第十二話:待ち人のために
憎しみに呑まれ、闇に落ちたカイルは、アイリスを誘拐した。
だが一方で、雉崎はその事に気付かずに家で待っている。
─────今までの、幸せな生活を思い返して。
「…………………。」
雉崎が空を見上げて、数十分。
彼の頭の中に、様々な事が浮かんだ。
─────初めて、この世界に来た時の事。
(想像していた世界とは違って、色んな人の悲しみを見たな。
他人の強さを見て、自分自身の弱さにも気づいたっけ。)
─────この家に、雇われた時の事。
(やけに綺麗な人達だと思ったな。
最初は気が強くて、もっと無愛想な人だと思っていたよ。)
─────仕事の事。生活の事。
(ジェネラリーゼ様に言われた条件は、今になっても出来ていないのに。
それでも、期間が近づいても。
あの人は、変わらない態度で接してくれた。
それに俺は、どんなに救われたかな。)
─────元クラスメイトの事。元の世界の事。
(今でもたまに夢に見る。
あっちの世界でも僕は何とか暮らしていたと思うし、死んではいなかったと思う。
でも、他の人が歩むような道は、絶対無理だっただろうな。)
─────そして最後に思い出したのは。
アイリスの事だった。
(あの人と関わって、一緒に生活をして。
自分が落ち着くきっかけを、彼女はくれた。
いつも側に彼女が居たから、何も無かった自分が、この世界で生きる理由を見つけられたな。)
初対面の、不愛想で他人行儀なやりとりも。
魔法の練習の時の、少し驚いた顔も。
買い物で見せた、えらく真面目な態度だって。
片時も、忘れた事は無い。
それほどまでに、大切な存在だ。
(…ああ。やっぱり。)
時間を過ぎても帰ってこない彼女に、心配になっている自分がいる。
もし何事も無くて単なる勘違いだったとしたら、自分はなんて恥ずかしい存在だろうと感じる。
なんとも心配性でおせっかいで、うざったい人間だと考える。
…だが。それでも。
あの人に会いたいという欲望は抑えきれない。
「すみません。ジェネラリーゼ様。
少し外出します。」
「え…?別に構わないけれど、今夜はアイリスと何かするんじゃなかった…?」
「…急用が入ったので。」
「あら、そう…。」
彼女の返事も待たず、雉崎は執務室の扉をばたりと閉める。
そして階段を駆け下り、リビングを通り、玄関を開ける。
もう日の落ちた寒空の中を、上着も羽織らず彼は駆けていく。
─────遠くに見える街は賑やかで、灯りがぼんやりと空に滲んでいた。
「はぁ…!はぁ…!」
息を切らし、肺が痛んでも。
彼はひたすらに街を駆けていく。
流れる明るい喧噪も、暗闇に落ちた静寂の中も駆けていく。
「はぁ…!はぁ…!ぁああ!!」
痛みを耐えきれずに雄叫びをあげ、それでも足を踏み出して。
笑ったアイリスの幻影を追いかけ、雉崎は進んでいく。
─────流れていく街角。いつもの路地裏。
ぽつんと明かりの灯った、酒屋と幾つかの宿屋。
そして閉店した肉屋と、仕事現場を通り過ぎ。
道の途中、その真ん中で。
ついに、彼は立ち止まる。
「……………………。」
吐いた息を再び吸い込み、酸素を循環させて。
雉崎はただ下を向き、佇んでいる。
言葉を発さず、その呼吸音だけを耳で捉え、
手をだらんと下げている。
…そして。
─────幸運か。それとも不幸か。
佇む彼の瞳には、白い包帯が映っていたのだった。
「これは…。」
道端に落ちている、結び目の緩い包帯。
指に小さく巻かれただけの、軽く小さい包帯。
雉崎の頭に、見覚えのある昨夜の記憶が蘇る。
”ありがとうございます。キジサキさん。”
─────穏やかな微笑を見せた彼女。
その当たり前の笑顔に心を揺さぶられ、惹かれた。
「…もしかしたら…!!違うかもしれないけど…!!」
雉崎は再び動き出し、道を進んでいく。
そして目指すその先は、暗闇に溶けた地下通路へと続く空洞。
辺りのレンガはツタに覆われ、地面はぬかるんで。
その入り口は、酷く汚染されている。
「…どこですか…!!アイリスさん…!!」
構わず暗闇に足を突っ込む。
暗視に適応しない眼球は雉崎の視界を黒く染め、実質的な視力を奪う。
だが。それでも彼は、何も見えない闇の中を走り続けていく。
「……………っ!!」
石でつまずいても関係なし。
真っすぐに伸びた直線路を朧げに捉えながら駆けていく。
時には生温い空気が肌に触れ、悪寒を示し、何処からか視線をも感じて。
一心不乱に、彼は跡を辿っていく。
「…はぁ…!!ぁあ!!」
そしてその終点、行き止まりまで来た所で。
…ついに。
─────雉崎はアイリスと共にいた、その。
小さな”彼”と、邂逅した。
「何で…?何で来るんだよ…?
