准教授のゼミナール(4)
稲荷准教授のゼミに関わるようになってから、どれくらいの期間が経っただろう。
夏の名残みたいな湿った空気の中、その日、俺は赤い紙を手に研究室を訪れていた。
予期せぬ紙は、変化の集大成のようだった。
あれから、世の中は急激に変わっていった。あの村人たちの変な儀式を邪魔した(?)せいじゃないといいんだが。
あの村人たち、なんか、生贄を捧げようとしてたと思うんだよな。
生贄が逃げたから、失敗したんじゃねえかな。
世界は平和じゃなくなった。
ガソリン代が上がった。配達のバイトはなくなった。
コンビニの棚は、時々スカスカになった。
ニュースでは、遠くの国の名前や地名の名前が繰り返された。
封鎖、報復、制裁。危機。恐慌。そういうありがちな言葉とか、軍国主義とか、「昔のことだよな」「アニメでよくあるやつだよな」って出来事が次々と身近なものになった。恐ろしいことだ。
日本は憲法を変え、戦争に積極的に参加した。
スマホを開けば、オンラインの世界は混沌としている。
『政治の話うざい』
『楽しい話だけ見たい』
『徴兵くるぞ』
『食料やばいって』
『現実逃避してる場合じゃない』
『現実の話する人、気持ち悪い』
スクロールするまでもなく、濁流のようにトークが流れ去る。一瞬見えた気になる発言を見返そうにも、埋もれてしまって見つからない。
しかも、トークログは管理され、間引きされたり特定の主張が目立ちやすくなっている。
そして、日本の至るところに『敵陣営』の攻撃が届き、建築物は破壊され、ひとは殺される。どこにいても、いつ突然死ぬかわからない。そんな国になった。
気付けば俺は第三次世界大戦の枢軸国の成人男子として、徴兵の赤紙を受け取っていた。
大学に休学届を出し、稲荷准教授に赤紙を見せると、准教授は顔色を失った。
「三郎君、その紙は……」
恩師がショックを受けてくれるのが、少し慰めになった。
俺の故郷はしばらく前に核を落とされていて、実家の両親や親族とは連絡が取れなくなっていた。
友人も、何人か死んだり徴兵されたりしている。
「先生。しょうがない。どうしようもない。俺はそう思います」
「そんなことない。そんなことないよ、三郎君」
歯磨きを忘れて虫歯になるように、少しずつの何かが積み重なっていって時代が変わってしまった。
きっとこうならない方法はあったのだろうが、それができなくて、こうなってしまった。
それは、個人のレベルではない。けれど、今まで生きてきたひとりひとりの、ちょっとしたことが全部集合して、全体の流れができて、ここに至った。
そんな感じだ。
俺が頭を下げた瞬間、スマートフォンが警報を発した。
心臓が凍てついた手でぎゅっと握られたような心地がする。ミサイル警報だ。
窓の外が、一瞬だけ白く光る。
ドオン、という腹の奥に鈍く響く音が遠くから響いたのは、一拍置いてから。窓ガラスがびりびりと震えた。
起きている出来事を理解する間にも爆発が起きている。
終わっていない。続いている。続いている。続いている。
「きゃあああああああ!」
「落ち着いて! 落ち着いて!」
廊下から悲鳴と怒号が聞こえる。
非常ベルがけたたましく鳴り響く。アナウンスが避難を呼びかけている。
「三郎君」
稲荷准教授が俺の腕を引き、「避難しよう」と呻いた。
手に家族写真と祠を抱いている。
彼のお気に入りのミニチュアの祠は、息子たちが夏休みの自由研究で作ったらしい。
緊急事態なのに、そんな知識が頭を駆け抜ける。人間の脳って不思議だ。逃避の一種か。
