い手は人の頭を作る側で、作られる側ではない。


 だが、明日から、それは別の意味になる。


 図に載っている形は読まれる。載っていない形は読まれない。そのどちらでもないもの——名前のない形は、初めからどこにも数えられない。


 わたくしのうなじの上には、その形がある。


 明日、九十の頭が並んで、そのうちの何十かは公定形で読まれる。読まれた頭の持ち主は、二十年ぶりに名前を呼ばれて、家へ帰って、次の祝いのときもまた図のとおりに結う。


 三度もそれが続けば、その家の形は、図の形になる。


 輪をふたつ重ねていた家が、輪ひとつの家になる。誰も嘘をついていない。誰も奪っていない。ただ、結える人がいなかったので、結える形の方が残る。


 残るというのは、そういうことだ。店に戻ると、テアが台の上で刷り紙を広げていた。手には櫛を持っている。


「明日、休みですよね」


「はい」


「これ、家で試してもいいですか」

【結い手の覚え】同じところで二十年締めた毛は、戻りません。戻らない頭に厚みを作るには、薄い側へ寄せるしかございません。


お読みいただきありがとうございます。


次話――弟子が刷り紙を持ち帰ります。図というものは、覚えるのが早うございます。

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