しかも、よりにもよってお前が…!!」
「…キジサキ…さん…?」
カイルの隣には意識の維持ももままならず、倒れこんでいるアイリスが見える。
とうに雉崎の目は暗闇に慣れており、その姿ははっきりと彼の瞳に映っていく。
「何だよ…。これ…。」
白く染まった右肩。
血液が途切れ、患部は壊死しかけている。
そして徐々に体温が奪われ、冷え切っていく感覚に耐えながら、アイリスは青ざめた顔で雉崎を見つめた。
「助け…て…。」
途切れ途切れの篭り声。
吐ききった息は白く、周囲と自分自身の寒さを表している。
「お前は誰だよ…。
其処で、何してんだよ…?」
「誰って…。いいでしょそんなの…。
幸せな君には関係無い事だよ…。」
カイルは不貞腐れた心を取り繕いながら答えた。
彼の眼球は下方向に向いたままで、睨みつける雉崎の方を見ようともしない。
「どういう事だ…!?説明してくれ…!!」
「…うるさいよ…。アイリスさんの身体に障るじゃないか…。」
「……だから、何を…!!」
跪いてアイリスを見ていたカイル。
彼は我慢できかねる雉崎の怒声が響き渡るその前に、ため息をついて言う。
「…君が悪いんだよ。
君さえいなければ、僕はアイリスさんともっと一緒に過ごせたのに…。」
「は…?」
「アイリスさんと一番仲がいいのは僕だったのに…。
勇者なんていう分際で横取りして…。」
彼の顔には、溢れかえるような嫉妬が顔に浮かんでいる。
黒く濁ったクマと荒れた肌が皺を寄せ、引きつったような眉間を作り出している。
「もしかして…お前はアイリスさんの事を…」
「そうだよ…。
僕と一緒に居た方が楽しいに決まってるんだから…。
間違ってる事なんかさせられないよ…。」
「そんな…、そんな事で…!!」
紳士とはかけ離れた醜悪さを思い知らされる。
雉崎はカイルの思考を半ば理解できてしまうために、より彼の崩壊を感じ取れてしまった。
「大切な人と一緒に居たい事の、何が悪いの?
教えてよ…。ねえ…?」
「…分かった。教えよう。
それで、早くアイリスさんを助けられるなら。」
根拠のない自信。
彼はカイルに、勝てるはずもないと分かっている。
かつて天才と呼ばれた彼の過去を知らなかったとしても、目の前の蛇と化した右腕が物語っていたのだから。
魔法も体術もない彼は、どうしたって敵わない。
そんな十二分の自覚と覚悟を持って。
─────雉崎は、それでも態度を崩さなかった。
「君…。僕に勝てると、本気でそう思ってるの…?」
「…思ってるさ。
こんな酷い事してる奴に、負けるはずがない。」
故意に煽り文句を並び立てる。
似たもの同士の口喧嘩はまるで兄弟のようで。
少し背の高い雉崎の方が、大人びて見える。
「じゃあさっさと死んでくれないかな…?
今、いいところなんだから。」
「どうでもいい。早く終わらせよう。
今は、胸糞悪いんだ。」
冷徹な雉崎の言葉にカイルは著しく反応し、大蛇をくねらせる。
その顔は少し笑っていて、憎き恋敵の殲滅に喜び、震えているようだった。
「いい?
…じゃあ、始めようね…。」
「…ああ。」
雉崎は足を一歩、前に踏み出す。
そして拳を握りしめ、未経験の戦闘へと繰り出していく。
その一歩は戦いの合図。終末を知らせるゴング。
途方もない格差をそれでも彼が受け入れたのは、男としてのプライドだけ。
────戦いは、今。
始まりを告げた。
「…っ!!」
右に左に、蛇の胴体はうねる。
雉崎の喉元を掻き切ろうと追いかけ、地面に激突してはまた這い上がる。
蛇の主導者であるカイルはただ茫然と立ったまま、右腕を動かすだけ。
対して雉崎は避けては逃げ、必死にその攻撃を躱すだけで精一杯であった。
「クソっ…!!」
掠っただけで致命傷。
牙と突進の破壊力は凄まじく、泥とレンガの地面を粉々に砕いてしまう。
そしてそれを避けるため、雉崎は足を懸命に踏み進めていく。
「どうしたの…?