廊下を走り、地下フロアに向かって階段を降りようとする。
すると、爆発の光が閃いて視界を明るくした。近い。
ひときわ大きな悲鳴が起きる。
「三郎君、伏せろ!」
轟音と衝撃がした。俺は必死に地面に伏せた。
地面が大きく揺れた。死ぬかもしれない、と思った。
焦げ臭いし、煙がすごい。火事だ。どこかが燃えている。
耳がじんじんする。世界が音でいっぱいになってしまったみたいに騒々しくて、しんどい。
「立てるか、三郎君!」
稲荷准教授に肩を掴まれて、はっとする。
「……はい」
声が出たかどうかも曖昧なまま、引き起こされる。
眼鏡にヒビが入っている稲荷准教授が頼もしく見える。
脚が自分のものではないかのようにガクガクする。自分を叱咤して無理やりに動かす。
進行方向で、防火扉が閉まりかけている。
取り残されたら死ぬ気がして、ゾッとした。
「急げ!」
「死んじゃう、死んじゃう」
「殺される……!」
パニック状態の騒然とした空気が、吐き気を催す。
嫌だ。逃げたい。逃げている最中だ。
いや、そうではなくて、俺はもっと根本的にこの現実を拒絶したいんだ。
もっと、普通に安穏と命を脅かされずに誰かとくだらない話をしたりしたいんだ。
くそが。くそが。くそが。
考えてもしょうがない愚痴と悪態と願望で頭がいっぱいになるのは、精神の安定を保つためか。
また地面が大きく揺れて、天井が軋み、崩れてくる。
「三郎君……っ!」
やばい。
そう思った瞬間、俺は前方に突き飛ばされた。
「わ、あっ……!」
床を転がり、手をついて起き上がる。そのすぐ後ろで、ぶわっと埃や煙や礫を伴う熱波が吹く。
振り向くと、防火扉があちらとこちらを隔絶するところだった。
閉じる隙間の向こうに、稲荷准教授がいる。
彼は崩れた天井の下に脚を挟まれ、うつ伏せに倒れこんでいて、頭からは血を流していた。
両手がこちらに向かって突き出された姿勢だ。
俺の背中には、その手に突き飛ばされた生々しい感触が残っている。
「い、稲荷先生……」
閉まる。閉まる。扉が閉まる。
防火扉が閉まる寸前、俺の目に稲荷准教授が微笑んだのが映った。
唇が動いていた。声は聞こえなかった。
何と言ったのか、わからなかった。
ぴったりと扉が閉まり、その姿が見えなくなる。
俺は周囲にいる人間も騒音も、わからなくなった。頭がひどく混乱して、動揺していた。
「あ……、あ……」
困る。
扉を閉めてはいけない。
だって、向こうにまだ先生がいるから。
救急車を呼ばないといけない。
だって、先生は怪我をしていたから。
爆音が続き、地面が振動する。世界が揺れていて、俺は立ち上がれる気がしなかった。
震える手でスマートフォンを操作して、救急車を呼ぼうとする。
その思考の隅に「絶対、もうだれか呼んでる」とか「手が回るはずがない」とか「トリアージ」という言葉が次々と浮かぶ。そして、「呼んでももう遅い」という恐ろしい考えも。
救急車は119だ。119。119。119、119、119。
何度かけても、つながらない。
そうか。つながらない可能性は考えなかった。そうか。
嘘だろ。つながれよ。命かかってんだぞ。
俺が狂ったように電話をかける傍らには、彼が抱えていたミニチュアの祠が転がっていた。
それがふと光った気がする。
俺はぜえぜえと肩で息をしながら、それに手を伸ばした。
遺品、という言葉が思い浮かんで、自分の思いついた言葉におかしいくらいダメージを受ける。
でも、そういうことだろ?
