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東京禁胞区  作者: 朱音ゆうひ@4月1日新刊発売!
一章、龍神の代償

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5話、稲荷三朗を殺す会


 稲荷三朗の昼休憩は、基本的に一時間ある……ことになっている。


 だが現実では、三十分座っていられれば上出来だった。

 電話は鳴るし、呼び出しもある。空き時間に素早く腹を満たすのは、必須技能だ。

 

 稲荷はデスクの上でカップ麺のふたをめくった。

 

 第三資料室は、怪異絡みの案件を押し付けられる部署にしては、特別なものが何もない。

 何度も祟られ被害が出ているのに危険手当すらもらえていない。全体的に説明不足で、都合よく働かされている駒という感覚が強い。不満は多いが、怪異を追う稲荷としては折り合いがつけられる現状だった。

 

 キーボードの隣に置いたスマートフォンには冬山スノウマンのSNSアカウントが表示されている。


 冬山スノウマンの案件は解決したのに、稲荷三朗は未消化な気分が抜けなかった。

 SNSで冬山の配信や投稿を確認してはコメントを書き込む日々だ。もちろんSNSアカウントは本名ではないので、身バレの心配はない。


冬山スノウマン:この間はガチで怖かった! 刑事さんのおかげで助かったんですがもうだめかと思いましたよ!

ミラノ婚ドリア大臣:冬山さん、もう一回祠いきません?

冬山スノウマン:二度は無理っすね……!


「変なアカウント名だな。ミラノコン?」

 

 いつの間にか背後に立っていた常盤が、肩越しにスマートフォンを覗き込んでいる。

 長身なので、肩越しに覗くだけで覆いかぶさる形になる。稲荷は慌ててスマートフォンを伏せた。手遅れだが。

 

「これはミラノ風ドリアとミトコンドリアをかけているんですよ……っというか、断りなく背後に立ってスマホを見ないでください。プライバシー侵害です」

「ミラノ風ドリア?」

「まさか知らないなんて言わないでしょうね」

  

 軽く首を横に振り、常盤は書店の紙袋をデスクに置く。紙袋の中に『道徳』『小学』という文字が見えた。

「やる」

「いらないです」

 紙袋を押し付け合っていると、鈴木室長が声をかけてきた。結局、心安らぐ休憩時間は二十分もない。

 

「先日の冬山スノウマンの件だが……本人から連絡が来ている。先日の件のお礼がしたいそうだ」


 せっせと荒らしまがいのコメントをしたおかげだろうか。何事もやってみるものだ。

 小さく拳を握る稲荷を、常盤が冷ややかな目で見ていた。

 

「夜景クルーズディナーに招待したいそうだ。費用は全額向こう持ち」

「夜景クルーズを奢り? 配信業ってそんなに儲かるんですか」

「実家も太いらしい」


 なんとも羨ましい話。稲荷は遠慮なく奢られることにした。

 いそいそと組織のグループチャットに「冬山さんに奢られてきます」と自慢した。


 

   五話、稲荷三朗を殺す会

 


稲荷:冬山さんガチで金持ちです、僕は今高級車に乗ってます

夏海:ずるい‼ 夜景クルーズ⁉ 写真いっぱい撮ってきてください‼

七氏:奢り案件か。いいな

秋穂:夜の海は気をつけてください。あのあたり、昔から妙な話が多いので

 

 メンバーの反応に満足してスマートフォンを閉じた稲荷は、そこでふと妙なものに気づいた。


 ドリンクホルダーの横にある収納スペースに、殺虫剤のスプレーが入っている。

 祠で祟られて虫が湧く幻覚に悩まされていたせいだろう。


 首都高を走る高級セダン。そのハンドルを握っているのは、スーツ姿の初老の運転手だ。しばらく走ったところで、その運転手に異変が起きた。


「……あの、坊ちゃん」

「どうしたんだ、杉山?」

「大変恐れ入りますが、わたくしの体調が、いささか……」

「具合が悪いのか?」

 