はやくおいでよ。」
雉崎の魔力は、動かない。
悲鳴をあげて擦り切れていく筋肉と荒い呼吸が身体を締め付ける。
柔らかいままの皮膚では地面との衝突には耐えられないようで、膝と肘、そして胴体のあちこちに擦り傷と打撲を負っていく。
「はぁ…!!ぁあ…!!
今行くから待ってろ…!!」
それはカイルに向けたものか。
雉崎は震える唇で静かに吠える。
距離は依然として縮まることはなく、身に刻まれた傷は増えていくばかりだ。
「…っ!!何で…!!近づけない…!!」
足を踏み出し、全力で走っても追いつかない。
────直進すれば死。迂回しても逃げるので精一杯。
興奮で無自覚な傷も、体をさらに疲弊させていってしまう。
「…君、属性が無いだけじゃなくて、魔法まで使えないの…?
そんなんじゃ戦いにすらならないよ…?」
そしてついに足を止めた雉崎に対して、耳を刺すカイルの言葉。
雉崎にはもう、聞き飽きた侮蔑と失望の声色が響く。
皆が当たり前に出来る事が出来ない苦しみを嫌というほど知り、報われない現実と戦って、そしてこんな肝心な時になっても、彼には開花する予兆も見られない。
────その間も大蛇は縦横無尽に空中を滑り、そしてマスターであるカイルの命令で動きを止めた。
「うるせえ…。」
戦いの際、雉崎の口調は変化している。
普段の大人しい敬語は形を無くし、無礼な傲語へと変貌している。
────初日、城で魔物に襲われた以来の危機であろうか。
それほどまでに雉崎は余裕のない、死に体となっていて。
もう勝負は、歴然であった。
「とっくにそんな事は分かってる…。
分かってんだよ…!!
勇者の癖に魔法の才能が無くて、見た目も実力も、伴ってないって…!!」
理不尽な怒りに呑まれそうになるのを必死にこらえ、雉崎はカイルを見る。
眉間に皺を寄せ、拳を握りしめて激情に駆られながら言葉を紡いでいく。
「だけどお前は…!!
俺はお前だけは、許せないんだよ…!!」
勇者として。
現実に見放された、不幸な人間として。
言わなければならない事を、彼は口にする。
「誰だって、嫌な目に遭えば悲しくなるんだ…!!
頭が痛くて、泣いて、何もする気が起きなくなって…。
長い時間落ち込んだって、後悔したって、治りやしねえ…!」
言葉を受けたカイルの脳裏に幾つもの苦い記憶が浮かぶ。
あの時に感じた痛み、苦しみ、悲しみが感情の雪崩となって思考を埋め尽くしていく。
「でも、それでも…!!
助けてくれる人さえいるなら、ちゃんと立て直せるんだよ!!
心が落ち着いて、穏やかになって、安心できるんだよ!!」
知っている。助けられた時の嬉しさを。
人生が救われた気になって。
この先の事態が全部好転したように思えて。
それで、裏切られたときの悲しみも、より一層知っている。
「…うるさい。黙れ…。」
「…それで!!よりにもよってお前は!!
自分を助けてくれた、たった一人の好きな人を…!!」
「うるさい…!!うるさい…!!うるさい!!!
やめろ…!!!」
”────何で、殺せるんだよ!?”
「ああああああああああああ!!!!!」
以前のカイルは、常に冷静だったのだ。
どんな状況下でも適切な解答を選ぶことが出来、事をなるべく穏便に済まそうと努めていた。
…けれど。
今の彼はもう、理性など全て吹き飛んでいるから。
抑えきれない衝動と怒りは、その魔力を突き動かしてしまった。
「─────蛇姦傷、”白夜”…!!!」
たった一言。それだけで。
現実は残酷に、能力差を如実に示す。
ほんの一撃で、勝敗は決してしまう。
………グサッ。
「…ぁっ…!?