今、そういうことが起きたんだよな。
指先が痺れている。脚も痛い。
耳は何かに塞がれてしまったように世界の音を遠ざけている。
呼吸が苦しい。目が熱い。視界が歪む。
だって、どうしようもないだろ。
助からないだろ。救急車だって、つながらないじゃん。
どうするんだよ。なにができるんだよ。どうしようもねえよ。
熱い涙が両目から溢れて、頬を伝って顎に流れる。
涙はぽたぽたと垂れて、俺はガキのように声をあげて泣きじゃくった。
図体はでかくなったのに、俺は無力で、情けない思いでいっぱいだった。
「なんでっ、学校なんて、狙うんだよ。なんもしてねえよ。殺すなよ。やめろよ。やめろよ。やめろよ」
ミサイルを落としているのは、無人機だ。
人が乗っていても、こんなところでみじめに泣きじゃくる俺の声なんて届かない。
ぽたり、ぽたり。
ミニチュアの祠に涙の黒い染みが増えていく。
情けない。ああ、情けない。
俺が絶望に打ちひしがれていると、変化が起きた。
「え」
……変化は、起きたのだ。
祠は、もう一度光った。
俺の涙が作った黒い染みは急速に広がった。
俺が瞬きして目元を拭う間に、黒い何かはぶわりと広がり、風呂敷包みのように伸びて、俺を包んだ。
気づけば俺は、異次元としか言いようのない空間へと移動していた。
まるで宇宙のようにぽっかりと黒い空間だ。
星はなく、泡がふつふつと浮いている。
そこに、神がいた。
故郷で、そして、あのクニタチノ村で崇められていたのと同じやつだ。直観的に、そう思った。
そいつは稲荷准教授に似た姿をしていた。
だが、明らかに別ものだ。
俺はその姿に「故郷で崇めていた神だろう」と確信した。
故郷に伝わる話だと、そいつは自分にとって思い入れのある人物の姿に見えるのだ。
だから、俺には准教授に見えたんだろう。
「かみ、さま……」
俺は故郷から逃げ出したが、俺の一族はこの神様に代々仕えていた。
母親はよく子供だった俺に「うちらの一族には神様がついている。うちらはご加護に感謝して、お祈りをたくさんするんだよ」と教えてくれたものだった。
それを思い出した俺は、故郷に伝わる作法でやつを拝み、礼を尽くして、祈った。
「稲荷准教授を生かしてほしい。第三次世界大戦が起きない世界にしてほしい」
彼にそっくりな顔で、俺の神様は微笑んだ。
ああ、神様はきいてくれた。もう大丈夫だ。
助かる。みんな助かるんだ。
そう思った時、神様はふわふわとした泡を作り、俺の近くに飛ばしてきた。
何だろう、と思っていると、泡は俺の目の前で俺の故郷を見せた。
空襲で山が燃えていた。煙と炎の勢いがすさまじい。
俺の知っている故郷の人たちは祠の周りに集まり、木を伐採して祠を延焼から守ろうとしていた。そして、炎や煙にやられて倒れていった。
巫女だった母親も、煙に撒かれながら神聖な舞をおさめ、ふらついて倒れる。
母親は朦朧としながら手を合わせ、祈った。
「三郎をお守りください」
ああ……神様はそれで俺の前に顕れて、助けてくれたんだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
意識が遠くなる。
「そして、俺が次に目覚めると……、別の世界にいた」
常盤神護は、煙草の火の始末をしながらバディを見下ろした。
「え」
常盤神護の声に、稲荷三朗は瞬きをした。
気付くと自分は座り込んでいて、目の前には常盤がいる。
兄のなりすましがいた位置だ。
「こんな世界だった」
常盤が低く唱えると、周囲に世界の映像が浮かぶ。
緑と白キノコが都市を侵食している。
スカイツリーと思しき高い建造物がもっとも巨大なキノコと化していて、そこから白い胞子が降っている。
どこからか桜の花びらもはらり、ひらりと降っていて、上空は都市に蓋をするように、黄緑色のドウム・バリアが張りめぐらされている。
