第16話 遅い
馬車の音は、通りの入り口で止まった。
この通りには馬車が入らない。入らないことを知らずに来た人は、広場で降りて歩く。歩いてくる音が、店の中まで聞こえた。
テアが窓のほうを見て、それからわたくしを見た。
「アニエスさん」
「湯を、足しておいてください」
テアは奥へ行った。行ってから、戸口のところでもう一度こちらを振り返った。
旦那様は、扉を開けたところで立ち止まられた。
店の天井は低い。この方は背が高いので、入ると窮屈に見える。屋敷の広間で見ていたときと、体の大きさが違って見えた。
「アニエス」
「いらっしゃいませ」
「……客ではない」
「では、お掛けにならないでください。椅子は客のものですので」
旦那様は、椅子に手をかけかけた姿勢のまま止まった。
◇
髪が伸びていらした。
つむじがふたつあるので、伸びると割れる。前へ倒しても、額の生え際で押さえるものがなければ、昼までに戻ってしまう。だから今日も、前が二つに割れていた。
誰も結っていない。屋敷には侍女が四人いる。四人とも、男の髪には触らない。男の髪には形がないので、結い手の仕事ではないと思われている。
実際には、形のない髪ほど難しい。
形がある髪は、通す道が決まっている。決まっているから、覚えれば結える。形のない髪は、その日の毛の向きを見て、毎回いちから決めなければならない。
この方の髪は、七年、わたくしが決めていた。決めていたことを、この方はご存じない。朝の間で椅子に座って、鏡を見て、出ていく。それだけだった。
だから、いま前が割れている。
割れているのを直すのに、道具はいらない。指を濡らして、生え際で一度押さえるだけでいい。十を数えるあいだ押さえていれば、その日いちにちは保つ。
わたくしは、手を後ろで組んだ。
「母上から聞いた」
「はい」
「ハンナを寄越すそうだな」
「月に二度と伺っております」
「――俺は、聞いていない」
この方は、いつもそうだ。決まったあとで、自分が聞いていないことに気づく。
◇
「アニエス。戻ってきてくれとは言わない」
「はい」
「言わないが、一度だけでいい。結ってくれないか」
わたくしは布巾を畳んで、台の端に置いた。
「どなたの髪でしょう」
「……俺の」
「お引き取りください」
旦那様は、聞き返さなかった。聞き返さないくらいには、この方も分かっていらしたのだと思う。
この方は、悪い人ではない。悪い人であれば、ここへは来ない。来ても、銭を積んで済ませようとする。
悪くはないが、遅い。
遅いというのは、間に合わないという意味だ。七年のあいだに何度でも間に合ったものが、いま間に合わない。それだけのことで、そこに悪意があったかどうかは、もう関係がない。
◇
「なぜだ」
しばらくして、そう言われた。
「あの女の髪は結ったんだろう。母上の髪も、教えてやるんだろう。なぜ俺だけだ」
わたくしは、答えを考えた。考えたが、正直に言うほかに言い方が見つからなかった。
「旦那様は、七年のあいだ、一度もわたくしの手を見ませんでした」
「見た。うまいものだと言っただろう」
「一度、でございます」
旦那様が黙った。
「四年目の春の、狩りの朝でございました。あれが最初で、最後です」
「……そんなことを、数えていたのか」
「数えられるくらいしか、ございませんでしたので」
◇
旦那様は、そのあとしばらく何もおっしゃらなかった。
店の中を見回して、鏡を見て、椅子を見て、それから台の上の帳面に目を止められた。開いたままだった。
「これは」
「母の帳面です」
「名前が、たくさんある」
「二百人ほどおります」
旦那様は指を伸ばして、途中で止められた。触ってよいものかを迷う手だった。この方にも、そういう手つきがあるのだと初めて知った。
「アニエス。俺は、お前を大事にしていたつもりだった」
「存じております」
「つもりだった、では駄目なのか」
「駄目ではございません。ただ、七年のあいだ、わたくしが何をしていたかをご存じないまま大事にしていらしたので、大事にされていたのはわたくしではございません」
旦那様は、その言葉をしばらく飲み込んでおいでだった。
飲み込んで、それから、こうおっしゃった。
「では、何が大事にされていた」
「朝でございます」
「朝」
「毎朝、決まった時刻にお義母様と義妹様の髪が上がっていること。それが、この家の朝でした。旦那様が大事にしていらしたのは、その朝です」
窓の外で、荷車が通った。この通りは狭いので、荷車が通るあいだは話が止まる。
止まっているあいだ、旦那様はずっと帳面を見ていらした。
◇
旦那様は、帰り際にひとつだけ聞かれた。
「あの日、なぜ最後にもう一度結ってくれと頼んだとき、断った」
「結えば、また明日も、と言われるからです」
「言わない」
「言わなくても、明日は来ます」
扉が閉まってから、テアが奥から出てきた。
湯を足す必要などなかったのに、律儀に足してあった。
「あの人が、旦那様ですか」
「元の、でございます。ジェラルド・レンヴァルト様と申します」
「……なんか、思ってたより」
テアはそこで言葉を探して、見つからなかったらしく、やめた。
◇
その晩、テアが帳面を読んでいて、急に声を出した。
「アニエスさん」
「はい」
「ここ、ローゼって書いてあります」
わたくしは頁を覗いた。十九年前の日付の下に、ローゼ、とだけある。家の名がない。
「うちの母、ローゼです」
わたくしはその頁を、最初から読み直した。
ローゼの名は、そのあと何度も出てくる。客として来た記録ではない。日付の横に「ローゼ」とだけ書かれた日は、たいてい客の数が多い日だった。
母の店には、人手が二人いた。
祭の日に三十人結った年の、その二人のうちの一人だ。
「テアさん」
「はい」
「お母様は、この店で働いていらっしゃいました」
テアは、頁を見たまま動かなかった。
しばらくして、こう言った。
「じゃあ、母は、湯の使い方、知ってたんですね」
「はい」
「知ってて、わたしの髪だけ、結わなかったんだ」
「結えなかったのだと思います」
テアは帳面を閉じずに、指で母親の名を押さえていた。押さえたまま、しばらく動かなかった。
十九年前の頁だ。この子が生まれるより前の日付で、そこにローゼという名が並んでいる。祭の日、客の多い日、大市の前の日。忙しい日にだけ、その名がある。
わたくしはその字を見ていて、ひとつ思い出した。九つか十のころ、店に若い女の人がいた。顔は覚えていない。覚えているのは、その人が笑うと声が高かったことだけだ。
わたくしは、この子の後ろに回って、留めのところに手を当てた。
「毎朝、娘を泣かせて結うくらいなら、帽子をかぶせたほうが早いと思う日が、続いたのだと思います。続くと、それが決まりになります」
留めの位置は、指二本ぶん下げてある。わたくしが一度言っただけのことを、この子はずっと守っている。
母親は、この子の頭に一度も手が届かなかった。届かなかった人の娘が、いま毎日、他人の頭に手を入れている。
それを幸いと言っていいのかどうかは、分からない。分からないので、言わなかった。
【結い手の覚え】形のない髪ほど難しいものです。つむじが二つある頭は、額の生え際で一度押さえないと、昼までに戻ります。
お読みいただきありがとうございます。
次話――典礼院の局長が、十八年前の話をしにまいります。母の名を台帳から消した人の話です。