ぁあ…。刺された、のか…。」
避けきれなかった雉崎の首元に刺さるのは、二つの牙。
紫色の液体が体内まで染み込み、侵食する。
そして彼の神経を麻痺させ、視界を奪い、彼を白くぼやけた世界へと誘っていった。
(痛い…。痛い…。痛い…。
…あれ…?何も、見えない…。)
あの、最初の犠牲者と同じ様に。
雉崎は力が抜け、膝立ちになる。
そして数秒後には重力に耐えきれず、うつ伏せとなって倒れこむ。
─────彼の神経と感覚は、とっくに麻痺してしまったのだ。
「…は。あはは。
無属性のお前なんかに、対処出来る訳が無いのに…。
まったく、惨めだなあ…。」
目は見えない。
触感も分からない。
心臓の鼓動が、遅くなっていくのを感じる。
まだ辛うじて残った聴覚だけが、カイルの言葉を脳に響かせていく。
「ぁ…ぁ…。」
…それでも。
地面に着いた拳をもう一度、握りしめた。
湿った土を掴み、砂利を爪の間に練りこんで。
もう無い感覚で、必死に立ち上がろうと藻掻く。
「もう無理だよ。あと一分くらいで君は死ぬんだから。
本当、こんな奴のどこがいいんだろ?」
冷静を装って、カイルは述べ立てる。
地面に這いつくばったまま、死にかけの虫の様に動く雉崎を眺め、蔑んで。
真っすぐに地に足をつけて見下ろしている。
「やめ……ろ……。」
「アイリスさん。
僕と一緒に逝こうね…?」
そして、ついに動きを止めた雉崎を背後に。
彼は後ろを振り返って、限界の近づく彼女を見た。
わざわざ遅効性の毒に魔法を置き換え、殺しもせず放っておいたわけは。
────永遠の愛を押し付けて、心中するためだった。
「嫌……。」
アイリスが口を開く。
もう避けられない運命と知りながら、面と向かって反抗する姿勢は変わらない。
それでも彼女は最後まで諦めずに、水の魔法で毒を必死に押し戻していた。
「何でそんな事言うの…?
僕は…、一緒がいいよ…。」
「嫌…。やめて…。」
掠れた声が響いている。
触れようとするカイルの手足を払いのけようとし、痛みでまたアイリスは悶えた。
「私…は…。」
ジクジクと迫る猛毒は心臓を高鳴らせ、呼吸を奪う。
そして彼女は死に迫る実感を身に覚え、遠のく意識の中で。
─────幾度もの、走馬灯を見たのだ。
(アイリス。君は、これからどうやって生きていくんだい?)
(アイリス。僕は行くよ。妹が、待ってるんだ。)
(アイリス。この村から、出て行ってくれないか…?)
(アイリス。アイリス。アイリス……。)
故郷の村、故人となった義姉弟、裏切った両親…。
その全てが彼女の、苦い思い出。
そんな時に側で支えてくれたジェネラリーゼの顔は、どんなに暖かっただろうか。
「私は…生きる理由なんて…。今までは無かったけれど…。」
受け入れてくれた彼女に恩義を尽くす、事務的な、
それだけの人生だったはずなのに。
…あの時彼が、来てしまったから。
「今は、死にたくないの…!!」
雉崎の顔が脳裏によぎる。
そして目の前で倒れている、生死を彷徨う本人が見える。
(…彼は、はっきり言って頼りないけれど。
そんな彼を、誰よりも支えたいのは自分だから…。)
もしかしたら雉崎はもう、独り立ちできるかもしれない。
異世界でも一人で生きていけるかもしれない。
だが、それでも支えたい自分がいる。
彼を支える事が、自分の生きる意味だったのだと実感する。
「もう二度と…!!
私も…!!大切な人を、失いたくないから…!!!」
…彼女は誰よりも生きたいと、そう、願ったのだ。
「魔力線…!!構築…!!」
瞬間、血潮がぐるりと躍動する。
白く染まった右腕の色が溶け、深青に沈んでいく。
裂傷が癒え、滑らかな肌が露出していく。
「どうして…。アイリス…さん…?」
目を見開くカイルの前で、アイリスは魔力線を展開する。
そして、その現実により。
力を取り戻した彼女は、本来の姿へと戻っていく。
「そんな…!?
