第20話 三枚目の鏡
次の日の朝、客が三人しか来なかった。三人とも、いつもの街の方だ。丘の上の家の使いは、一人も来ない。
「アニエスさん。今日、少ないですね」
「予行の前ですから」
テアは桶を伏せて、指を折った。この子は数えるのが好きだ。数えると落ち着くのだと、前に言っていた。
「昨日が十九人で、今日が三人です」
「明日は、もっと少ないかもしれません」
言ってから、そう言うべきではなかったと思った。テアはこの店で銭をもらっている。少ないというのは、この子の話でもある。
刷り紙が回ったのは一昨日だ。回った翌日から使いが止まった。
止まった理由は分かる。使いを出す前に、屋敷で話が要るからだ。公定形で足りるならこの店へ人をやる必要はない。足りないと決めるのは奥方ではなく当主だ。当主は帳簿を見る。
うちの代は、丘の上の相場からすれば安い。安いが、ただではない。図はただだ。わたくしは道具を並べ直した。並べ直したところで客は増えないが、手を止めているよりはましだった。
◇
昼前に、宿屋のリーゼさんが来た。十六で、水汲み場でテアと話す仲だという。前掛けを外してきたのに、髪に粉がついている。
「大典の日、列に出たいんです」
「お家の形は」
「うち、ないんです」
その方は、粉のついたところを手で払った。
「宿屋なんで。母も、後ろで結んでいるだけで」
街の家には形がない。正しくは、形を持たなくてよい。低く束ねて留めが少なければ、列の後ろの方は通る。通るが、名前は呼ばれない。
「刷り紙の、いちばん左のが、うちの母のに似ていて」
「似ておりますね」
「あれで結うと、呼んでもらえるって、ほんとうですか」
「ほんとうです」
わたくしはそう答えた。
◇
嘘ではない。図のとおりに結えば、この方は列で名を呼ばれる。十六年、一度も呼ばれたことのない名前を、その日に一度呼ばれる。
わたくしは湯を落として、この方の髪を梳いた。太くて、癖がない。宿の仕事で毎日結んでいるから、根元の癖が寝ている。
左の図は、後ろで一度低く束ねて、余りを内側へ巻き込む形だ。ケラー様の家の形に似ている。似ているというより、ケラー様の形から、留めを二つ抜いたものだった。
抜いた二つは、この方の髪では要らない。太い毛は、それだけで留まる。梳く。分ける。束ねる。巻き込む。留める。
五つで終わった。丘の上の形は、これが十七ある。
図を作った人は、抜けるところを正しく抜いている。抜いたのは技を知らない人ではない。知っている人が、知ったうえで削った。
わたくしは留めの位置を指で確かめた。この方の頭は後ろが平たい。平たい頭は、図のとおりに留めると夕方まで保つ。丸い頭では保たない。図には頭の形が書いていない。
結い上げて鏡を回すと、リーゼさんは口を開けたまま、しばらく黙っていた。
「これ、うちの形じゃないんですよね」
「公定形です」
「でも、母のに似てます」
「似せて作ってございます」
その方は帰り際に、代を置いて、それからもう一度鏡を見た。
「あの。これ、名前ありますか」
「公定形の一番、と申します」
「一番」
その方は、一番、ともう一度言って、出ていった。扉が閉まってから、テアが言った。
「あの人、嬉しそうでした」
「はい」
「わたし、あれ、いい話だと思います」
テアは桶の水を替えながら、こちらを見ずに言った。
「うちの父も、列に出たことないです。靴屋だから、出なくていいんですけど。でも出られるなら、出たいと思います」
この子の言うことは正しい。
わたくしは黙って道具を拭いた。公定形は、この街の人にとっては初めて開いた扉だ。開けたのは院で、閉めていたのも院だが、開いたことは開いた。
それを、開いたのはあなた方ではないと言う筋は、わたくしにはない。
◇
昼を過ぎて、ヨナスさんが来た。いつもは何か持ってくる。今日は、手に何も持っていない。
「座って」
「はい」
言われたとおり、鏡の前の椅子に座った。この人の言うことは短いので、聞き返すより先に座った方が早い。
ヨナスさんは、姿見の高さを見て、それから紐を出した。結び目のついた紐で、鏡を作るときの寸法取りに使うものだ。
わたくしの座った肩の高さから、姿見の下の縁まで。姿見の上の縁から、天井まで。それから、わたくしの後ろへ回って、うなじのあたりで紐を止めた。
止めたところで、少し止まった。
「動かないで」
「はい」
指が触れなかった。紐だけが、うなじの上の骨のところに当たっている。
「三度、上げる」
「何をでございましょう」
「まだ」
ヨナスさんは紐をしまって、帰った。
◇
「何を作るんですか、あれ」
「聞いておりません」
「聞かないんですか」
「聞くと、作りかけを見せてくださらなくなりますので」
テアは納得しない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。この子は、納得しないまま置いておくのが上手い。
◇
夜、店を閉めてから、椅子に座って、小さい方の鏡を構えた。
二枚組の鏡は、後ろが映る。ヨナスさんが最初に置いていったもので、テアが一人で結えるようになったのも、これがあったからだ。
映るのは、後ろ姿だ。
後ろ姿と、うなじの上とは、別のところにある。
鏡を持ち上げると、髪の下の方までは映る。そこから上、留めのあった高さのところは、顎を引いても、鏡を寝かせても、影になって見えない。自分の頭が邪魔をしている。
あの夜に見えたのは、髪を全部落としてから、櫛で分けて、ようやく指で辿ったからだ。
左右から一本ずつ、斜めに上がって、うなじの上で交差している。上下は、右が上。その上に輪をひとつ載せて、隠してある。
指で辿ったものを、わたくしはまだ目で見ていない。辿れば分かる、と客には言う。手の方が目より正しいときがある、とも言う。どちらも本当だ。
本当だが、自分の頭のこととなると、話が変わる。
七年のあいだ、わたくしはこの形を毎朝ほつれだけ直してきた。直すのは輪のところだけで、その下には触らなかった。触らなくても保っていたからだ。保っていたということは、母の留めが七年もったということだ。
七年もつ留めを、母は嫁いでいく娘の頭に置いた。置いて、何も言わなかった。
母は言葉が少ない人ではなかった。客には笑い、値切られれば渋い顔をした。その人が、最後の朝だけ何も言わずに結った。
わたくしは鏡を下ろした。
◇
戸締りをして、表へ出た。隣の工房の窓に、灯りがついていた。この時刻に灯りがついているのは、月に何度もない。
中で、板を削る音がしていた。細かくて、遅い音だった。鏡の枠を削る音だ。硝子を磨く音は、これより高い。
しばらく聞いてから、戸を叩こうとして、やめた。
叩けば、あの人は手を止める。止めて、扉を開けて、何も言わずに立つ。それが分かっているのに叩くのは、こちらの用ではなくこちらの都合だ。
わたくしは自分の店へ戻って、掛け金を下ろした。削る音は、それからしばらく続いていた。
【結い手の覚え】二枚の鏡で映るのは、後ろ姿までです。うなじの上は、自分の頭が影を作ります。
お読みいただきありがとうございます。
次話――丘の上のお屋敷から使いが参ります。二十年、髪を結ってもらえていないお家です。




