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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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第19話 公の形

 典礼院は、書き取りをやめるのだそうだ。


 やめて、代わりの形をこちらで決めると、その日の昼に新しい局長が言った。


 朝のうちは、まだ何も知らなかった。


 テアが、桶より先に紙を台へ置いた。


 水汲みから戻ったばかりで、前掛けもまだ着けていない。紙は四つに折ってあって、折り目のところだけが濡れている。


「パン屋にも、肉屋にも、同じものが貼ってありました」


 広げると、刷りの図が三つ並んでいた。


 左が、後ろで一度低く束ねて余りを内側へ巻き込む形。真ん中が、耳の上で左右に分けて後ろで交差させる形。右が、輪をひとつ載せて低く留める形。どれも見覚えがある。あるが、どれも少しずつ違う。


 図の下に、字が刷ってあった。


 ——公定形、三種。これに倣いて結いたる頭は、典礼院これを読む。


「読む、って、なんですか」


「列で名前を呼ばれる、ということです」


「じゃあ、これで結えば」


「どなたでも、並べます」


 テアは紙をもう一度見て、それから、わたくしの顔を見た。


    ◇


 補いの儀が済んで、月が変わった。


 店は朝のうちが混む。丘の上の家から使いが来るようになったのは、大祭のやり直しのあとだ。来るのは使いばかりで、当のご本人はまだ来ない。十八年、読まれない頭を結ってきた店に丘の上の方が並ぶには、もう少し要る。


 わたくしの髪は、あの夜からまだ結い直していない。梳いて、後ろで低く束ねてあるだけだ。うなじの上の二本は、一度鏡で見て、それきり触っていない。


 触ると、何かが決まってしまう気がした。昼前に、ヴァイス家のレナーテさんが来た。織物商の娘で、去年の秋にも来ている。あのときは席が一つ上の家の茶会で、結ぶ位置を三寸上げた。


「これ、うちの父が持って帰ってきたんです」


 同じ刷り紙だった。父親は商いの寄合で受け取ったのだという。


「来月、姉の婚礼があって。わたし、真ん中の形にしなさいと言われました」


「真ん中は、フォルクマー様の家の形に似ておりますね」


「似てるだけで、違うんですか」


「交差の上下が書いてありません」


 わたくしは図の、後ろ頭のところを指した。刷りは正面と横だけで、後ろは線が二本あるだけだ。どちらが上かは分からない。


「フォルクマー様の形は、右が上と決まっております。上下が入れ替わると、別の家の形になります」


「じゃあ、この図のとおりに結うと」


「どちらでも、公定形ではあります」


 レナーテさんは、しばらく黙っていた。


「変な感じですね。名前のない家の形って」


「名前は、ございます。公定形という名です」


 わたくしは湯を落として、この方の髪を梳いた。細くて、根元だけが強い。去年より少し伸びている。


 細い毛は束にするとすぐ痩せるので、内側へ一度折って厚みを作る。折る位置は、耳のうしろの骨が出ているところの、指一本ぶん上だ。そこより下で折ると、夕方には落ちてくる。


 図には、その位置が書いていない。書いてあるのは、折る、という字だけだった。婚礼の日は、ヴァイス家の形にした。姉の婚礼で、妹が別の家の形をして立つ道理はない。


    ◇


 その方が帰って、桶を片付けているときに、扉が開いた。外套の襟に、紋の留め金が光っていた。ケルン様のときは、いつも曇っていた金具だ。


「結髪局長の、ヴァルデマー・リントと申します」


 若い。三十を少し過ぎたくらいだろう。声が速い。


「ケルン様の、後任でいらっしゃいますか」


「後任ではありますが、同じことはいたしません」


 その方は椅子を見て、座らずに立ったまま言った。


「書き取りは、やめます」


 わたくしは布を畳む手を止めなかった。


「十五年かけて、二百十四の手順を集めました。使えたものは、ございません。実演の件はご存じでしょう」


「存じております」


「集める方を変えるのではなく、集めるのをやめました。結える形を、こちらで決めます」


 この人は「集める」と言った。書き取るとは言わなかった。


「四日後に、大典の予行がございます。丘の上の家から、九十ほど頭を出していただきます」


「予行、でございますか」


「大典は、来月の末です。王女様の成人の儀に、二百七十の家が列に並びます。並ぶ以上、全部の頭が読めなければなりません」


    ◇


「読めない頭が、二百七十のうち百十八ございます」


 その方は指を三本立てて、順に折った。


「結い手が絶えた家が、四十一。結い手はいるが登録の切れている家が、三十七。囲われていて当日に間に合わない家が、四十」


「百十八の頭を、公定形で」


「はい」


「その方々は、ご自分の家の形を結わずに列へ出られます」


「読まれない頭で出るよりは、よろしいかと」


 その方は、そこで初めてわたくしを見た。


「読めない頭は、無いのと同じです」


 言い方に、力みがなかった。人を怒らせようとして言う言い方ではない。二に二を足すと四になる、という言い方だった。


    ◇


「オルトレの店には、登録がございますね」


「ございます」


「更新は、来年の春です。更新の要否を、順にお伺いしております」


「要否」


「公定形をお使いになるなら、登録は要りません。図のとおりに結うだけですので」


 湯が鳴りはじめた。


「総長は、二十日でお決めになります」


「二十日」


「予行から、二十日でございます」


「なぜ、お急ぎになるのでしょう」


 その方は扉に手をかけたところで、少し考えた。考えたというより、答えを選んだように見えた。


「急いでいるのではありません。間に合わせているのです」


 扉が閉まった。


 登録には、年に一度の更新がある。紙を一枚出せば、院は帳面の名を書き写す。それだけの手続きで、費えは銅貨で足りる。


 その紙が要らなくなるということは、結い手という名を持つ人が、院の帳面から順に減るということだ。減っても、当座は誰も困らない。図が刷ってあるからだ。


 困るのは、図の描けない頭が出てきたときで、それは十年か二十年あとになる。そのころには、結える人が残っていない。


    ◇


 夜、店を閉めてから、母の帳面を出した。二百人ぶんの記録の、最後の頁だ。七年前の春で止まっている。


 いちばん下に、書きかけて消した一行がある。墨を引いて塗り潰してあるが、いちばん上の一画だけが、塗りの外に出ている。横に短く一本。


 「院」の、はじめの一画だ。


 この一行を、わたくしは十二の年から見ている。母が死んでからは、七年見ている。何度見ても、一画は一画のままだった。


 母の字は、客の名を書くときだけ大きい。日付と勘定は小さくて、ときどき数を書き間違えている。書き間違えたところは、線を引かずにその上から重ねて直してある。


 塗り潰してあるのは、この一行だけだ。


 母は、この頁に何かを書こうとして、やめた。やめたうえで、線を引いた。人に読ませないようにしたのだ。


 やめた人が、そのあと十一年、店を開け続けた。わたくしは帳面を閉じて、棚へ戻した。


 棚の同じ段に、刷り紙が置いてある。テアが持ってきたものだ。図の下の字は、母の字より読みやすい。刷りだから当たり前だが、読みやすいというのは、読む人が多いということでもある。


 四日後の予行には、丘の上の家の頭が九十並ぶ。母が十八年、一度も呼ばれなかった場所だ。わたくしは呼ばれていない。呼ばれてはいないが、列は道からでも見える。


 行って、見ることにした。

【結い手の覚え】図に描けるのは、正面と横までです。後ろの交差は、上下が入れ替わっても同じ絵になります。


お読みいただきありがとうございます。


次話――予行の前に、隣の工房の鏡師が、寸法だけ測って帰ります。何を作るのかは、言いません。

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