いくら遅効性とはいえ、致死毒なのに…!!」
傷は全快し、毒は消え失せていく。
みるみるうちに魔力は膨れ上がり、限界値を突破した輝きを見せていく。
「カイル君…。
私は…、彼のために生きたいから…!!!」
アイリスはそう、呟いて。
隠していた力を、開放していく。
遥か昔に禁忌とされ、村を追い出され、孤独を貫いた力。
その、神髄を。
今、顕現させていく。
「─────魔力よ。青に沈め。」
未だかつてない、低音と共に。
循環する魔力は未知の物質と衝突する。
身体は青に。
心は透明に。
深淵のように遠い幽玄の現身へと、その姿を変えていく。
「流動。刮目。
母なる生命の泉へ、頭を垂れて。」
魔力の侵食は止まらない。
周囲に広がり、カイルの足元さえも液体に変える。
─────波打つ地面はあの時と同じ、”海”の魔法であった。
「信じ、崇め、語って。
衝動に駆られて私の救いを受け入れて。
…そして。」
”─────私の海に、飛び込んで─────。”
その、預言と共に。
海は、誕生した。
─────地下水道だったはずの暗闇は潮の匂いで満ちている。
引いては返すさざ波の音が反響し、砂浜に面した近海を思わせる。
「魔力構造…成形完了…。」
支えも無しで、解放したアイリスは宙に浮かぶ。
ふわふわと揺れ、波に身を委ねるように。
極限まで脱力し、空中に寝ころんだ。
「アイリスさん…?なの…?」
とうに彼女の体は青い半透明となっており、血管も心臓も無い。
…そう。つまり。
彼女の全身は、海水になっている。
「どうしよう…。
アイリスさんを助けないと…。」
カイルは咄嗟に闇の魔法で烏を作り、彼女の深海から逃れていた。
だがパニック状態の脳は変わり果てた彼女の姿を捉え、その混乱をさらに加速させてしまう。
彼は自分自身が引き起こした責任を受け止める事も出来ずに、ひたすらに目元を動かし続ける。
「どうすれば…。
どうすれば…!!」
狂乱に呑まれ、カイルは要らない助けを模索する。
とっくに傷の癒えたアイリスを、助けが必要な危機的状態だと思い込んで。
必死に、彼は救助を試みた。
「待っててよ…!!
僕が、今度こそ助けるから…!!」
決意に満ちたカイルは右手を広げる。
空中での魔力線解放。
右腕に烏を顕現させながらの同時魔法展開。
そして彼にしか出来ぬ神業で、二つ目の魔法は姿を現していく。
────シャアアア、と。奇天烈な鳴き声を立てて。
「────中級魔法、type:大蛇。type:妖烏。
左右同時展開、完了…!!!」
カイルの左手は烏の足を掴み、右手は蛇に変貌している。
もはや人とも言えぬその風貌で、彼はアイリスを救おうと飛び込んでいくのだった。
「─────蛇姦傷、”雪花”…!!」
右腕の蛇はその牙で彼女の首元に噛みつく。
が、それには感覚が無い。
ダメージを与えた手応えも、毒を打ち込んだ喪失感も感じられない。
─────それはまるで、水を掴むような感触だった。
「大丈夫…。
もう、大丈夫だから…。」
浮いたままの彼女は目を向ける。
悲しい表情を浮かべ、水の流れる体表に涙を流して。
もう助からないカイルを、ひたすらに慈しむ。
「助けるよ…!!だから…!!
だから絶対、僕のモノに…!!」
「…もう、止めて…。お願い…。」
ぷるぷると震える身体は葛餅のようで、透明なスライムのようでもある。
「─────蛇姦傷、”雪花”…!!」
「”白夜”…!!」
「”夕刻”…!!」
「”黒死”…!!」
毒の段階と、種類を変えても。
海となった彼女には通じない。
伸び縮みを繰り返すカイルの右腕は今にも千切れそうで、彼の魔力の限界が目に見えるようであった。
「…はぁ…!!…はぁ…!!」
カイルの呼吸は荒く、肌に入った亀裂もじくじくと痛みを増す。
汚染された魔力は不揃いに体内の循環回路を壊していき、やがて人としての形を失っていく。
魔力という、強大な力のオーバードーズは。
いつだってその体を、崩壊させてしまうのだ。
「痛い…!!痛い…!!痛い…!!
