稲荷三朗を殺す会(2)
現実逃避気味にグループチャットを開くと、秋穂が撮った動画が共有されている。
『みんなでポチをシャンプーしました』とシャンプー中の動画には、秋穂の母親と夏海のおばあちゃんもいた。
どこか家族的な賑わいの動画は日常の象徴めいていた。数分前に自分が乗っているセダンが怪異を轢き飛ばした、なんて情報をこのログに混入するのが申し訳なくなる。
稲荷:皆さん楽しそうですね、僕はさっき怪異をセダンで轢きました。正確に言うと常盤先輩が轢いたんですけど
チャットを送信するときに「動画が撮れていたら」と考えてしまった。SNS中毒だ。
チャットアプリから呟きアプリに表示を変えると、夏海が新しいイラストを投稿していた。稲荷は「いいね」を押した。七氏も「新曲です」と投稿をしているので、「いいね」を押す。秋穂は「お母さんが最近まともになってきた」と投稿している。「いいね」。
アカウント名はミラノ婚ドリア大臣だ。匿名いいね係である。
――僕は影で応援してメンバーを褒めて伸ばすリーダーなんだ。ふう。
稲荷は自分の善行に酔いしれることで現実逃避をした。奇怪な現実を気にしすぎると病む。目を逸らして心を守るべし。稲荷なりの精神防衛術だ。
何事もなかったように走り続け、セダンは予定どおりの港の駐車スペースに滑り込んだ。
「着いたぞ」
「あ……お疲れ様です」
少し開いた車窓から海沿いの夜風の潮っぽさが感じられる。
「冬山さん、杉山さん。到着したようですが……」
呼びかけると、眠っていた二人がもぞもぞと目を擦る。
「あれ、オレ寝ちゃってたんですか。いつの間に……」
「おかげで体調がよくなりました」
二人は霊障もなく、元気だ。杉山は顔色もよくなっていた。
幽霊が出たことは黙っていてあげよう。僕は優しいな。稲荷が自己陶酔する中、全員が外に出て、冬山が車のドアを閉めようとした――その瞬間。
「うわあああああああああああああ‼︎」
冬山の悲鳴が、夜の駐車場に破裂した。
稲荷は思わず肩を跳ねさせる。
「ど、どうしたんですか冬山さん」
「む、虫‼︎ 虫‼︎ 虫が‼︎」
冬山が地面にへたりこみ、震える指が車内を指す。
稲荷は覗き込み、息を呑んだ。
虫だ。一匹、二匹ではない。
シートの隙間から、ドアポケットの奥から。
甲虫のような硬い殻を持つ、米粒ほどの白い虫がぞろぞろと湧き出している。
「ひっ」
稲荷が冬山杉山もろとも青ざめて後ずさる中、常盤は運転席から降りて殺虫剤を中に噴霧した。
シューッ。
「な、なんか現実的な対応ですね。身もふたもないっていうか」
「虫には殺虫剤だろう」
車内に遠慮なく噴霧される殺虫剤特有の匂いが潮風の風情を台無しにする。怖いもの見たさで中を覗くと、虫は殺虫剤に負けていた。
しばらくして常盤はスプレーを中に放り、ドアを閉めた。
「……帰り、この車乗るんですか?」
稲荷が青い顔で聞く。
「港の管理に電話する。清掃かレッカーを呼ぶ」
冬山が激しく頷いている。
「賛成です。全力で賛成です」
普通なら今日の予定は全部中止だ。
だが冬山は現実逃避するように海に浮かぶ白いクルーズ船を見上げた。溺れかけた人間が浮き輪を見つけたときのような目だった。
「早く乗りましょう。船の中は明るいですし、ひとも多いですし。美味いもん食って忘れちゃいましょう。ここまで来てキャンセルしたら負けるみたいで悔しいですし!」
早口で言うと、冬山は港のほうへ歩き出した。キャンセルしたら負け。そういう考えはなかったが、言われてみれば確かに悔しい。意地でも楽しんでやろうという気が湧いてくる。
それに、ピンチはチャンスだ。冬山と仲良くなってやる。
稲荷は冬山の隣に並び、勇ましく声をかけた。
「僕がついています冬山さん! 一緒に楽しみましょう!」
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
「冬山さんはよくこういう場所に来るんですか? 僕は初めてなんですが、カップルがいっぱいいますね」
「オレは子供のころからクルーズディナーが好きなんです。じいちゃんがよく連れてきてくれたんで」
「へえ……」
「稲荷さん。ここ、プロポーズプランとかもあるんですよ。ロマンチックでしょう」
腕を組んだカップルが幸せそうに笑っている。
「けいくん、誘ってくれてありがとう。これで三回目だね。大好き!」
「みよちゃんのためなら百回でも二百回でも予約取るよ。今夜は特別な夜にしよう」
甘ったるい声だ。稲荷は毒づいた。
「いいですね、格差社会を感じます。こっちは幽霊轢いて車が虫まみれになった後で人生初のディナーという超特別な夜の真っ最中ですよ」
「稲荷。声に出てるぞ」
「出してるんです」
常盤の指摘に笑顔で答えて、船内へと向かう。
桟橋に停泊している船は白くライトアップされ、船体の窓からは暖かい光がこぼれている。
タラップを上がると、スタッフが丁寧に頭を下げた。
