神絵師の腕を食べる会(3)
それにしても生臭い。
血のようであり、腐った牛乳のようでもある。そんな得たいの知れない液体は稲荷を囲み、表面に無数の歯茎と歯を生やして、一斉に食らいつこうとしていた。
稲荷は退路を下がるように視線を彷徨わせ、壁と同化するほどにぴたりと背を寄せる。そこに、救いの声が降ってきた。
「稲荷!」
「……常盤先輩!」
稲荷が怪異に囲まれている通路に駆けつけてきたのは、黒いコートを靡かせる常盤だった。
その手には黒い拳銃が携えられている。後方からは、武装した処理班も突入してきた。
特殊ライトが一斉に照射されると、一面の白が揺らいで逃げていく。
「……助かりました」
稲荷は弱弱しく呟き、咳をひとつした。
喉奥から熱いものがせりあがってきて、苦い味が溢れて零れる。血だ。稲荷はふらりと倒れこんだ。
血相を変えた常盤が稲荷を抱き起し、何事かを叫んでいるが、限界を迎えた稲荷の耳には判別できない。表情は見ものだったが、異能に削られた体力は暢気な鑑賞を許してくれなかった。
「疲れているだけです。少し寝れば治ります……」
正義感で暴走した新人巡査が言うべき言葉はなんだろうか。疲弊して意識を手放しそうな脳をもうひと稼働させて、稲荷は青臭く悲壮に言ってのけた。
「常盤先輩。あの子を探してください。僕、途中まで一緒に逃げていたんです。きっと、生きて……」
かくしてこの夜、白色症例に関連する怪異事件が事件簿に追加された。
行方不明者、七人。うち一人は、生きている。隠している犯人は……。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
血を塗ったように赤い鳥居が、闇の中にぽつんと浮かんでいた。周囲は音も風もなく、世界がそこだけ切り取られたようだ。
見通しの効かない暗闇の視界を、ひらり、はらりと桜の花弁が舞っている。
稲荷はそこをくぐり、暗闇の中で風呂敷包みを捧げた。
「一人、確保しました。他は……間に合いませんでした。せめてこの子だけでも助けてください」
懇願する響きに応じるように、闇の中に光が咲く。
黄金が滲み、闇の輪郭を舐め取る。次の瞬間、尾が揺れた。
太い狐尾がふぁさりと揺らされると、それに誘われたように布の中から少女が転がり出る。物理法則を無視した奇妙な光景だが、少女――夏実は目を開けた。その腕には、もう白い色はなかった。健康な肌だ。
「……ここ、どこ? あたし、何してたんだっけ……」
稲荷は数歩進み、振り返って微笑んだ。
少し心配そうで、けれど安堵している――そんな顔だ。
このお兄さんは優しいひとだ。夏海はそう思った。
「夏海さん。ここは、安全な場所ですよ」
「そう……なの?」
「あなたを助けられてよかった。代わりに、お願いごとがあるんですけど……」
遠くから光が近づいてきて、人の気配が濃く感じられる。彼女を探す捜索隊だ。
闇が和らぎ、狐は溶けるように消えていく。
「見つかりました! 見た限り怪我もなく元気そうですが、念のため救急車の手配をお願いします!」
稲荷は喜びと安堵の伝わる叫び声を捜索隊に聞かせてから、少女を祓った狐へと感謝の言の葉を捧げた。
「ありがとうございました」
はらり。
人の明かりに照らされながら、桜の花はやわらかに地面へと舞い降りた。