嫌だ…!!嫌だ…!!僕は、アイリスさんと一緒に…!!」
─────鱗が、剥がれ落ちていく。
筋繊維が解け、魔力の残滓となって消えていく。
そうして彼は、空中で、腕と足をを放り投げ、為す術も無く落ちていく。
…ボチャン。
地面へと叩きつけられる音は、まるで水に沈み込むよう。
完全に崩壊しきり、あとは消えゆくのを待つだけとなったカイルは、その波打つ地面にプカプカと浮いた。
「………アイ…リス…さん……。」
彼の左右の瞳の焦点は、合っていない。
体からは微かに紫色の煙が立ち上っており、それは彼の肉体だったものである事を明示している。
「ごめん…なさい…。」
彼は黒味がかった血を口に含ませながら、愛する彼女に最後の言葉を伝えていく。
その様子は、海の藻屑となって消える、ある童話の人魚のようでもあった。
「やっぱり僕は…殺したくなんか…無かったんだ………。」
雉崎に化け、アイリスに蛇を咬ませたあの時。
アイリスが辛うじて避けられたのは、彼が少し躊躇ったから。
一瞬の震えが、拒否反応が。
正確だった狙いを狂わせたのだろう。
「もう……謝っても仕方ないけど……。」
贖罪も、自殺だって、生きていなければ出来やしない。
彼女にこんな感情を抱くのはとんだ不相応だと、より深く感じながら。
彼は最後に、ありのままの気持ちを伝えた。
「せめて貴方だけは……幸せに…生きて…………。」
少し、笑って。
純粋だった、あの幼少期の姿を見せて。
─────彼は、アイリスの海の中に、静かに溶けていったのだった。
(ありがとう…。アイリスさん…。
そして、さようなら…。)
「………………。」
カイルの死を見届けたアイリスは、ぼうっと突っ立ったまま。
下を向き、もういるはずの無い海中を見つめている。
その心臓に、いっぱいの、諦念を抱えて。
(ごめん…。私も…。もう限界なの……。)
─────その、言葉と共に。
彼女の衝動は、目を覚ましたのだ。
「……っ!!!ぁああああっ…!!!」
アイリスは懸命に心臓を抑える。
追い込まれ、発現しようとする”それ”を、必死に抑制する。
彼女は死地を脱却する唯一の方法を、出来るだけ安全に行おうとしたのだが。
長時間の魔法展開によってもう、体内の”それ”は発現しかけていた。
(お願い…!!止まって…!!)
もう一人の自分が主張を始めてしまう。
”それ”は強烈に、生きたいと願って今の自分を圧迫している。
世に受け入れられない、日陰者の自分を顕現させろとせがんでくる。
(ああ…。ああ…!!もう、抑えきれない…!!)
ここで折れたら終わりだと、分かってはいるのに。
その衝動は止まらない。壊れない。
─────万能な体を作り出していた”それ”にも、勿論代償はあった。
カイルのように崩壊する魔力の浸食を押しとどめ、上級魔法以上の具現を可能にする彼女特有の物質。
生まれながらにして魔力と共に体内に存在していた、清らかな源流。
”神性”と呼ばれた”それ”は、
使用した瞬間から、自身に途方もない殺人衝動を引き起こすものであったのだ。
「殺したい…!!殺したい…!!
嫌…!!嫌…!!嫌…!!
殺したくないの…!!」
アイリスは独り言を呟いている。
言葉遣いは本人には珍しく、粗さの残る口調。
必死に藻掻く動きは彼女の静けさとは正反対。
神の意志が紛れ込んだ彼女はもう、優しい村娘ではなくなっていた。
「痛い…!!悲しい…!!苦しい…!!
痒い…!!もどかしい…!!ぁあああああ!!!!!!!!」
アイリスは水の上を歩いていく。
地下水道を抜け、地上に繰り出そうと目線を上に向ける。
このテザーニアの首都、ガリベルデ全人民の殺戮を目的として。
(何で…!!私は…!!!
こんな事…!!望んでなんかいないのに…!!)
水の束を持ち上げ、それに乗って上昇する。
すぐ上はもう通常の道路。
民間の人々が利用する、ガリベルデ二番通りに。
─────時間は、もう三時を過ぎている。
しんと静まり返った二番通りに、どこからか水の滴る音が響く。
平民たちはその迫りくる大海に気付くことも無く、未だ寝静まったまま。
そして、煌々と月光が照らす街角のすぐ下。
暗い水の中で、飲み込まれたはずの青年がゆっくりと目を覚ます。
気絶し、蛇の毒に蝕まれ、生死の境をさまよっていたはずの青年。
─────勇者である雉崎一彦が、その瞳を、大きく見開いたのだった。
次回、クライマックスに突入します。




