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夫が愛人を連れ帰りましたので、この家の女はもう髪を結えません  作者: 椿野すず


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18/24

第18話 ほどく

 大祭のやり直しは、月が変わってすぐに行われた。


 やり直しというのは正しくない。院の言い方では「補いの儀」という。実演で落ちた家にもう一度席次を測る機会を与えるためのものだ。ラントシュテット家のために開かれたのだが、開くとなれば他の家も来る。


 典礼院から、わたくしのところへ紙が来た。当日、大聖堂の控えに結い手として詰めてほしい、と書いてあった。


 銭のことも書いてあった。悪くない額だった。


 院は、わたくしを登録し直すつもりでいる。詰めれば、その日のうちに名が台帳に載る。載れば、丘の上の家の頭を、正式に読ませられるようになる。


 母が十八年前に失って、死ぬまで戻らなかったものだ。


「行くんですか」


 テアが紙を覗き込んで聞いた。


「行きません」


「え」


「その日は、店を開けます」


「でも、これ、院からですよ」


「はい」


「大聖堂ですよ」


「はい」


 テアは紙を持ったまま、しばらくこちらを見ていた。それから、紙を台の上に戻して、こう言った。


「じゃあ、湯、いつもより多めに沸かしますね」


 理由は聞かれなかった。


 聞かれたら、うまく答えられたかどうか分からない。断る理由は、二つある。


 ひとつは、当日に大聖堂へ詰めれば、その日、店に来た人を断ることになるからだ。街の人は、その日しか休みがない。


 もうひとつは、控えの間で待つ結い手は、呼ばれた家の頭しか結わないからだ。呼ばれない家は、控えの間には来ない。


 母の店は、二十五年、誰でも扉を開けられる場所にあった。


    ◇


 当日は、朝から人が来た。


 補いの儀があるので丘の上の家は朝から動く。動くとなれば街の者も広場へ出る。広場へ出るなら、髪を上げる。


 その日、店で結ったのは十九人だった。


 レオノーラさんが来た。四十九日の帰りに寄ると言ったきり、三月来ていなかった。ケラーの形が崩れていなかったので、直すところがほとんどなかった。


「自分で結っておいででしたか」


「娘のころにやっていたのを、思い出しまして」


 ヘートヴィヒ様は来なかった。あの方は補いの儀に出る側だ。


 代わりに、朝のいちばん早い時間に、ハンナが来た。


    ◇


 ハンナは前掛けを持ってきていた。


「月に二度と伺っておりますが」


「今日は、月の二度目ではございません」


「はい。休みをいただきました」


 この子は休みをもらって丘を下り、他人の店へ湯を運びに来たことになる。


 わたくしはテアに紹介した。テアは十三で、ハンナは十九だ。二人は最初のうち黙っていたが、三人めの客が来たあたりから、勝手に喋りはじめた。


 その日、ハンナには二人ぶん結わせた。


 街の家の形だ。低くて、留めが少ない。ハンナは二人とも上げきった。二人めのとき、右のこめかみが薄い方が来たので、湯を使わせた。


「奥様。……あの、寄りました」


「寄りましたね」


「乾いたままだと、寄らないんですね」


「はい」


 ハンナは自分の指を見ていた。七年、部屋の隅で見ていた子の指だ。


    ◇


 昼過ぎ、広場のほうから鐘が鳴った。


 補いの儀が始まったのだと分かった。分かったが、店は混んでいて、誰も外を見に行かなかった。


 あとで聞いた話では、ラントシュテット家は席を取り戻したのだそうだ。


 結ったのは、南の町から出てきた女の人だったという。宿の女中をしていた人で、二十年ぶりに櫛を持ったのだと。ヘートヴィヒ様が二年前に手紙を出して、忘れましたと返ってきた、あの人だ。


