白、赤、緑、黒、なりすまし(2)
もう一度確認しようとするが、文字は止まらない。次々と新しい文が上から流れてくる。
「うーん。チャット? なんだこれ……」
変な名前ばかりだ。
指でコメントをなぞったりスクロールを試みて失敗していると、再び折り鶴が急かしてくる。頬を突かれて、稲荷は眉を下げた。
「……あ、ごめん」
黒い折り鶴が、呆れたようにこちらを見ている気がした。こっちはこっちで何なんだ?
折り鶴が飛んでいくので、稲荷は慌てて後を追った。
「……は? 商店街のど真ん中に鳥居があるんだけど……」
しばらく進むと、視界の先に黒い影が現れた。
鳥居だ。しかも、色が漆黒。
幽世――いつも稲荷が仲間と出入りしている境界の感触に近い空気を、肌で感じる。つまり、そういう場所に違いない。
「……ここから帰れたり?」
呟くと、黒い折り鶴は肯定するように上下に動いた。
折り鶴と意思疎通する日が来るとは思わなかった。まあ、帰れるならありがたい。
安堵して一歩踏み出しかけた時、嫌な予感が背骨をなぞった。
「待ちなさい」
ダアン――
女の声に続き、重い銃声が物騒に空気を揺らした。反射のように肝が冷えて、危機感に体が沈む。
一瞬前まで上半身があった空間を、凶弾が通過する。
頬の皮膚が引き攣る――反射的に地面に伏せてよかった。『また』やられるところだった。
……そうだ。僕は今、殺されかけた。『また』襲われているんだ!
動物的に危機回避してから一拍置いて事態を理解する。
鼓動が一気に跳ね上がる。
すぐ動ける体勢を取りながら睨む先には、金髪の女が立っている。
長い脚。無駄のない動き。片手に銃を構え、まっすぐにこちらを見据えている。
殺意しかない……いや――なぜか恐怖に似た感情も滲んでいるな?
怖いのはこっちなんだが?
「稲荷三朗。あなたは本当に気味が悪くて邪悪ね。何を考えているのかしら」
「撃たれるのは嫌だなとか、初めて話すのに随分ひどいことを言うんだなとか考えています。自分が言われたら傷つくことをひとに言わないでほしいな。教育の敗北というか想像力の欠如ってやつだと思うんです」
「何を被害者ぶっているの、この極悪人!」
「えっ、僕は一方的に撃たれて拉致された被害者ですが……」
意外とまわる自分の舌に鼓舞されながら立ち上がり、相手の動きを警戒する。
「どれだけの人間が焼かれたと思っているの。あなた一人で、何万人分の命を踏み潰したのよ」
「何の話ですか? あの、人違いだとおも……」
「あなたの話は聞いていないわ!」
「えっ、僕の話じゃないんですか?」
まったく会話が成り立っている感じがしない。これはわかりあえない相手だ。
そういえばだれかさんが「あの女にはふられた」とぼやいていなかったか。
女の趣味が悪すぎる。
女の背後には、何人か仲間らしき人間が集まっている。
くそ、多勢で武装しやがって。こっちは丸腰でぼっちなのに。
再び銃口が上がる。
そのとき、黒い折り鶴が強く腕をつついた。
『行け』
「んっ……?」
声が聞こえた気がした。
驚く間もなく、折り鶴は女に向かって飛んでいく。まさか、小さな紙の体で時間稼ぎでもしてくれるつもりなのか。じゃあ、遠慮なく僕は逃げるぞ。
鳥居はすぐそこだ。稲荷は駆けだした。鳥居に滑り込む刹那、後ろ髪引かれて振り返る。
ぐしゃり。
女が折り鶴を払い落し、ハイヒールのつま先で踏みにじる光景が見えて、一瞬、足が止まりかける。胸の奥に苦いものが広がる。
「…………ありがとう……」
黒い紙片が、地面に押し潰されて動かなくなる。
それを網膜に焼き付けるようにしながら、稲荷は異世界を後にした。
鳥居をくぐると、安全な場所に潜り込んだ感覚に包まれる。
異質で何かがズレている、そんな幽世に移動した感覚と共に、鳥居が消える。数秒前までいた世界が消えて、真っ暗な世界になる。
あの鳥居は、おそらく、稲荷を助けようと誰かが作ってくれた門だったのだ。
おそらく女がここまで追ってくることはないのだろう。
「……くそ……」
あんな紙切れが潰されたからなんだっていうんだ。ショックを受けることないじゃないか。
僕ってやつは繊細だな。それに、善良なんだ。
優しいんだよ、僕は。だから折り鶴なんかにも情が移ってさ。
……だから……ムカつくな、あの女。
一方的に捲し立てて。暴力的だし。ムカつくよ……。
ああ、煙草の匂いがする。
残り香のようなそれが切なく思えるのが、嫌だった。
なんだか、理想のヒーローはこうじゃない、と感じる。格好いいやつになり損ねた。そんなみじめな、負け犬っぽい感じがして、腹が立った。
ここに導いてくれたのが味方なら、きっと元の世界に戻る門があるはず。
稲荷は見知らぬ空間を見渡した。真っ暗な空間だ。何も見えない。
否――見えた。
「え……」
稲荷は双眸を最大限まで見開いた。
「にい、……さん……」
呼んだ瞬間、ぞわりと総毛立つ。
『それ』は、ひと呼吸するほどの時間ののちに、こちらを見た。
そこにいたのは、兄だった。
記憶にあるのと同じ少年姿で、死神のようなローブを纏い、死神の鎌のようなものを引っ提げ、棒状の何かを持っている。ばかでかい線香に似ているが、灰が落ちない。燃えている気配もない。
それでも黒煙だけが線香の先端から噴出している。しかも、煙が発するのは線香の匂いではない。
折り鶴と同じ匂いがする。つまり……。
これは兄さんではない。
なんとなく。なんとなくだけど、兄さんは、『白』だ。これは『黒』だ。
あと、兄さんはこんな匂いしない。
理解が追いつかない。思考がまとまらない。
稲荷にわかることは、何かが兄の形をして自分の前に立っている、ということだけだった。




