7話、准教授のゼミナール
『兄』が巨大な線香もどきを揺らす。
すると、暗闇に3つの泡が生み出された。
泡はひとを飲み込めるほど大きく育ち、ふよふよと寄ってくる。
触れれば壊れそうな泡だが、さすがに揃って直進してくるのは気味が悪い。身の危険も感じる。
稲荷は距離を取ろうとして、ぎょっとした。
いつの間にか両足首に大きな蛇が巻き付いている。
蛇は「動くな」というように牙を剥く。
「ひっ」と悲鳴を上げた瞬間、泡沫のひとつが衝突する。
生暖かいゼリーのような感触だ。それが、稲荷の全身をぐんにゃりと飲み込んだ。
ぐんにゃり、ふよふよ。
痺れたような感覚が全身を浸し始める。
眠気がうぞうぞと湧いてくる。
うぞうぞ、ぞぞぞ。
指先、瞼、唇、耳。
体が重く怠くなって、何もわからなくなっていく。
眠い。境界が曖昧になる。
何の境界だ? 自分と、自分以外と。
怠い。疲れてしまった。
何に? 自分が、自分でいることに。
溶けていく。
何が?
わからない。わからない。
わから
七、准教授のゼミナール
マイクを通した男性の声が響いている。
「文字に残されない名もなき人々の生活や心を明らかにする。それがこの学問の目的です」
学内外でイケメンと名高い稲荷和尭准教授の声。うっかり寝てしまっていたようだ。
俺は「働きながら学べるから」と夜間主コースのある大学に通っている。
だが、講義中はつい眠気と疲労に負けてしまいそうになる。金と時間がもったいないよな。
ノートを見ると、眠気が文字を歪ませていた。
もともと、字は綺麗ではない。実家では、躾に厳しい母親によく「丁寧に書きなさい」と叱られていたものだ。
親と喧嘩して飛び出した実家の不快な記憶をペットボトルの緑茶で流すようにしていると、稲荷准教授に「あとで研究室に来るように」と指名されてしまった。
居眠りを咎められるのだろう。
俺は顔をしかめてペットボトルの蓋を閉めた。
単位は取らないといけない。なので、逃げるという選択肢はない。
さっさと謝ってしまおう。
俺は肩紐がくたびれたダークグレーのナイロン製リュックを背負い、研究棟へと足を向けた。
研究棟は苦手だ。
通路の隅に花束やパック飲料が置かれていて、数ヶ月前にあったストーカー事件の被害者の影のようなものが薄ぼんやりと見えてしまう。
代々神事に携わる家に生まれた俺には、先祖譲りの霊感がある。
といっても、ろくに何もできない役立たずの霊感だ。泣いている霊を成仏させてやる方法は知らない。
目的の部屋の前に来ると安心した。ノックをすると、返答がある。
「失礼します」
「うん。いらっしゃい」
研究室は、煙草の匂いがする。
戸を開けてすぐ本棚があって、回り込まないと奥が見えないのが、秘密基地っぽくていい趣味している。
本棚を回り込むようにして、細い隙間から中に入るとノートパソコンや資料ファイルが仕事中の雰囲気を醸し出すデスクと椅子があって、稲荷准教授がいる。
デスク上には、卓上カレンダーと煙草の吸殻入れとミニチュアの木製の小屋のようなものが置かれていた。
卓上カレンダーの日付は、招輪二十九年四月十五日。
ミニチュアの木製の小屋のようなものは、実家の祠に似ていた。
「……?」
その祠を見た瞬間に、まるで自分が泡につつまれているような奇妙なイメージが脳裏をすぎる。
瞬きすると消えた。その程度の、ほんの刹那の幻覚だ。
――何だ? 今の。
消えたはずなのに、皮膚の内側に感触だけが残っている。
稲荷准教授は、俺の様子を見て首を傾げた。さらさらの茶色い髪が流れて、照明を反射して艶を放っている。ちょっとした所作が目を惹きつける、存在感の独特なひとだ。
「どうしたんだい?」
「あ、いえ。なんでもありません」
ぞくりとして思わず腕を摩ってから、俺は稲荷准教授に頭を下げた。
先週は社会学でもこれをした。
レポートが間に合わなかったのだ。
「親からの仕送りがなく、バイトで余裕がなくて。都会暮らしにも慣れてなくて」――そんな風に謝ったら「夜間主コースには生活や仕事で疲れ切った状態で学ぼうとしている学生はよくいる」と言われた。
言い訳するな、と。
でも、そんなことを言いつつ、レポートを遅く提出しても単位をくれることになったので、言ってみるものだ。
なんだかんだ言って、学校はバイトとは違う。こちらは金を払っている、ある意味「お客様」なのだ。
「バイトで疲れてた?」
「あ……はい」
「そんなときもあるよね。僕もこの前、会議で爆睡したよ。ばれなかった」
稲荷准教授は悪戯に成功したような微笑を浮かべてから、ずり落ちかけた眼鏡を指で持ち上げた。
そして、プリントを差し出した。
「夏休みのバイトももう決まっているの?」
「ああ、いえ……」
プリントに視線を落とすと、ゼミ生向けと思われる民俗学のフィールドワークの説明が書いてあった。
俺はゼミ生ではないが?