 杉山と呼ばれた運転手は不調を訴え、速度を落として非常駐車帯に車を寄せた。

 これは緊急事態ではないか、と稲荷は声をあげた。


「救急車を呼びますか?」


 後部座席から身を乗り出して訊ねると、杉山は青い顔のまま首を横に振った。


「いえ……救急というほどでは。ただ……妙な感じでして」

「妙?」

 冬山が眉をひそめる。

「実は、わたくし少しばかり、霊感がありまして……」

 杉山は言いづらそうに言葉を選んだ。

「この辺り、最近『出る』という噂があるそうで……その、霊障ではないかと」


 なんだって、と冬山が血相を変える。


「ちょ、ちょっと待て杉山。ここ、そういう場所なのか?」

「噂程度の話ですが……」

「噂でも十分だろうが!」


 冬山は慌てて車窓の外を見回した。

 首都高の高架の向こうに、夜の海とコンテナヤードの灯りが流れていく。

 だが、そのどこかの暗がりに何か潜んでいるのではないか――そんな顔だった。


 ここで「僕が運転しますからヤバい一帯を駆け抜けちゃいましょう」と言えば、恩が売れる。

 稲荷はそう思って口を開きかけた。だが一瞬早く、常盤がシートベルトを外す。


「クルーズの時間もありますし、俺が運転しますよ」


 職務中はいつも僕に運転させるくせに、こんなときだけ善人ぶる機会を奪わせてたまるか。

 稲荷は殊勝な後輩スマイルを浮かべ、常盤の腕を引き留めた。


「常盤先輩。僕が運転しますよ」

「何を企んでいる?」

「え?」 


 じろりと向けられた目は、なぜか危険人物を見るそれだった。なぜだ。

 どちらかと言えば、突然バールを振り回して怪異をぐしゃぐしゃに粉砕した先輩のほうが、よほど危険人物ではないか。


「お前は道徳の本を読んでいろ」


 常盤はそう言ってドアを開け、車外に出た。夜の首都高の風が一瞬だけ車内に流れ込む。

 稲荷は大げさに身を震わせ、冬山に目を向けた。


「今のどう思います、冬山さん? パワハラに該当するかな? 訴えるときにドライブレコーダーを証拠として使ってもいいです?」

「おふたりは仲が悪いんですか?」


 常盤は運転席に滑り込み、シート位置を軽く調整した。


「杉山さん、後ろで休んでてください」


 エンジン音が低く唸り、セダンは再びゆっくりと走り出した。


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 セダンは再び本線に戻り、流れる車列に静かに合流した。


 しばらく走り、車がトンネルに入る。

 すると、空気が変わった。


 車内温度は変わっていないはずなのに、ひやりとする。トンネルの照明が一定の間隔で流れていくのが、どことなく不気味だ。


 稲荷は何気なく車窓の外を見た。刹那、白いものが視界の端を駆け抜けた。


「……っ」

 なんだ?


 布のような、服のような、ひらりとした白いもの。人影のようにも見えたが。


 同乗者に「今の見ました?」と確認しようと首をめぐらせて、稲荷は自分たちが異変のただなかにいることを確信した。


 冬山も杉山も、シートに頭を預け、目を閉じている。

 呼吸は規則正しいが、数秒前まで霊障に怯えがちに話していたのが急に熟睡するなんて、明らかにおかしい。


 これ、起こしたほうがいいのか。

 それとも寝かせておいたほうが幸せなのか。


 運転している常盤先輩に声をかけるべきか?

 いや、下手に声をかけるより、このまま一気に駆け抜けてもらったほうがいいのではないかな。


 稲荷が結論を出したタイミングで、常盤がぽつりと呟いた。

「……通せんぼのつもりか」

 なんだって?

 稲荷は前方を見て素っ頓狂な声をあげてしまった。


「うぇっ?」


 先ほど見た白いものが、走行中の車の前方に立っている。


 長い髪。

 だらりと垂れた腕。

 そして、白いワンピースを着た怪異だが、稲荷は怖さとは別の点で激しく動揺した。


「待って待って待って待って。貞子」

「サダコって何だ、稲荷?」

「は? ホラー映画の有名なやつです! 井戸から出てくるやつ! でもあいつマッチョマンに見えるけど」


 前方で待ち構える貞子はマッチョマンだった。

 肩幅が広く、脚も腕もたくましい。

 白いワンピースの下、どう見ても筋肉質な体つきだった。


「なんでマッチョの男が白ワンピで貞子ごっこしてるんですか」


 意味がわからない。

 意味がわからないが、車の前に立っている。

 距離はもう、数十メートルもない。


 稲荷は半ば錯乱気味に叫んだ。

 

「常盤先輩、サダマッチョです! あれサダマッチョですよ!」

「お前の言うことはよくわからんが、あれは実体があるな」

 

 常盤の声は淡々とアクセルを踏み込んだ。

 エンジンが唸り、車が一気に加速する。あっという間に白ワンピースの男がフロントガラスに迫り、衝撃とともに轢き飛ばされていった。

 

 車はあっという間にトンネルを抜け、稲荷は口をぱくぱくさせながら、フロントガラスを見つめた。

 常盤はハンドルを握ったまま、真顔で言う。


「実体がある幽霊は、物理でいける。サダマッチョは任せろ」 


 怪異は車で轢けるのか。

 稲荷は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。

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