 どういう経緯で戻ってきたのかは、聞いていない。


 二十年、忘れたことにしていた手が、戻ってくることがあるのだと知った。


 忘れましたと書いた人が、どこかで気が変わる。気が変わる何かがあったのだと思うが、それが何かは、その人にしか分からない。


 ヘートヴィヒ様は、二年待たれた。二年待って、待ったことを誰にも言わなかった。


    ◇


 日が落ちて、最後の客が帰ったあと、ハンナが丘へ帰り、テアが桶を伏せた。


「アニエスさん。今日、十九人でした」


「はい」


「三十まで、あと十一です」


 テアは前掛けを外して、それを畳みながら言った。


「あの、来年の祭、予約の紙、もう作ってあります」


 この子は、決めたそばから走り出す。走り出されると、決めたことが決まってしまう。


 テアが帰ったあと、わたくしは道具を拭いて、油の壺の蓋を閉めて、火を落とした。


 それから、鏡の前に立った。


    ◇


 姿見の高さは、テアに合わせて下げてある。


 わたくしは椅子を引いて、座った。座れば、高さは合う。


 小さいほうの鏡を構えると、後ろが映った。


 七年、布で包んで、ほつれだけを直してきた形が、そこにある。輪はひとつで、後ろで低く留めて、余りを左へ流している。留めの下で毛が痩せているのが、いまはよく見えた。


 この形は、母が最後に結った。


 ほどけば、消える。


 消えるものを七年頭に載せて歩いていたが、載せているあいだ、わたくしは一度も自分の後ろを見ていなかった。見えないものを守っていたことになる。


 わたくしは留めに指をかけた。


    ◇


 抜いた。


 留めが外れても、輪はすぐには落ちなかった。七年ぶんの癖でしばらく形のまま浮いている。それから、左へ流したところの重みで、ゆっくり傾いて、落ちた。


 髪が肩まで落ちるのに、思っていたより時間がかかった。


 わたくしは、櫛を取った。母の櫛だ。峰から三本目と四本目の歯が欠けている。


 梳いた。


 根元から通した。途中で止まったところは、抜いて、下から入れ直した。七年ぶんの折り目が、湯を使わないと寝ないところが何か所かあった。湯は落としてしまったので、明日にした。


 梳きながら、七年ぶんの重さが肩から抜けていくのが分かった。


 結った髪は、思っているより重い。載せているあいだは気づかない。載っているのが当たり前になると、重さは背中の一部になって、数えられなくなる。


 梳いていて、手が止まった。


 留めのあったところ、うなじの少し上に、癖がついている。


 七年ぶんの癖なら、当然だ。当然だが、その癖は、輪ひとつぶんではなかった。


 二本ある。


 左右から一本ずつ、斜めに上がってきて、うなじの上で交差している。交差の上下は、右が上だ。その上に、輪をひとつ載せて隠してある。


 わたくしは、鏡を持ち直した。


 母は、輪ひとつの形を結ったのではない。下で二本を交差させて、その上から輪で蓋をしていた。外から見えるのは輪だけだ。見えないところは、形のうちに入らない。


 交差の上下が決まっている形を、わたくしは一つしか知らない。


 だが、フォルクマーの交差は耳の上だ。うなじではない。


 母の帳面を出して、最初から最後まで見た。


 この形は、どこにもない。二百人ぶんの記録の、どの家の名にも当たらない。


 典礼院の台帳にも、たぶん無い。有れば、名前がついている。


 わたくしは七年ものあいだ、名前のない形を頭に載せて歩いていた。


 母が最後の朝に何を結ったのか、いま初めて見た。


 見たが、これが何なのかは、分からない。


    ◇


 それから幾日かして、典礼院に新しい局長が入ったと聞いた。


 その方は、書き取りをやめるのだそうだ。


 やめて、どうなさるのかは聞いていない。


【結い手の覚え】隠すつもりなら、輪をひとつ載せておけば足ります。外から見える線だけが、形と呼ばれるものですから。


お読みいただきありがとうございます。


この形の名を、わたくしはまだ知りません。


院はこのあと、名の付いた形だけを刷りはじめます。


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― 新着の感想 ―
大変興味深く拝見いたしました …結った髪を紋としたのは一体どういう由来によってなのでしょうね(;^ω^) そこがなんとも不思議だと思いました 結い方によっては部分的に髪が薄くなることもあるかと思います…
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