疑問に思っていると、稲荷准教授は長い人差し指でプリントの隅を示した。
記録係のバイト、と書いてある。バイト?
「三郎君、アンケートでバイト、いくつか掛け持ちしてるって書いてたよね。飲食店のフロアスタッフに配達員、ホテルのベッドメイク、清掃、動画編集……」
「そうですね。俺、飽きっぽいのと不愛想でなかなか続かないですけど」
「バイト歴コレクターかと思ったけど違うんだ? いろいろな現場を経験してるのは強みだよ。で、声をかけたんだ。よかったら記録係のバイト、どう?」
なんだ、バイト歴コレクターって?
何をやっても向いてないだけなんだが?
なんかいきなり名前で呼んでくるし。
しかし、報酬はいい。
「君、講義前に配ったアンケートに霊感があるって書いてたよね」
そういえば、眠気半分に書いたかもしれない。だって、「ありますか?」って質問形式だったから。
わざわざ嘘をつく必要もないよな。
「それが何か?」
「今回のテーマ、ちょっとそういう話に触れるから。主観でもいいから記録が欲しい。どう感じたか、どう見えたか。そういうの」
なるほど?
改めて説明を見ると、山奥の怪談スポットとか、背筋が寒くなるような場所に行くのだ。
嫌がるひとが多そうなワケアリバイトじゃないか。
それならこの報酬も納得だ。
いいかもしれない。
交通費も出るし、飯も食えると書いてあるし、山は好きだ。
「じゃあ、……バイトさせていただきます」
稲荷准教授は「よかった」と目を細めた。
「あと、三郎君さ。名前が同じなんだよ、息子と」
その声は、父親らしさのある大人の優しい声だった。
実家の親父には、こんな風に笑いかけられた記憶がない。
それなのに「父親ってこんなのだよな」とすとんと腑に落ちる感覚があるのが不思議だ。
理想の父親像みたいなものがあるのだろうか。
卓上に飾られた家族写真は、不平等の象徴のようだった。
この稲荷准教授の息子はきっと幸せな家庭で何不自由なく健全に育つ。
そんな予感が醜い嫉妬心を掻き立てる。
あまり考えこむのも怠いので、やめておこう。
「……ありがとうございます、稲荷先生」
「当日はよろしくね」
俺が頭を下げると、稲荷准教授もぺこりと頭を下げた。
そして、その動作で眼鏡がずり落ちて、慣れた様子で手で受け止めている。緩いのか。直せばいいのに。
でも、他人のことなんて気にする価値ないだろう。
その労力は自分の現在と未来に向けるべきだ。
今日はこの後、建設現場で肉体労働の予定。終わったら睡眠をとって……どこかへ帰らないといけない。どこだっけ。
そもそも、俺に帰る場所なんて、あっただろうか。
今俺はどこにいて、何をしようとしていて……そもそも、俺は何者だったのだろうか。
「……変だな、なんか」
きっと疲れているのだ。
俺は、とりあえず足を前に出した。歩いていく。
歩いていく。歩いていく。




