第17話 消された形
ケルン様は、その日、紋の留め金をつけていなかった。
外套は同じものだ。襟のところに、留め金のあった跡だけが残っている。布の色が、そこだけ濃い。
「局長を、外れました」
椅子に座る前に、そうおっしゃった。
「実演の件で、責を問われました。当然のことです」
「お座りください」
「客ではありませんが」
「今日は、客の椅子で結構です」
◇
ケルン様は座って、しばらく膝の上を見ていらした。
この人が言葉を探しているのを、初めて見た。いつもは先に出来上がっている人だ。
「オルトレのお嬢さん。ひとつ、お伝えしなければならないことがあります」
「はい」
「十八年前、あなたのお母様の登録を抹消したのは、私です」
わたくしは、湯を沸かす手を止めなかった。止めなかったのは、落ち着いていたからではない。手を止めると、次に何をすればいいか分からなくなりそうだった。
水を足して、火を見て、布を畳んだ。畳む必要のない布だった。
十八年、わたくしは母の名がなぜ消えたのかを知らなかった。知らないまま、その理由をいくつも考えてきた。母が何か過ちを犯したのか、院に嫌われたのか、それとも、忘れられただけなのか。
いま、目の前にその答えが座っている。座って、湯を待っている。
◇
「当時、私は結髪局の書記でした」
ケルン様は、抑揚のない声で話された。
「記録の作り直しは、そのころ始まりました。登録のある結い手に、順に手順の提出を求めたのです。書いて出せば登録を更新する、出さなければ更新しない。そういう決まりを作りました」
「母は、出しませんでしたか」
「出しました。何度も」
湯が沸きはじめた。
「図を描いて、持ってこられました。三度、四度と描き直して。ですが、こちらの求めていたものではなかった。同じ形を、誰が見ても同じに結えるように書いてくれと、私は申しました」
「母は、なんと」
「書けません、と」
「私は、書けないはずがないと考えました」
ケルン様は膝の上で手を組んだ。
「書けないのではなく、書きたくないのだと思ったのです。技を囲い込むために、書けないと言い張っているのだと。実際、そういう結い手も何人かおりました」
「はい」
「ですから、規則どおりに処理しました。期限までに提出のない者は抹消する。イルゼ・オルトレ、抹消。私は、その紙に自分で線を引きました」
わたくしは湯を止めた。
「一人だけでしたか」
「六人おりました。そのうち五人は、翌年までに書いて出してきましたので、戻しました」
「母だけが」
「戻りませんでした」
◇
抹消された結い手は、家の形を結えない。
正確には、結ってもいいが、その頭は列で読まれない。読まれない頭を作る結い手には、丘の上の客は来ない。街の客は来る。街の家の形は、登録が要らないからだ。
母は、そのあと十一年、店を開けていた。開けていたが、丘の上の客は一人も来なかった。帳面の後ろの十年は、名前の数が半分になっている。
わたくしは八つだった。八つの年に何が起きたのかを、当時は知らない。母が院へ行く日に店を閉めることと、閉めた日の夕方に母が遅く帰ってくることだけを知っていた。
やがて、院へ行く日がなくなった。行かなくなったのだと、そのころは思っていた。行っても仕方がなくなったのだとは、思いつかなかった。
その十一年、母は毎日、いつもと同じ時刻に店を開けていた。来ない客を待って、来た客を結って、日が落ちると道具を拭いた。
わたくしは、その拭いている背中を見て育った。背中は変わらなかった。だから何も起きていないのだと思っていた。
わたくしが十を過ぎたころには、ローゼさんはもう来ていなかった。人手を二人置けるだけの客が、いなくなっていたからだ。
◇
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、いつからご存じでしたか。わたくしが、イルゼの娘だと」
ケルン様は、少し間を置いてから答えられた。
「最初からです」
「では、なぜ」
