神絵師の腕を食べる会(2)
「本日、残業なし……と」
空の色が橙色から群青へと移ろう頃合い。
仕事を終えた稲荷は、いそいそと荷物をまとめた。
退勤後は、SNSコミュニティのオフ会に参加する予定だ。白色症例のクラスタだ。
偶然コミュニティに参加できた稲荷は、たまたま本日プライベートでオフ会に行くのである。
SNSを見るとオフ会参加者たちが活発にメッセージを交わしている。その中には、常盤と一緒に聞き込みをした少女、夏海のアカウントもあった。
夏海のアカウントは、オフ会に向けて「神絵師の腕を食べたい」というメッセージを投稿している。
ネットのイラスト界隈には、『神絵師の腕を食べると、絵がうまくなる』という言葉がある。
他の絵師の腕への羨望と嫉妬がないまぜになった言葉だ。
「怪異事件だからなあ。本当に食ったりして」
稲荷はスマートフォンを閉じて歩き始めた。
人の流れに紛れて霞ヶ関駅の改札を通る。
日比谷線竹ノ塚行、東京メトロで十八分。目的地までは、そう遠くない。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
オフ会の会場は、雑居ビルの五階にある。
壁には古いイベントのチラシが何枚も貼られていて、下の階のメイドカフェの呼び込みの声がかすかに届いている。
レンタルスペースの扉の前で夏海が佇んでいるのを見つけて、稲荷は息を整えた。
「夏海さん……でしたっけ」
「え? あっ……刑事さん。なんでここに?」
「奇遇ですねえ!」
稲荷は自身のスマートフォンを見せた。正確には、オフ会に参加しても怪しまれないよう、イラストを投稿したSNSアカウントを。
「きつね? 刑事さんって可愛い絵、描くんだね」
「稲荷です。稲荷三郎……」
「三男だった?」
「次男です」
「あたし、遅刻しちゃって。中が盛り上がっててさ。入りにくいんだよね。なんか変な感じだし」
「変?」
夏海は「しーっ」と人差し指を立て、細くドアを開けて中を示した。
覗き込むと、会場には簡素な長机と折りたたみ椅子が並び、メンバーが集まっている。
ドアを開けて覗き込んでいるのに、中に集まっているメンバーはこちらを気にする様子もなく、床の一点を見つめていた。
「……なんかやってる」
そこにいるのは、縄で縛られ、横たえられた中年の男性――SNSで顔出しして女装してポーズを撮ったりしておもしろおじさんキャラとして認知度を上げているイラストレーターの男性だ。
「んう! んん! んんーっ!」
自由の効かない全身をよじり、充血した目を恐怖でいっぱいにして唸っている。
そういうプレイ、ではないだろう。
稲荷は夏海と視線を交わした。夏海は「どう思う?」と囁いてくる。
どう思うも何も。
「神絵師様……」
ご馳走を前にして涎を堪えきれない。そんな声が会員たちの口から零れた。
いかれてる。
見た限り、誰ひとりとして、まともそうに見えない。
血走った目。半開きの口。床へ落ちる涎。
「この腕を食えば……」
「うまくなれる……」
正気の沙汰ではない。
「ははあん。夏海さん。僕が思うに、こいつら、いかれてますね。やばいですよ」
「やっぱり」
「夏海さん、ここにいるとよくないことに巻き込まれます。離れましょう」
「や、やばいよね。やっぱり。警察とか」
「僕が警察です」
そういえばそうだった、という顔をした夏海の手を引き、稲荷はドアを閉めて駆けだした。閉める間際、室内であり得ない景色が見える。
青年を中心とした地面が真っ白な蟻地獄のように牙をむき、集まっていた全員を飲み込む光景だ。
それを見た瞬間に、稲荷の脳裏にかつて兄と交わした会話が思い出される。
『三郎。人間を食べたら病気になっちゃうんだって。プリオンっていうのが怖いんだよ』
ひとを食べようとして祟られる。
このクラスターは、そういう『因習村』的な怪異に巻き込んでくる。
白色症例の背景を知る稲荷は、そう推測した。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
「はぁっ、はぁっ、は……」
走る。走る。逃げている。
何がなんだかわからない。とりあえず、おかしい。
夏海は悪夢を見ている気分だった。
この建物の内部だけが秋葉原の夜から切り離され、別の層に沈み込んでいく。そんなふわふわとした解像度の低い悪夢だ。
悪夢のくせに匂いがするし、転ぶと痛いし、走っているとき特有の呼吸の苦しさや疲労感がある。なんだこれ。
しかも、ずっと走っているのに外に出られない。
壁のポスターは何度も同じものを見た。
通り過ぎて駆けて、階段を下りて、また同じポスターに出会う。ループしてない?
自分たちの靴音と呼吸の音がうるさい。
ひとりじゃないのが、ちょっとした救いだ。
あんまり頼りにならなそうな刑事さんだけど。
だって、なんかひょろっとしていて、草食系って感じ。あんまり強くなさそうだもん。
――もう、しんどい。
ギブアップしたい。
夏海は限界を迎えつつあった。
呼吸は荒く、汗まみれで、ふらふらだ。何より、精神的なショックが大きい。
ストレスフルだ。SNSで愚痴ったら共感がいっぱいもらえそう。
今までの夏海の人生では、周囲から「つらかったら無理しなくていい」「難しいことには挑戦しなくていい。気楽に、疲れないように生きていい」と言われてきたものだ。
少子高齢化社会で夏海たちは貴重な未来を担う子供で、社会の宝だ。でも、社会はストレスがいっぱいで生きづらく、子供の自殺率が高いのが問題視されている。
だから、大人たちは子供に言うのだ。
ストレスを感じるなら無理にがんばらなくていい。
嫌なこと、つらいことから逃げていい。目を逸らして楽しいことだけに浸っていい。
我慢しなくていい。そのうち技術が発展して、AIがどんどん便利になって、努力も労働もいらなくなるよ。
趣味のイラストですら、自分で描かないのが当たり前になるかもね、なんて――ああ、ストレスが特大だ。
まるで自分の体ではなく棒のようになってきた足を無理やり働かせているうちに、夏海は足をもつれさせた。
「きゃっ!」
部屋のドアの下の隙間から白い液体がじわりと這い出し、牙を生やして威嚇しているのが見えて、ぞっとする。
「夏海さん、しっかり。うぇっ、なんか上から垂れてきた」
夏海を支えた稲荷が微妙に緊張感のない声を零す。
その頬を、上から滴る液体が濡らしていた。白い液体だ。稲荷は嫌そうに顔をしかめながら、夏海を抱えるようにして壁際に移動した。
四方八方、見える範囲全ての隙間から、生臭く白い液体が染み出てくる。
床を這う液体と歯列は刻一刻と二人を包囲する。同時に、複数の足音が遠くから近づいてくる。
追いつめられた格好だ。このままでは。
「夏海さん……」
稲荷が震える夏海に顔を寄せた。
その手はコートの内側に手を差し入れられて、何かを引っ張り出す。
藍染めの風呂敷だ。
「……なに、それ……」
青年は余裕のある微笑みを浮かべていた。
「夏海さん」
優しく、穏やかで、とても普通な感じで。
それがなんだか状況にそぐわなくて、気味が悪い。
「――僕と、契約しませんか」
背骨の奥を冷たい指でなぞられたような感覚に、夏海は息を詰める。
その耳には、複数の足音が聞こえていた。