中は広いが、ひとが多くて混み合っている。
レストランには白い円型テーブルと椅子のセットが並んでいて、控えめなピアノの演奏が流れていた。
壁一面の窓から黒い海と無数の光を咲かせる都市風景が見えて、怪異の怖気が一秒ごとに薄らいで明るい気分で染め変えてもらえる。
「なるほどなあ。冬山さんは慣れているからこの空気を知っていたんですね。いるだけでどんどん陽気になっていく感じがしますよ」
「ふふふ。いい場所でしょう。稲荷さんもこれを機にクルーズにはまってください」
「あはは……」
お坊ちゃん。僕には彼女もいなければ贅沢する金も余裕もないんですよ。
笑顔の裏で毒づきつつ、稲荷はメニューを見た。
メニューに書かれているシャルキュトリーとかビアシンケンという単語が全くわからない。
バーニャカウダはぎりぎり……わからない。
ナヴァラン、メリメロ? もはや呪文だ。
「お飲み物はいかがなさいますか」とスタッフが尋ねる声に背筋が伸びる。
「白ワインを」
冬山が迷わず言う。
「同じものを」
常盤が続けた。
稲荷は一瞬だけ迷い、答えを出す。
――やめておこう。
酒は弱い。少しでも酔えば思考が鈍る。
今夜は冬山を勧誘する大事な席だ。ここで判断力を鈍らせるわけにはいかない。
「……ジンジャーエールで」
店員がうやうやしく頭を下げて去っていく。
運ばれてくる料理は見た目が美しく、写真映えがする。
どういう料理なのか正体不明だ。ひとまずスマートフォンで写真を撮り、グループチャットに共有した。
稲荷:見てくださいこの前菜
夏海:うわあああああああああ‼
七氏:飯テロ
秋穂:ポチが画面を覗き込んでいます
いい反応だ。稲荷はメンバーに癒された。
ついでにテーブルマナーもこっそりと調べる。ナイフとフォークは外側から。
周りを見ると、冬山はもちろんだが、常盤も慣れている様子で所作が美しい。稲荷は居心地の悪さを得体のしれない料理と一緒に飲み込んだ。味は緊張のせいか、よくわからない。美味いような、そうでもないような。自分が今なにを食べているのかがわからないので、不気味な心地がする。
「常盤先輩、こういう場所に慣れてるんですか?」
「昔、仕事の接待で何度か来た」
「え、接待でクルーズディナーですか? 陰陽師の?」
「俺は陰陽師ではない」
それとなく気になっていた点をつついてみたところ、陰陽師ではないらしい。
じゃあ何なんだ。いい機会だ。酒が入って口が滑らかな今、不明点を聞いてみようじゃないか。冬山がいても気にしなくていいだろう。どうせ彼は僕の味方にするんだ。
「先輩はなんで幽霊を殴ったりするんですか? 処理班のひとは皆さん霊感があったりするんですか?」
「稲荷。職務に関する話を公共の場でするな」
「霊感の話くらい……」
いいじゃないか、と口を尖らせると、冬山は「幽霊の話は嫌ですけど、幽霊を祓う能力には興味があります」と遠慮がちに加勢してくれた。
――いいぞ、冬山さん。もう味方じゃないか。
「常盤さんは恩人ですし。配信でも幽霊をどうやって祓ったのかリスナーが気にしてたんですよ」
「あまりそういう話をネットに拡散しないでくれませんか、冬山さん」
常盤は軽く肩をすくめて、「俺は実家が神社なんだ」と教えてくれた。
「わあ、なんだか特別な生まれって感じがしますね。それで霊感があるんですか!」
冬山がはしゃいだ声を上げている。
「オレ、怪異は苦手だけど神様にはご縁がほしいんですよ。なんか縁ができた感じがして嬉しいです!」
――冬山さんよかったですね。僕は縁なんていらないのに神だかよくわからないものに縁が深くなっちゃったんですよ。ぜんぜん嬉しくなかったんですけどね。
くさくさした気分を胸の奥に押し込み、笑顔のまま新しく運ばれてきた料理にフォークを入れる。
正体不明の緑色の粉をまとった肉だ。
なんだ、この粉は。
ゲロみたいな味がしたらどうしよう。
口に合わなかったときに備えて粉だけ先に舐めてみるか?
「……あ、美味い」
稲荷は目を瞬かせた。
「美味い。これは美味い。やばい。これ、美味いやつだ」
語彙は崩壊していたが、とにかく美味かった。
満足して顔を上げると、同席者たちが微笑ましい生き物を見るような目でこちらを見ている。
「稲荷さんのお口に合ったようでよかったです。これ、美味いですよね」
冬山がにこにこと頷く。
稲荷はわずかに気恥ずかしくなり、咳払いして話題を変えた。
「食後は海上花火もあるんでしたっけ。楽しみですよね。冬山さん、見に行きましょう。先輩は喫煙所で煙草吸っていただいて」
グラスの氷が小さく鳴る。
常盤は「そうだな」と頷いた。
これでこのあと冬山と二人きりになれる。
最高じゃないか。
稲荷はうまくいきそうな見通しに機嫌を良くし、緑の粉をまとった肉をもう一口味わった。
相変わらず何の肉でどんな調理法で粉が何なのかはわかっていないが、料理は美味かった。




