神絵師の腕を食べる会(2)
実働七時間四十五分。本日、残業なし。夕焼けの名残がビルの硝子に薄く映り、空の色が橙色から群青へと移ろう頃合いだ。
退勤後の予定、あり。
仕事上がりの時間が本命――そんな人間は多い。例えば、オフ会に参加する少女たちも、SNSを見るとフォロワー同士で活発にメッセージを交わしている。通報者は、聴取に応じてくれた女子高校生のSNSアカウントも教えてくれていた。
「……」
神絵師の腕を食べると、絵がうまくなる。
ネット上で見られる、他の絵師の腕への羨望と嫉妬がないまぜになった言葉がオフ会参加者の間で交わされている。普通の会合ならば、神絵師が奢りの食事会か、絵の練習会といったところだろう。
駅前では西武バスの出入口で仕事帰りの人々が列を作っている。車の流れは絶えることがなく、蟻の行列のようだった。
黒のハイネックの私服にグレーのロングコートを羽織った稲荷は人の流れに紛れ、駅の自動ドアをくぐった。
改札を通りホームに上がると電車が到着したところだったので、そのまま乗り込んだ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
オフ会の会場は、秋葉原駅から少し離れた雑居ビルの五階にある。
エレベーターの扉が開くと、薄い蛍光灯の光が廊下を青白く照らしていた。
壁には古いイベントのチラシが何枚も貼られ、端がめくれている。
階段の方からは、下の階のメイドカフェの呼び込みの声がかすかに届いた。レンタルスペースの扉の前で見覚えのある少女が佇んでいるのを見つけて、稲荷は息を整えた。
「夏海さん……でしたっけ」
「え? あっ……おじさん」
「え、おじさんって僕のことだったんですか? そりゃないでしょう」
思い違いに気づきつつ、稲荷は素早く夏海に近寄り、自身のスマートフォンを見せた。正確には、オフ会に参加しても怪しまれないよう、イラストを投稿したSNSアカウントを。
「きつね? おじさんって可愛い絵、描くんだね」
「稲荷です。稲荷三郎。お兄さん」
「三男だった?」
「次男です」
夏海は水玉柄のネイルに彩られた手で内緒話の形を作って囁く。
「あたし、遅刻しちゃって。中が盛り上がっててさ。入りにくいんだよね。なんか変な感じだし」
「変?」
声量を抑えたのは、夏海が細くドアを開けて中を示したからだ。
会場は簡素な長机と折りたたみ椅子が並び、メンバーが集まっている。オフ会特有の着飾った感じと、香水の混ざり合う匂いがした。
ドアを開けて覗き込んでいるのに、中に集まっているメンバーはこちらを気にする様子もなく、床の一点を見つめている。そこにいるのは、縄で縛られ、横たえられた青年だ。
「神絵師様……」
ご馳走を前にして涎を堪えきれない。そんな声が会員たちの口から零れる。
見た限り、誰ひとりとして、まともそうに見えない。
血走った目。半開きの口。床へ落ちる涎。
「この腕を食えば……」
「うまくなれる……」
「オモイカネノカミノミツカイサマ……」
正気の沙汰ではない。
夏海の背中を氷の指でなぞられたような感覚が走る。
こいつら、いかれてる――マスコットを両手で縋るように抱きしめて、夏海は後ずさる。稲荷はその耳に唇を寄せた。
「夏海さん、ここにいるとよくないことに巻き込まれます。離れましょう」
「や、やばいよね。やっぱり。警察とか」
「僕が警察です」
そういえばそうだった、という顔をした夏海の手を引き、稲荷はドアを閉めて駆けだした。閉める間際、室内であり得ない景色が見えた。
青年を中心とした地面が真っ白な蟻地獄のように牙をむき、集まっていた全員を飲み込む光景だ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
この建物の内部だけが秋葉原の夜から切り離され、別の層に沈み込んでいく。
建物内を出口目指して駆けること数分。
二人は一向に出口につくことなく、建物内に閉じ込められていた。
壁のポスターは何度も同じものを見た。空調のファンが回る音と二人分の靴音と呼吸音だけが聞こえる。
他の人間の気配はない。
照明は消えて、窓の外の都市のネオンが不自然に明滅し始める。その光がひびわれた壁に反射していて不気味だ。
夏海は限界を迎えつつあった。呼吸は荒く、汗まみれで、ふらふらだ。何より、精神的なショックが大きい。
「きゃ、きゃあっ!」
夏海が悲鳴を上げて足をもつれさせる。
部屋のドアの下の隙間から白い液体がじわりと這い出し、牙を生やして威嚇したからだ。
夏海を支えた稲荷の頬を、上から滴る液体が濡らす。天井埋没型の空調から滴る白く生暖かい液体だ。生臭いそれは、じゅっと音を立てて頬を焼いた。奥歯を噛みしめ、稲荷は夏海を抱えるようにして壁際に移動した。
四方八方、見える範囲全ての隙間から、白い液体が染み出てくる。
床を這う液体と歯列は刻一刻と二人を包囲する。同時に、複数の足音が遠くから近づいてくる。
追いつめられた格好だ。このままでは。
「夏海さん……」
稲荷は震える少女に顔を寄せた。その手はコートの内側に手を差し入れられて、何かを引っ張り出す。
藍染めの風呂敷だ。
稲荷の指先が生地に触れた瞬間、どこか懐かしいようなざわつきが胸の奥に広がる。
兄さん。
稲荷は心の中で、怪異の元凶となった兄の姿を思い浮かべた。
金色の粒子が布の表面にふわりと浮かび上がり、藍染めの招き稲の紋へ吸い込まれるように流れていく。模様は静止しているはずなのに、見ていると、深い海の底が呼吸しているようにゆっくりと脈動していた。
夏海の目は、生き物のような風呂敷に釘付けになった。目が離せないのに、見てはいけないものを見ている気がする。
「……なに、これ……」
呟きに応えるように、風が唸るような声が、風呂敷から聞こえてくる。
――オモイカネノカミノミツカイサマ……。
「僕です」
声が成した言葉と、耳元で告げられた内容に、夏海のうなじがぞくりと粟立つ。
「あ……、……」
密着する距離の青年をこわごわと見ると、青年は余裕のある微笑みを浮かべていた。優しく、穏やかで、守ってくれそうで。けれど、それが今は恐ろしい。
『――僕と、契約しませんか』
背骨の奥を冷たい指でなぞられたような感覚に、夏海は息を詰める。
その耳には、複数の足音が聞こえていた。




