第十話:幸せとは
汚れた兄から、カイルは「アイリス」の名を耳にしてしまった。
そして彼は兄が頼んだ人攫いの業者を地下道で惨殺し、ついにジェネラリーゼ家に辿り着く。
─────どんな結末が、待ち受けているかも知らずに。
─────暗闇を抜けた先は、月光が照らしていた。
黒に溶けた街並みを眺め、カイルは路地を歩いていく。
水溜めを踏んでびっしょりと濡れたその足で、彼は進んでいく。
地下水道を抜け、二つの通りを抜け、街の外れまでやってくる。
そして野に続く一本道の先にある、ジェネラリーゼの館が彼の瞳に映った。
「アイリスさんは…。無事…?」
よろけながら、彼は小走りで近づいていく。
首を滴る汗と皮脂とが焦燥を表し、血走る眼が衝動を示している。
(僕が、守ったんだって、確かめなきゃ。
ああ。僕が、救ってあげたんだって、言いたいんだ。)
一階のリビング、それと二階の執務室に明かりが灯っていた。
家の奥には森が見え、手前には庭が広がり、そのさらに前には門があった。
(やったんだ…。
僕は、君の助けになれた…。
さあ早く、僕を褒めて、褒めて…。)
庭の芝生は短く刈り揃えられていた。
区画を囲う鉄格子は少し錆がかっていた。
(無事に生きている様子を、見せて…。
僕のおかげで幸せだって、証明させて…。)
門の前には、鍵があった。
ドアの前さえも辿り着けないように、閉められていた。
「アイリスさんは…何処に…?」
彼は門を掴み、隙間から中を覗き見る。
庭の先にある明かりの先を、じっと見つめる。
「僕は、彼女を見たいだけで…」
部屋の中には煌々と明かりが灯っている。
食卓の上にはまだ食べ終わったばかりの皿と食器が幾つか。
室内に人は見当たらない。
半分ほどかけられたカーテンによって、奥のキッチンまでは彼には見えない。
「早く、見せて…!!
僕を、安心させて…!!」
震える手足は格子を揺らす。
とうに充血した眼。
カチカチと音を鳴らす犬歯。
迫りくる痛みと罪悪に耐えながら、彼は彼女を待ち続ける。
─────そして。
ついに、彼の望みはようやく報われた。
「いた…!!いた…!!
良かった…!良かった…!」
少し微笑ましげに現れるアイリスの姿が、瞳に映る。
彼女はいたく幸せそうで、闇夜の中で照る暖かい太陽のよう。
普段と変わらぬ仕草と風貌で、ソファーに座る彼女の後姿を捉えた。
「あはは…!
僕のおかげだ…!役に立てた…!
僕はアイリスさんの役に立てたんだ…!!」
不自然に引きつる頬。
魔法の過剰行使によってただれた皮膚と唇とが痛ましく映る。
(もう家族の事なんかどうでもいい!
僕はあの家を出て、この家に住もう!
主人のジェネラリーゼ様にお願いして、養子になるんだ!)
─────脳にフラッシュバックする記憶。
校舎裏で助けてくれた時の心配そうな顔。
校庭で話した時の少し気まずそうな仕草。
クラスの中で話した時の、あの気高さ。
全てが愛しくてたまらない。
自分を救ってくれる人は、彼女しかいない。
もはや人生そのものを彼女に捧げるために、僕は生きてきたのだ。
…そう、心の底から叫び声が響く。
「だから、僕は貴方の事が…!!」
カイルはそう、言いかける。
アイリスのいる窓際までは約数十メートル。
両者の間を隔てるのは幾つもの鉄柵と広い庭。
そんな到底手に届かない所から、彼は叫ぼうとする。
「アイリ………」
─────声帯が喉を震わせる。
好きだ、と。
その言葉を紡ごうとする。
ただ、遠くに見えるアイリスのために。
…が。現実は、無情で残酷。
今まで彼は、学校以外でのアイリスを見たことがあっただろうか?
今まで彼は、彼女の家庭の話を聞いたことが聞いたことがあっただろうか?
今まで彼は、雉崎と二人で同居しているという事実を知る機会があっただろうか?
もう、結末は見えている。
後はその残酷な今を、彼の瞳に映すだけだ。
─────彼の幻想を打ち砕く、儚い夢の終点へと。
「大丈夫でしたか?アイリスさん。」
カイルの耳を低い肉声がつんざく。
彼女の隣に、少し高い人影が映る。
そして彼女は笑って、ソファーの隣に迎え入れた。
「少し切っただけですので。
今更ナイフの扱いを間違えるなんて…」
「俺もそうですから。安心してください。
ほら、包帯を。」
「ありがとうございます。」
低音と高音とが交差する。
眩い光の中で、ソファーに腰掛けて治療を始める。
傷ついた彼女の指先を、白い布で男が包んでいく。
─────そんな、眩しい光景を、カイルは見つめてしまった。
「ぁ…。何で…?
何で…?何で???
何で???何で???何で???」
いつも涼しい顔を貫くアイリスが見せる、暖かい笑顔。
男女二人が睦まじく会話をする様を、その目で見て。
─────カイルは、発狂した。
「気持ち悪い。キモチワルイ…!!
あいつは…!?アイツは何なんだ…!?」
筋が浮き出、血液が沸騰するかのように怒る。
ぼりぼりと顔を掻き、言いようのない苦しさは勢いを増す。
─────乳母と幼馴染、そしてアイリス。
これで彼にとって、三度目の失恋であった。
「…ありがとうございます。キジサキさん。」
「いえいえ。明日は学校でしたっけ?」
「はい。実技試験というものが、あのコロシアムで。」
「なるほど…。
頑張ってください…!」
「はい。頑張ってきます。」
遠くの彼にも気づかず、会話は滑らかに続いていく。
穏やかな日常と暖かい空気が、其処には存在している。
「…ぁああああ!!!
嫌だ!!嫌だ!!嫌だ!!
もう、見たくない…!!」
カイルは叫ぶ。
悲しみに溺れ、苦悶に滲み、どうやっても報われない現実を呪って。
とうに枯れた喉を潰す勢いで音を発した。
─────宵闇には、霧が立ちこみ始める。
庭の空間はぼやけ、地面は湿り気をより一層増す。
気温が下がり、屋外は一段と冷えていく。
そして庭に通ずるカーテンを閉める雉崎の瞳に、彼の去り際が映りこむ事は無く。
道路に刻まれた懸命な足跡さえも、夜風と霧とが消していってしまった。
そしてカイルの居場所は、もう。
何処にも。
無い。




