第18話 ほどく
大祭のやり直しは、月が変わってすぐに行われた。
やり直しというのは正しくない。院の言い方では「補いの儀」という。実演で落ちた家にもう一度席次を測る機会を与えるためのものだ。ラントシュテット家のために開かれたのだが、開くとなれば他の家も来る。
典礼院から、わたくしのところへ紙が来た。当日、大聖堂の控えに結い手として詰めてほしい、と書いてあった。
銭のことも書いてあった。悪くない額だった。
院は、わたくしを登録し直すつもりでいる。詰めれば、その日のうちに名が台帳に載る。載れば、丘の上の家の頭を、正式に読ませられるようになる。
母が十八年前に失って、死ぬまで戻らなかったものだ。
「行くんですか」
テアが紙を覗き込んで聞いた。
「行きません」
「え」
「その日は、店を開けます」
「でも、これ、院からですよ」
「はい」
「大聖堂ですよ」
「はい」
テアは紙を持ったまま、しばらくこちらを見ていた。それから、紙を台の上に戻して、こう言った。
「じゃあ、湯、いつもより多めに沸かしますね」
理由は聞かれなかった。
聞かれたら、うまく答えられたかどうか分からない。断る理由は、二つある。
ひとつは、当日に大聖堂へ詰めれば、その日、店に来た人を断ることになるからだ。街の人は、その日しか休みがない。
もうひとつは、控えの間で待つ結い手は、呼ばれた家の頭しか結わないからだ。呼ばれない家は、控えの間には来ない。
母の店は、二十五年、誰でも扉を開けられる場所にあった。
◇
当日は、朝から人が来た。
補いの儀があるので丘の上の家は朝から動く。動くとなれば街の者も広場へ出る。広場へ出るなら、髪を上げる。
その日、店で結ったのは十九人だった。
レオノーラさんが来た。四十九日の帰りに寄ると言ったきり、三月来ていなかった。ケラーの形が崩れていなかったので、直すところがほとんどなかった。
「自分で結っておいででしたか」
「娘のころにやっていたのを、思い出しまして」
ヘートヴィヒ様は来なかった。あの方は補いの儀に出る側だ。
代わりに、朝のいちばん早い時間に、ハンナが来た。
◇
ハンナは前掛けを持ってきていた。
「月に二度と伺っておりますが」
「今日は、月の二度目ではございません」
「はい。休みをいただきました」
この子は休みをもらって丘を下り、他人の店へ湯を運びに来たことになる。
わたくしはテアに紹介した。テアは十三で、ハンナは十九だ。二人は最初のうち黙っていたが、三人めの客が来たあたりから、勝手に喋りはじめた。
その日、ハンナには二人ぶん結わせた。
街の家の形だ。低くて、留めが少ない。ハンナは二人とも上げきった。二人めのとき、右のこめかみが薄い方が来たので、湯を使わせた。
「奥様。……あの、寄りました」
「寄りましたね」
「乾いたままだと、寄らないんですね」
「はい」
ハンナは自分の指を見ていた。七年、部屋の隅で見ていた子の指だ。
◇
昼過ぎ、広場のほうから鐘が鳴った。
補いの儀が始まったのだと分かった。分かったが、店は混んでいて、誰も外を見に行かなかった。
あとで聞いた話では、ラントシュテット家は席を取り戻したのだそうだ。
結ったのは、南の町から出てきた女の人だったという。宿の女中をしていた人で、二十年ぶりに櫛を持ったのだと。ヘートヴィヒ様が二年前に手紙を出して、忘れましたと返ってきた、あの人だ。
どういう経緯で戻ってきたのかは、聞いていない。
二十年、忘れたことにしていた手が、戻ってくることがあるのだと知った。
忘れましたと書いた人が、どこかで気が変わる。気が変わる何かがあったのだと思うが、それが何かは、その人にしか分からない。
ヘートヴィヒ様は、二年待たれた。二年待って、待ったことを誰にも言わなかった。
◇
日が落ちて、最後の客が帰ったあと、ハンナが丘へ帰り、テアが桶を伏せた。
「アニエスさん。今日、十九人でした」
「はい」
「三十まで、あと十一です」
テアは前掛けを外して、それを畳みながら言った。
「あの、来年の祭、予約の紙、もう作ってあります」
この子は、決めたそばから走り出す。走り出されると、決めたことが決まってしまう。
テアが帰ったあと、わたくしは道具を拭いて、油の壺の蓋を閉めて、火を落とした。
それから、鏡の前に立った。
◇
姿見の高さは、テアに合わせて下げてある。
わたくしは椅子を引いて、座った。座れば、高さは合う。
小さいほうの鏡を構えると、後ろが映った。
七年、布で包んで、ほつれだけを直してきた形が、そこにある。輪はひとつで、後ろで低く留めて、余りを左へ流している。留めの下で毛が痩せているのが、いまはよく見えた。
この形は、母が最後に結った。
ほどけば、消える。
消えるものを七年頭に載せて歩いていたが、載せているあいだ、わたくしは一度も自分の後ろを見ていなかった。見えないものを守っていたことになる。
わたくしは留めに指をかけた。
◇
抜いた。
留めが外れても、輪はすぐには落ちなかった。七年ぶんの癖でしばらく形のまま浮いている。それから、左へ流したところの重みで、ゆっくり傾いて、落ちた。
髪が肩まで落ちるのに、思っていたより時間がかかった。
わたくしは、櫛を取った。母の櫛だ。峰から三本目と四本目の歯が欠けている。
梳いた。
根元から通した。途中で止まったところは、抜いて、下から入れ直した。七年ぶんの折り目が、湯を使わないと寝ないところが何か所かあった。湯は落としてしまったので、明日にした。
梳きながら、七年ぶんの重さが肩から抜けていくのが分かった。
結った髪は、思っているより重い。載せているあいだは気づかない。載っているのが当たり前になると、重さは背中の一部になって、数えられなくなる。
梳いていて、手が止まった。
留めのあったところ、うなじの少し上に、癖がついている。
七年ぶんの癖なら、当然だ。当然だが、その癖は、輪ひとつぶんではなかった。
二本ある。
左右から一本ずつ、斜めに上がってきて、うなじの上で交差している。交差の上下は、右が上だ。その上に、輪をひとつ載せて隠してある。
わたくしは、鏡を持ち直した。
母は、輪ひとつの形を結ったのではない。下で二本を交差させて、その上から輪で蓋をしていた。外から見えるのは輪だけだ。見えないところは、形のうちに入らない。
交差の上下が決まっている形を、わたくしは一つしか知らない。
だが、フォルクマーの交差は耳の上だ。うなじではない。
母の帳面を出して、最初から最後まで見た。
この形は、どこにもない。二百人ぶんの記録の、どの家の名にも当たらない。
典礼院の台帳にも、たぶん無い。有れば、名前がついている。
わたくしは七年ものあいだ、名前のない形を頭に載せて歩いていた。
母が最後の朝に何を結ったのか、いま初めて見た。
見たが、これが何なのかは、分からない。
◇
それから幾日かして、典礼院に新しい局長が入ったと聞いた。
その方は、書き取りをやめるのだそうだ。
やめて、どうなさるのかは聞いていない。
【結い手の覚え】隠すつもりなら、輪をひとつ載せておけば足ります。外から見える線だけが、形と呼ばれるものですから。
お読みいただきありがとうございます。
この形の名を、わたくしはまだ知りません。
院はこのあと、名の付いた形だけを刷りはじめます。