バリアの外には暗雲が分厚くどんよりと垂れこめていて、黒い雲とバリアの間に、赤い太陽が炎を纏って燃え盛っている。太陽は時折、赤い火の玉を地上に向けて落としている。しかし、黄緑色のバリアに阻まれている……。
「あ……」
稲荷はだんだんと夢から覚めた気分になった。
そして、わかってきた。
先ほどまで自分だと思っていたのは、自分ではなかったのだ。
目の前にいる不機嫌そうな男が見せた、おそらく彼の過去の記憶なのだ。
「僕と名前が同じなんですか? 神護って、偽名なんです? なんかキラキラネームだと思ってた」
「俺の本名はどうでもいい」
常盤はコンビニの前で時間つぶしする不良学生のようにしゃがみこみ、稲荷を睨みつけながら話をつづけた。
「俺が飛ばされた世界は、年号が霊環八年だった」
「れいわ」
そんな年号は知らない。稲荷が覚えていると、常盤は苦虫を嚙み潰すような顔で続きを語った。
「霊環八年は未来の世界で、そこの人たちが言うには稲荷准教授は第三次世界大戦で死ななかったが、息子が神卸しをして世界を滅ぼした際に亡くなっていた」
なるほど、なるほど。
稲荷は頷いた。
ちょっと何かが掴めてきた感じがする。とても複雑で理不尽なことだが。
「常盤先輩、僕、発言してもいいですか?」
「なんだ、言ってみろ」
講義中の学生のように手を上げて訊ねると、常盤は顎を引いて発言を許可してくれた。
思うに、この先輩は誤解している。
この先輩だけではない。霊環の人たち、みんなが。
「神卸しをして世界を滅ぼしたのは、僕の兄だと思います。僕は兄を止めようとしているんですよ」
世界を滅ぼしたとか、失礼なことだ。
稲荷は怒りを感じた。
僕が可哀そうだ。断固としてこの誤解は正さないといけない。
「僕は世界を救おうとしてるんです。本当に酷い誤解ですよ。謝ってもらいたい」
常盤に向かって人差し指を突き付けると、彼は意表を突かれた顔になった。
その目が珍妙な生き物に出会ったような困惑ぶりなので、稲荷は留飲を下げた。
そして、空腹に気が付いた。くう、と腹が切なく鳴いている。
「さあ、元いた世界に戻してください、常盤先輩。詳しいお話は、ラーメンでも食いながらしましょう。もちろん、先輩の奢りでね」
常盤は善良だ。稲荷はそれを確信していた。
道徳の本などを渡してきたのは、世界を滅ぼす予定のヤバい奴な僕が「俺の干渉でまともにならないかな」と期待していたのだろう。できれば恩師の息子を殺さずに世界が救えたらいいと思っていたに違いない。
強気な態度でニコニコしていると、常盤は気味悪そうにしつつ、元の世界に戻してくれた。
つまり、この黒い空間というのは、彼の神による異能のようなものがなせる異空間なのだろうか。
詳しいことはわからないが、あなたの能力や知識は僕にとって便利すぎるのではないか、常盤神護さん?
僕はあなたを味方に引き込み、能力を活用したくてたまらないぞ、先輩?
元いた平征八年と思われる東京の都市風景が戻ってくる。
ここは――湾岸?
こちらの世界だと、船上が銃撃されて海に落ちたはずだが、どうなっているのだろう?
とりあえず、腹ごなししながら状況を把握していこう。
大丈夫だ。何事もなせばなる。
稲荷は笑顔で手を差し出した。
「先輩。僕たち、一緒に世界を救おうじゃありませんか」
大切なのは、世界を滅ぼそうとしているのではなくて救おうとしているという事実だ。
その思いを双眸に込めてバディを見つめると、彼は迷ったそぶりをしてから、手を取ってくれた。
握った手は、温かかった。
遠くで花火が上がっている。
――何の変哲もない、ただ綺麗なだけなショー・花火だ。
稲荷は常盤の手を力いっぱい握りしめ、花火を見上げた。
無害で無駄な光が夜空を照らして消える様は、儚くも華やかで明るく、色彩豊かで、美しかった。




