稲荷三朗を殺す会(3)
船内では揺れをまったく感じなかったのに、デッキに出ると船体が大きく揺れているように思えた。
実際、船はゆっくりと上下している。視覚でもはっきりわかる。
湾岸の灯りが黒い水面に細く揺れる。
低いエンジン音と人々のざわめきが水音とほどよく溶け合い、潮風が心地よかった。照明に煌めく長い金髪が見える。英語の会話も聞こえるので、外国人にも人気らしい。
夜の海。都市の人工光群。船上の時間。
暗闇は本来、人に恐怖や不安を呼び起こすものだ。
それでも、こんな夜には胸が高鳴る。
――人間は技術で夜を飼い慣らしたのだ。
隣では、冬山が手すりに肘をつき、夜景を眺めている。まるで映画のワンシーンのように絵になる立ち姿だ。
「ポエミーなことを言ってもいいですか、稲荷さん」
「なんでしょう」
その言い方で「だめです」と言える人間が、どれだけいるだろう。
断られるとは思っていないに違いない。
稲荷は、小さな反発を微笑の奥に押し込めた。
ありがとうございます、と笑う冬山は、夜景に引き立てられているように見える。
「オレ、小さい頃からこの夜景が大好きなんです。ビルって四角い箱みたいでしょう。穴がいっぱいの宝石箱のようで。東京ってほら、ギラギラしてるっていうか、いろんな才能が集まって鎬を削ってるでしょ。宝石を集めた都市なんだなって……」
「冬山さん、そういう言葉がすらすら出るの配信向きですね。素晴らしいと思います」
ここで環境問題とか電力の無駄使いとか話したくなる僕は、もしかすると冬山さんと相性がよくないのかもしれないな。
稲荷は冷めた目になった。
「ははっ。オレ、配信好きなんですよ。小さい頃から賑やかなのが好きで」
「ふふ。僕は静かなのが好きでした」
死んだ魚のような目で微笑すると、冬山は嬉しそうに頷いた。
おそらく、冬山にとって会話とは「リズムよく会話している」という事実が大事なのだ。
「刑事さんとこんな風に気安く話せるようになるとは思ってなかったので、なんか嬉しいです」
――まるで、とても気が合う友人になったみたいな顔してる。
稲荷が冬山を持て余していると、スピーカーから、花火開始のアナウンスが流れた。
デッキに集まっていた人々が海の向こうへ視線を向ける。背後から夜風に乗って煙草の匂いがする。
次の瞬間、夜空が白く弾けた。
ドン、と低い音が響いて、光が咲いた。青い花火だ。
続いて赤い黄色い花火が広がり、海面に同じ光が揺れる。ドン、ドン。夜空を彩る光が増えていく。
散っても咲いて。落ちても上がって。
「稲荷さん。花火始まりましたよ」
「綺麗ですね。動画撮ろうかな」
冬山と並んで夜空を見上げながら、スマートフォンを掲げる。誰かの靴音がひとつ、すぐ背後で止まった。背中に何かが押し付けられる。
ドン、ドン。打ち上げの音が聴覚を支配する中、前触れなく衝撃が走った。後ろからだ。
背中を巨大な拳で殴られたような衝撃に、息が詰まる。
次の瞬間、口の中に鉄の味が広がる。慣れた味……血だ。
あれ、と思った。
僕、風呂敷を使っていないのになあ。
鮮血を吐きながら、稲荷の身体は前へ弾かれ、手すりを越えた。
――落ちる。
視界が大きく傾き、指先が空を掴む。
「稲荷さん!」
冬山の絶叫が聞こえる。
夜空が赤く弾ける。その光の中で、視界が反転した。
黒い海面が迫る。
全身が海水に叩きつけられて、ようやく理解した。
――ああ、さっきのは銃声か。
海上の光が遠ざかる。
沈んでいる。
沈んでいく。
沈みながら、「撃たれたんだ」と思った。
何者かが稲荷を撃ち、稲荷は血を吐きながら船から転落したのだ。
――大事件じゃないか。大変じゃないか。
息が続かない。苦しい。
水が、冷たい。嫌な感じだ。どこかに引きずり込まれていく。
ごぼ、と水泡が口から溢れて、上へと昇っていく。
吐いた息と決別して、身体と意識は重く痺れたように沈んでいった。