「初めにお会いした日に申し上げるべきでした。申し上げれば、話は終わっていたでしょう。私は、書き取りの話を先にしたかった」
この人は、そういう順番で物を考える。規則を先に、人を後に。十八年前もそうだったし、いまもそうだ。
順番が入れ替わっていれば、母は登録を失わなかったかもしれない。失わなければ、丘の上の客は来続けた。人手を二人置いたままでいられて、ローゼさんは店に残っていた。
残っていれば、テアの母親は湯を毎日使う人のままだった。娘の頭にも、手が届いたかもしれない。
そこまで考えて、やめた。
十八年前に一本の線を引いた人が、いまの靴屋の娘の帽子まで引き受けるのは、いくらなんでも重すぎる。
「アニエスさん」
ケルン様が、初めてわたくしの名を呼ばれた。
「ひとつだけ、申し上げてよろしいですか。言い訳になりますが」
「どうぞ」
「あなたは、私を訴えることができました。院に願い出れば、十八年前の処理は調べ直されます。線を引いたのは私ですから、名前も残っております」
「はい」
「実演のあと、あなたが台へ上がってきて、湯を使わねば割れると言ってくだされば、私はその場で恥をかいて、それで済んだ。済ませたほうが、私は楽だった」
ケルン様は顔を上げた。
「あなたが何か言ってくださっていれば、私は戦えたのです。あなたと戦って、負けるなり勝つなりできた。何もおっしゃらないので、私は、自分の書いたものと戦うほかに、することがなくなりました」
◇
わたくしは湯呑みを二つ出して、片方をケルン様の前に置いた。
「わたくしは、母のためにあなたを訴えたくはございません」
「なぜです」
「訴えれば、これは母とあなたの話になります。母とあなたの話になったら、湯の話が消えます」
ケルン様は湯呑みを両手で持って、それから、少し笑われた。笑ったのを見たのは初めてだった。
「――そうですね。消えます」
「消えると、来年もどこかで髪が落ちます」
ケルン様は湯呑みを置いて、しばらく黙っておいでだった。
この人が失脚したのは、わたくしが何かをしたからではない。書き取ったもので結えると主張して、人前で試して、割れた。それだけだ。
わたくしは一度も、この人と争っていない。争っていないので、勝ってもいない。ただ、髪は落ちるべきときに落ちた。
落ちたのは、ラントシュテットの方の頭であって、この人の頭ではない。そのことだけが、後味として残る。
◇
帰り際、ケルン様は扉のところで振り返られた。
「記録の作り直しは、続きます。私は外れましたが、後任がおります」
「どなたでしょう」
「総長のザイフェルト様が、ご自分でご覧になると」
わたくしはその名前を知らなかった。知らなかったが、ケルン様の言い方で、その方が書き取りをやめさせる側の人ではないことは分かった。
「ザイフェルト様は、私よりも急がれます」
「そうですか」
「それと、これは私事ですが」
ケルン様は、外套の襟の、留め金のあった跡に指を当てた。
「十八年前、あなたのお母様は、最後にこうおっしゃいました。では、わたくしの手を持っていってくださいと。私は、皮肉だと思って腹を立てました」
「はい」
「先日、実演を見て、あれは皮肉ではなかったのだと分かりました」
扉が閉まったあと、わたくしはしばらく台の前に立っていた。
母は、手を持っていってくださいと言った。書けないものを渡すには、手ごと渡すしかない。渡す方法がないから、そう言った。
方法は、ひとつだけある。
弟子に渡すことだ。母はそれをしようとして、途中でできなくなった。店の客が半分になり、人手を置けなくなったからだ。ローゼさんが来なくなったのも、そのころだ。
わたくしは奥を見た。テアが桶を伏せている。
十八年遅れて、同じことが始まっている。
【結い手の覚え】抹消された結い手が結った頭は、列で読まれません。結ってはいけないのではなく、読まれないのです。
お読みいただきありがとうございます。
次話――大祭のやり直しがございます。わたくしは呼ばれました。そして、七年ぶりに自分の髪をほどきます。




