第36話 名のない形
台帳は、思っていたより薄かった。院の登録簿は、家の形を家ごとに並べたものだ。二百七十家ぶんで、この厚さになる。一家あたり、半頁も使っていない。
総長は、後ろから三枚目を開かれた。その頁の上に、新しい罫が引いてある。墨がまだ新しい。
——名のない形。
◇
「昨日、書かせました」
「昨日」
「大典の前日です。回答の期限の日でもあります」
その方は、頁の上を指でなぞられた。
「この欄には、名を書きません。書くのは、届け出人と、登録番号と、日付。それから、届け出人が書いた一行を、そのまま写します」
わたくしは、その下の行を見た。
——この形に名はありません。名を付けると、別の形になります。
わたくしが書いた字ではない。書記の字だ。字は違うが、文言はそのままだった。
「図は、載せておりません」
「載せられませんので」
「そのとおりです。ここに載るのは、名のない形が在る、という事実だけです」
「なぜ、お作りになりましたか」
わたくしは、そう聞いた。
「四番目にする方が、院にはよろしかったのでは」
「よろしかったでしょうね」
その方は、台帳を閉じられた。
「ですが、あなたは断られる。断られたものを刷っても、結える者がおりません」
「それだけでございますか」
「それだけではありません」
その方は、少し間を置かれた。
「七年前の紙を、探させました。棚に残っておりました。書式の不備で戻したものは、一年で処分する決まりですが、処分していなかった」
「残っておりましたか」
「書記が、捨てられなかったのでしょう。中身は、あなたの出されたものとほとんど同じでした。ただ、名の欄は空でした」
その方は、こちらを見た。
「空欄と、無いと書くこと。院にとっては、そこが全部です」
◇
わたくしは、しばらく何も言えなかった。母は、間違えたのではない。届かなかっただけだ。同じことを言うのに、七年と、書き方一つが要った。
「イルゼ・オルトレの名で、七年前の日付のまま、同じ欄に写させました」
「母の名で」
「先に出したのは、あの方です」
その方は、包みの布を畳まれた。
「二行になります。上があなたのお母様、下があなたです」
台帳を返して、その方は立ち上がられた。
「これで院が変わったとは、お思いにならないでください」
「思っておりません」
「公定形は続きます。来年の春には、あなたに手順の提出を求めます。求められて出せなければ、抹消です」
「はい」
「私は、その手続きをやめさせません」
わたくしは、頷いた。
この方は、初めからそう仰っている。二十日で決めると言って、決めた。決めたことのうち、わたくしに関わるのは一行だけだ。
「王家の形は、どうなさいますか」
「決めておりません」
その方は、扉のところで一度止まられた。
「下の姫様がご成人なさるまでに、五年ございます。ゾフィー殿は、そのとき七十六です」
「五年でございますね」
「五年で、結える者を作るか、形を写すか、諦めるかを決めます」
その方は、それだけ仰って、歩いて帰られた。
◇
テアには、その日のうちに話した。この子は、台帳の話をひととおり聞いて、それから聞いた。
「じゃあ、あの形、載ったんですか」
「載ったのは、名が無いということだけでございます」
「絵は」
「載っておりません」
「じゃあ、結い方を知ってるのは」
テアは、そこで自分の手を見た。
「わたしと、アニエスさんだけですね」
「はい」
「増やしていいですか」
わたくしは、返事をしなかった。返事の代わりに、明日の客の名を読み上げた。この子は、それで納得したようだった。夕方、テアが帰ったあとに、隣の戸が開く音がした。ヨナスさんが、布をかけたものを抱えて入ってきた。
「置いていく」
「拝見してもよろしいですか」
その方は、返事の代わりに布を取った。
鏡が三枚あった。
真ん中の一枚は姿見で、これは前からあるものと同じ大きさだ。両側に、細長い鏡が一枚ずつ付いている。付け根に蝶番があって、角度が変えられる。
「座って」
わたくしは、椅子に座った。
◇
ヨナスさんは、後ろへ回って、左右の鏡を内側へ倒された。少し倒して、止めて、また少し倒す。
「顎、引いて」
「はい」
「もう少し」
映った。
うなじの上が、映っている。左右から一本ずつ、斜めに上がってきて、交差している。上下は、右が上。その上に、輪がひとつ載っている。
輪の下から、二本が出ているのが見える。わたくしは、それを長いあいだ見ていた。
七年、頭に載せていたものだ。指では何度も辿った。テアの手つきでも確かめた。だが、目で見たのは、これが初めてになる。
母が最後の朝に何を結ったのかを、わたくしはいま初めて見ている。思っていたより、小さかった。
もっと大きなものだと思っていた。台帳のどこにもなく、院の書式にも入らず、七年わたくしの後ろにあったものだ。実際には、指二本ぶんの幅しかない。
小さいものを、母は隠さずに載せた。輪で蓋をして、外からは見えないようにして、それでも毎日、人前へ出していた。
◇
「三度、ずれてた」
ヨナスさんが、そう言った。
「何がでございましょう」
「角度。作りながら、三度変えた」
「寸法を測っていらしたのは、ひと月前でございますね」
「うん」
その方は、鏡の縁に指をかけて、もう一度だけ角度を直された。直した指が、わたくしのうなじのすぐ後ろで止まっている。触れてはいない。
鏡の中で、その方の手と、わたくしの二本が、同じ高さに見えた。
「ヨナスさん」
「なに」
わたくしは、名前を呼んだだけで、そのあとを続けられなかった。続けられないまま、少し黙った。
「……ありがとうございます」
「うん」
その方は、それだけ言って、手を引いた。
道具箱を持ち上げるときに、蓋が開いた。
底に、紙が入っていた。折らずに重ねてある。三枚あって、いちばん上の一枚に字が見えた。細かくて、詰まっていて、端まで書いてある。
この人の書く字を、わたくしは初めて見た。
いちばん上の行だけが読めた。オルトレのアニエス様、とあった。その先は、こちらへ向いていなかった。
ヨナスさんは、蓋を閉めた。閉めるのに少し手間取って、それから工房へ帰られた。帰り際に、扉のところで一度止まって、何か言いかけて、やめた。
やめたのが分かった。分かったが、こちらも呼び止めなかった。
◇
戸締りをしてから、もう一度、椅子に座った。三枚の鏡の前で、わたくしは母の櫛を出した。峰から三本目と四本目の歯がない櫛だ。
ほどいて、梳いて、結い直した。一。右の下から取る。二。左の下から取る。三。右を上にして、うなじの上で交わらせる。
欠けた隙間に、二本が別々に入る。四つ目を、わたくしは自分で見つけた。母が線一本で止めたところだ。輪を載せて、留めを差した。
上がった。
この形に、名前はない。
院の台帳には、名の欄が空いたまま、二行だけ載っている。上が母で、下がわたくしだ。名前のないものが在る、と書いてあるだけの二行だ。
それで足りる。
五年後に、王家の形をどうするかが決まる。決めるのは院で、結えるのはゾフィー様お一人で、その方はそのとき七十六におなりだ。
わたくしは、鏡の中の自分の後ろを見た。
見えている。
母は、これを見ずに逝った。祖母も、たぶん見ていない。三代のうちで、自分の後ろを見たのは、わたくしが初めてになる。
【結い手の覚え】名を付けると、それは名のある形になります。名のないままで残せる場所は、台帳に一行だけできました。
お読みいただきありがとうございます。
五年後の話を、わたくしはまだ引き受けておりません。




